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旧オーナー伏木悦郎が 新旧プリウスで哲学!

ここでちょいと歴史のおさらい

プリウスの開発は、創業期を知るミスタートヨタ豊田英二トヨタ自動車最高顧問(95)が発した鶴の一声に始まるといわれている。

「いつまでも同じクルマの作り方をしていていいのか。このままの開発で、トヨタは21世紀に生き残ることができるのか?」順風満帆の『平時』にこそ危機感を抱き、時代の変化に備える。実は英二翁の“鶴一”はこれが初めてではない。会長時代の1983年にも世界に通用するラグジャリーカーレクサスLS開発の檄を飛ばし、トヨタを世界的なブランドに導く道筋をつけている。行動様式は基本的にその時と同じだった。

1980年代末の日本が経験した空前絶後の活況(いわゆるバブル経済:あの時の二十歳もすでに不惑世代になっている)にも浮かれることなく本業中心を貫き、その後のバブル崩壊の混乱の最中に“次代を担う技術”への取り組みとして、ハイブリッドカー開発の先陣を切るリーダーシップを発揮した。

なぜハイブリッドカーなのか……疑問を解くには、初代クラウンの開発で堅い信頼関係を築いた故中村健也氏(“元祖主査”として有名)へのオマージュに言及する必要があるのだが、その話はまたの機会としよう。ちなみにハイブリッドカーは『ケンヤさん』の愛称で親しまれた名物エンジニアが晩年研究に没頭した技術課題である。

プリウスIは、当初の計画を前倒しして発表された。同年の12月に開催されたCOP3(気候変動枠組条約第3回締結国会議=京都会議)を意識し、翌年開催の長野オリンピックにオフィシャルカーを提供することでその存在感をアピールする。当時はまだ海のものとも山のものとも言えない未知の領域に、社運を賭けた思い切りの良さ。すべては創業家のカリスマが突き動かしたものだが、それが現在のトヨタにとってかけがえのない財産になっている。

当初の215万円という販売価格は、21世紀にGOというオヤジギャグ路線で付けられた。そして販売台数を1500台/月程度に絞り、市場でのアフターケアを徹底することでトラブルの芽を小さい内に潰すという、いかにも慎重なトヨタらしい作戦を展開。その経験が、世界的なヒットとなるプリウスIIという果実へとつながって行ったのだった。

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