鉄のカーテンの裏側で
トラバントやラーダのような有名なクルマは、東欧およびロシアの自動車産業の氷山の一角に過ぎない。
【画像】寿命長すぎ! まだ作っているスパルタンなオフロード車【ラーダ・ニーヴァを写真で見る】 全24枚
共産圏の国営自動車メーカーは、限られた資金で何百万もの人々にクルマを提供した。市街地用の小型車、オフロード車、業務用の広々としたバンなど、ニーズは様々だった。海外市場を狙ってデザインを重視するメーカーもあれば、レースに強い関心を示し、時には経験豊富なライバルを打ち負かすメーカーもあった。
今回は、イタリアの遺伝子を受け継いだ地味なエコノミーカーから実験的なミドシップクーペまで、東欧およびロシアの自動車産業が生み出したヒット作、失敗作、そして奇妙なクルマをご紹介しよう。なお、ここに示すのは、ほんの一例である。
ザスタバ750(1955年)
旧ユーゴスラビアのザスタバは1954年にフィアットと提携し、1400というモデルの製造を開始した。しかし、比較的大型で高価だったため、ユーゴスラビアではほとんど売れなかった。そこで低価格路線に転換し、当時新しかったフィアット600の製造ライセンスを取得した。初期のモデルはイタリアから部品を輸送し、現地で組み立てられていたが、需要の高まりを受けて一から製造するようになった。
600はザスタバの管理下で何度か変更が加えられ、それに伴い車名も750になったが、スペインのセアトが製造した4ドア・ボディスタイルほどの極端な改造は行われなかった。最終進化型の850では、最高出力32psの848cc 4気筒エンジンが搭載され、0-100km/h加速29.4秒という性能を持つ。それに対し、初期の600は最高出力21.5psで、0-100km/h加速には1分以上を要した。
タトラ603(1956年)
タトラは自動車デザインの歴史に独自の章を刻んだ。1956年に発表された603は、今日でも通用する空力特性に優れたボディと、乗客用コンパートメントの後部に搭載された空冷式V8エンジンを持つ、非常に先進的なモデルであった。
東欧では、タトラ603は恐怖と支配の象徴でもあった。なぜなら、主に政府高官によって使用されていたからだ。早朝に自宅の前に停まっているのを見たくないクルマである。タトラは一部の車両を輸出したが、キューバのフィデル・カストロがエアコン付きの白いモデルを手に入れたのもそのためだ。
スコダ1000 MB(1964年)
チェコのスコダは1000 MBの開発にあたり、西側諸国に目を向けた。当時、西欧で人気のあるクルマ(フォルクスワーゲン・ビートル、ルノー8、フィアット600など)はリアエンジンを採用していた。同社はフロントエンジン&前輪駆動(FF)、フロントエンジン&後輪駆動(FR)のプロトタイプを試したが、最終的にリアエンジン&後輪駆動(RR)のレイアウトを選択した。FFはあまりにも大胆すぎると考えられ、FRは旧式のオクタビアに近すぎるとの理由で却下された。
1000MBの製造は1969年に終了したが、スコダは1990年までリアエンジン車を作り続けた。
トラバント601(1964年)
旧東ドイツのトラバントは1964年、それまでの600の後継車種として、601を投入した。工場労働者でも購入できるベーシックな乗り物とされ、これといって画期的な点はない。2サイクル2気筒エンジンは先代と同じもので、ボディはデュロプラスト製であった。デザイン的には、洗濯機で縮んだプジョー404のような外観だ。
当局は1970年代初頭に601の後継車を投入する予定だったが、結果的にほぼそのままの形で1990年まで製造し続けた。1989年のドイツ統一後、トラバントの価値とイメージは急落。東ドイツの人々は、西側の高性能で近代的なクルマを手に入れられるようになり、トラバントには見向きもしなくなった。
これにより、東ドイツ中に放置された何千台ものトラバントを処分するという予期せぬ問題が発生した。ボディが金属製ではないため、従来の解体業者では引き取ってもらえない。一部では、家庭用の暖房燃料として溶かすという案も出たが、ある企業では、ボディをわずか20日で食べ尽くす細菌を開発するまでに至った。
ヴァルトブルク353(1966年)
旧東ドイツのヴァルトブルク353は、デザイン面ではそれまでの312と比較して大幅な進化を遂げている。1960年代後半に流行したスタイルに完璧にマッチした、直線的な外観が特徴的である。しかし、ボンネットの中身は旧態依然としていた。開発コストを抑えることに重点を置いていたため、最高出力45psの旧式の2ストローク3気筒エンジンを採用したのだ。
