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日本車最後の砦、ロードスターの改良とは

想いを託したくなるクルマ

ひとりのクルマ好きとして、マツダ・ロードスターを愛してやまず、その上で自動車ジャーナリストとしてこのクルマを深く、強くリスペクトする理由は、そこに自動車が自動車であるための本質が、貫かれ続けているからに他ならない。作り手が掲げる理想の追及と現実との狭間でもがき苦しみながら、いまなお生き続けるその様を眺めていると、全力で応援しようと心から思う。世間のつまらぬしがらみの中にあって、なんとか折り合いをつけながらも真実を追究し、“走り”という自動車の最も本質的な部分に、未だに価値を与えようとする愚直な姿に、我々は何かを託したくなる。

時代が変わり、世の中の価値が様々に変わっていったとしても、このクルマからは絶対に、走りというものの価値が失われず、僕らクルマ好きが触れるだけで笑顔になれる…そんな姿をいつまでも貫き続けて欲しい、という想いを託したくなるのだ。

事実、世の中の多くは今や自動車に“走り”という価値を求めていない。もう少し言葉を加えるなら“動けば良い”というレベル程度にしか気にされていない。いや、百歩譲って価値が求められるとしても、例えばそれは速くて静かで快適で安全で…という文明の利器としての性能。それらはロードスターが追い求めているような走りの中にある、感触や味わいといった人の手の温もりとこだわりから生まれるような種類の、文化の香りがするものとは違う、残念ながら。

しかし“腹が満たされれば良い”“酔えれば何でも良い”と同じで、それだけじゃあまりに寂しすぎる。走りから生まれる、楽しさ、気持ち良さ、喜びといった感覚にこそ、自動車が自動車であるための本質や、真の意味での価値があると僕は信じている。なぜなら現代の自動車は、文明の利器としての速くて静かで快適で安全で…という性能を備えていて当然。そこからプラスαの、そのクルマの、そのメーカーならではの、個性であり特徴がなければ商品としての魅力には欠けるからだ。

しかも発展途上や新興のメーカーならいざ知らず、日本の自動車メーカーは既に長い歴史と伝統を持つ。そうしたメーカーが未だ文明の利器としての当たり前の価値しか提供できないとしたら、それは後続に追い越されてしかるべきだし今後の発展もない。走りに価値を与える独自の表現…これこそが実は本質であり、真の価値である。

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