このため、西欧では販売が難しかったが、それでも1968年から1976年の間に、ヴァルトブルクは少なくとも2万台の右ハンドル車を輸出した。353はベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)ではタクシーとしても人気があり、西ドイツでも少数ながら販売された。ラインナップは拡大し、ワゴンとピックアップトラックも加わった。
353は、その長い製造期間中に外観が何度か変更されたが、2ストロークエンジンはベルリンの壁が崩壊するまで変わらなかった。ヴァルトブルクが2ストロークモデルの製造を終えたのは、1989年のことである。
ZAZ 966(1966年)
ウクライナのZAZが製造していた965は欠陥が多く、一から設計し直すことになった。そして1966年に登場したのが、965よりもはるかに優れた966だ。快適で広々としており、エンジンの冷却系統も改善されている。
966は、NSUプリンツとシボレー・コルベアの設計を融合させたような、リアエンジンの2ドア・セダンだ。1971年には968へとモデルチェンジしたが、これこそZAZがずっと探し求めていたデザインであった。968は1994年まで改良を加えながら製造が続けられた。V4エンジンを搭載した最後の量産車として知られている。
ダチア1300(1969年)
1960年代、ルーマニア政府は西側諸国のクルマを現地製造しようと模索し始めた。アルファ・ロメオ、オースチン、フィアットなど、数多くのブランドからの提案を検討した結果、ルノー12が選ばれた。初期のモデルはフランスから部品を輸入してルーマニア国内で組み立てられ、オリジナルの12とほとんど違いはなかったが、まもなく1300の製造をゼロから行うようになる。やがて、ダチアは2ドアおよび4ドアのピックアップトラックやクーペを含む、フルラインナップのモデルファミリーへと発展させた。
ダチアが12ベースのクルマの製造を終了したのは2004年のこと。その後継として、初代ローガン登場した。ダチアは1999年にルノーによって買収されたが、その第一歩となったのが1300だ。今日、ダチアは低価格ブランドとして大きな成功を収めており、2024年の欧州ベストセラー車はダチア・サンデロで、実に27万4202台を販売している。
(画像:ダチア1310)
ラーダ2101(1970年)
ラーダ初の乗用車、2101は1970年にデビューした。評判の良かったフィアット124をベースに、ロシアの過酷な道路状況に耐えられるよう、デザインにいくつかの改良を加えている。具体的には、新しいエンジンを載せ、ボディパネルの厚みを増して錆びにくくし、サスペンション部品を強化した。
2101は一夜にしてロシアの国民車となった。製造は、フィアットがイタリアでの124の製造を終了した1988年まで続いた。その後、ラーダは2105と2107と呼ばれる2台の改良モデルを投入し、2010年代初頭まで製造した。2012年には、124ベースの最後のクルマ、2104を出荷した。
スコダ110 R(1970年)
スコダは1000 MBのクーペモデルを発売したが、Bピラーがないことによる剛性の問題もあり、出荷台数は低水準にとどまった。しかし、1970年にはクーペに再挑戦し、110 Rを発売した。110 Rは110セダンをベースに、ファストバックのようなルーフラインを採用し、よりスポーティな外観となっている。当時の評論家たちは、このモデルに「共産主義のポルシェ」という愛称をつけた。中にはフックス(Fuchs)ホイールを模したハブキャップ装着モデルもあった。スコダは1980年までに110 Rを約5万7000台製造した。
110 Rは、レースを念頭に置いて開発された130 RSの土台となったことでも有名である。130 RS は、1981年の欧州ツーリングカー選手権でBMW やアルファ・ロメオといった老舗メーカーを抑え、スコダにマニュファクチャラーズタイトルを与えることに成功した。
ザスタバ・スカーラ(1971年)
フィアットとザスタバは1971年、提携関係をさらに強化し、4ドア・セダンの128の製造を開始した。1971年後半には、シムカ1100にインスピレーションを得た独自のハッチバックモデルが発売され、ラインナップが拡大した。このモデルは101と名付けられたが、市場によってさまざまな名称(スカーラもその1つ)で呼ばれた。
128の派生モデルは2008年まで製造が続けられた。2008年のベオグラード・モーターショーでザスタバが最新モデルを展示した際には、少なからぬ人々が驚きの表情を浮かべた。 スカーラの最終進化形として、アルミニウム製ラジエーター、アップグレードされた足回り部品、モダンな外観のインストゥルメント・クラスターが採用されたのだ。1970年の欧州カー・オブ・ザ・イヤー受賞車にルーツを持つモデルにとっては、とても大きな変化であった。
ポルスキ・フィアット126p(1973年)
フィアットはさらなる収益を求めて、東欧諸国へとどんどん進出していった。125pのポーランド製造を開始し、124の基本設計をラーダに提供し、ザスタバには128を自社製品として販売することを認めた。そして、ポーランドのFSM(Fabryka Samochodow Malolitrazowych=直訳すると小型車工場)に126のライセンスを供与した。
1973年に製造が開始された126は、ポーランド語で「小さなもの」を意味する「マルッフ(Maluch)」という愛称で呼ばれ、その低価格とシンプルなデザインもあって、ポーランドで最も人気のあるクルマの1つとなった。10年も経たずして、累計100万台を達成している。
西欧では1991年から126の後継車種としてチンクエチェントが登場したが、ポーランドでの製造は2000年まで続いた。126の460万台のうち、約330万台が「メイド・イン・ポーランド」のラベルを貼られていた。
ラーダ・ニーヴァ(1977年)
ラーダ・ニーヴァの設計担当者に与えられたガイドラインは、「ランドローバーのようなシャシー」に「ルノー5のような外観」というものであった。その使命は完遂された。ニーヴァはウズベキスタンの砂漠で徹底的にテストされた後、1977年にロシアで発売された。実用本位の日常的に運転できるオフロード車として、製造コストが安く、維持管理も容易であった。ラーダはジープのようなオープンタイプの試作車もテストしたが、シベリアの冬の過酷な現実を検討した結果、賢明にも屋根付きの設計を選択した。
ニーヴァはあらゆることを経験してきた。世界のあらゆる地域に輸出され、カナダや南極大陸のキングジョージ島でも販売実績がある。2025年現在も製造が続けられており、ラーダ・ニーヴァ・レジェンドという名称で販売されている。
オルトシット(1981年)
オルトシットは2ドアのシトロエン・ヴィザに似ている。実際、ヴィザの関係性はまったくないわけではない。ルーマニア政府が小型の低価格車の開発にシトロエンの協力を要請したとき、同社は古い「Y」プロジェクトの設計図を引っ張り出してきた。1970年代初頭にアミ8の後継車としてフィアットと共同開発したものの、結局日の目を見なかったプロジェクトだ。プジョーがシトロエンを買収した際、コスト削減のため104のシャシーを使用することになったため、Y計画は中止となった。
Y計画は、思いがけずルーマニアで活躍するチャンスを得た。オルトシットのベースモデルには652ccのフラットツインエンジンが搭載されたが、その他の部品はヴィザと共有していない。上級モデルには、GSAのフラット4エンジンが搭載された。シトロエンはルーマニアで製造されたモデルを、欧州の一部の市場でアクセル(Axel)という名称で販売したが、期待を大きく下回る結果となっている。
シトロエンは、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク政権が崩壊した翌年の1990年に、同国政府との提携を解消した。しかし、オルトシットの製造は1995年まで続けられた。
ダチア・スポーツ(1983年)
ダチアは、短期間のうちにルノー12をベースとする多様なモデルファミリーを展開した。セダンとワゴンに加えて、1970年代半ばには2ドアと4ドアのピックアップトラックが追加されている。中でも、最も興味深いモデルは、1983年に発売されたスポーツであった。
平凡なルノー12をクーペに変身させることは、おそらくルノー15/17の製造ライセンスを新たに取得するよりも簡単だったのだろう。ダチア設計による2ドアのスポーツは、低予算かつ後回しで開発されたモデルにありがちな、かなり不格好なプロポーションとなっている。スポーツの最もパワフルなモデルは1410で、1.4Lエンジンにより最高出力65psを誇った。
ラーダ・スプートニク/サマーラ(1984年)
ラーダ・サマーラは、当初は本国ロシア市場でスプートニクという名称で販売されていた。 同名の人工衛星は、地球軌道を3週間周回した後にバッテリー切れとなり、大地に降下したが、このクルマはロシアの販売チャートのトップに急上昇した。
スプートニク/サマーラは、ラーダとしては初めてフィアットの関与なしに開発されたモデルである。フィアットは、ラーダが前輪駆動モデルを製造することを望まなかったと言われているが、その理由は競争を恐れたためだ。ラーダは代わりにポルシェをコンサルタントとして迎え入れ、人気の高いフォルクスワーゲン・ゴルフを含むさまざまなモデルをベンチマークし、国際的に販売することを視野に入れてハッチバックを設計した。
ロシアでは、スプートニクは2012年まで製造が続けられた。西欧でも販売されたが、試乗した人々からは一様に、あまりにもベーシック過ぎるという評価を得た。
ユーゴ(1985年)
米国ではユーゴという名称で知られているこのクルマは、1977年にザスタバ・コーラル(写真)として誕生した。フィアット127の発展型で、より角ばったデザインが特徴だ。東欧のクルマに対して好意的な一部の市場向けに開発されたモデルだが、もちろん米国はその中には含まれていない。
1968年にスバル・オブ・アメリカを設立した実業家マルコム・ブリックリン氏は、コーラルに可能性を見出した。同氏は、エコノミーカーとして輸入していたスバル360に代わる1980年代の新モデルとして、コーラルを導入することにした。ブリックリン氏は米国仕様車の開発を手助けし、それを「ユーゴ」と名付け、1985年に輸入を開始した。当初は非常によく売れたが、その成功は長くは続かなかった。
品質問題に悩まされたユーゴは、米国ではあらゆるジョークのネタにされた。結果的にユーゴ・アメリカは破産を申請し、1992年に販売終了した。
ダチアMD87(1987年)
1410スポーツはその名にふさわしいクルマとは言えなかったため、ダチアはフィアット X1/9の流れをくみ、高性能の低価格スポーツカーに挑戦した。そして1987年、ルノー12をベースに開発されたミドシップエンジン搭載の試作車MD87が誕生。このクルマに関する情報はほとんどないが、当時の写真を見ると、トヨタMR2とランチア037の設計を融合させたようなスタイルであることがわかる。
MD87の進化版であるMD87 Evoは、ポップアップ式ヘッドライトを備えた流線型のフロントエンドを採用し、より空力特性に優れたモデルとなっている。しかし、作られたのはそれぞれ1台のみ。いずれも1980年代後半以降に姿を消している。
スコダ・ファヴォリット(1987年)
ファヴォリットはスコダにとって、まったく新しい時代の幕開けとなったモデルだ。輸出市場を念頭に開発されたフロントエンジン&前輪駆動のFFレイアウトに、ベルトーネデザインのボディを載せた。そして、重要なのは、西欧の自動車メーカーからライセンス供与を受けて製造されたものではなく、スコダ社内で設計されたものだということだ。ファヴォリットは、スコダの競争力を世界に示し、東欧のクルマに対する汚名を返上した。
モデルラインナップには、4ドア・ハッチバック、ワゴン、ピックアップトラックがある。スコダは他にもクーペ、セダン、ホットハッチのバリエーションも検討したが、量産化のゴーサインは出なかった。
ヴァルトブルク1.3(1988年)
トラバント601と同様、ヴァルトブルク353も本来の賞味期限を大幅に過ぎても製造が続けられた。1988年、売れ行きを回復させるための手段としてフォルクスワーゲンから水冷エンジンを調達した。この最高出力58psの1.3L 4気筒エンジンは、第2世代のゴルフの一部モデルと共有されており、1991年4月まで販売された。エンジンの4ストローク化に伴い、フロントエンドもよりモダンなデザインとされた。
トラバント1.1(1990年)
エンジニアや経営陣は601の近代化を求めたが、東ドイツ政府はあらゆる要求を却下した。中には、2ストロークエンジンをヴァンケルユニットに置き換えるという案も上がっていた。政府高官は1980年代にようやく折れ、フォルクスワーゲン・ポロから1.1L 4気筒エンジンを流用した最新モデルの開発を承認した。
新しいエンジンの導入とともに、内外装も変更された。車名はもちろんエンジンの排気量に由来する。トラバントは1990年から1991年にかけて1.1を製造したが、導入時期はあまりにも遅すぎた。トラバントは、自らを生み出した共産主義政府と同様に、すでに破滅の運命を辿っていたのだ。
ラーダ111ターザン2(1999年)
セグメントを跨ぐようなターザン2は、平凡な111ワゴンから発展したモデルだ。独立フレーム、ニーヴァから流用した四輪駆動システム、そして頑丈なオフロードタイヤを採用。その結果、トヨタRAV4やスズキ・ジムニーとはひと味もふた味も違うオフロード車が誕生した。
ラーダはターザン2の製造台数を公表していないが、多くの資料で1000台以下であったと見なされている。今日では、このクルマは存在しなかったかのように無名である。
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