このクルマがなければ今の会社はなかった
自動車メーカーが経営破綻や評判失墜の危機に瀕したとき、たった1台のモデルによって救われることがある。その中には、伝説となったクルマもあれば、自動車業界の基礎を築いたクルマもある。
【画像】会社を救ったヒーロー的なクルマたち【VWビートルやメルセデス300SL、ポルシェ944などを写真で見る】 全80枚
積み重なる赤字、知名度の低さ、平凡で退屈なブランドイメージ……。そんな厳しい現実に直面したメーカーを救った功績は、決して小さなものではない。今回は、そんなヒロイックなクルマを年代順に紹介していきたい。
ベントレーMkVI(1946年)
第二次世界大戦直後、英国では、お金に余裕があったとしても高級車を買い求める人は少なかった。そうした中、ベントレーMkVI(マークIV)は親会社ロールス・ロイスの下、標準化されたボディを初めて採用する。
「スタンダード・スチール・サルーン」として知られるMkVIは、時代にマッチしたエレガントなモデルである。兄弟車のロールス・ロイス・ドーンとともに、独立フロントサスペンション、サーボブレーキ、集中潤滑システムなど、先進的な装備が施されていた。MkIVの販売台数は、ドーンの760台に対して5201台とはるかに多く、次の新型車の開発資金を賄うことができたのである。
フォルクスワーゲン・ビートル(1948年)
フォルクスワーゲンを救ったのはビートルであり、ビートルを救ったのは英国陸軍イヴァン・ハースト少佐である。彼は戦後、フォルクスワーゲン工場の管理者に着任し、生産ラインを再始動。そこで作られたドイツ製の小型車を2万台購入するよう、英国陸軍を説得した。このタイプ1が、その後の空冷フラット4エンジン搭載のビートルの原型となった。
それから販売台数は徐々に伸びていき、工場長のハインツ・ノルトホフが販売網の拡張を開始した。そして1955年には記念すべき100万台目が生産された。これらの販売で得た資金により、フォルクスワーゲンは確固たる地位を築き、現在のような世界的な大企業への道を歩み始めたのである。
ドイツからオーストラリア、ベルギー、ブラジル、さらにはマレーシア、ナイジェリア、アイルランドに至るまで、さまざまな工場であらゆるタイプのビートルが合計2152万9464台生産された。2003年、最後の1台がメキシコでラインオフしている。
フォード1949年モデル(1948年)
フォードは自動車メーカーの例に漏れず、第二次世界大戦後に大きな問題を抱えていた。戦時中はすべての工場が飛行機、戦車、軍用トラック、ジープなどの生産に回されていたが、戦争終結によって軍需品はほとんど必要とされなくなり、一方で復員した兵士たち(消費者)が帰還してきたのだ。フォードは再び自動車を作り始めたが、どれも戦前の設計をベースにしており、時代遅れの感があった。
創業者の孫であるヘンリー・フォード2世は、1945年、28歳でフォードの社長になった。 彼はエンジニアとビジネスアナリストからなる優秀なチームを結成し、新しい1949年モデルをコンセプトから生産までわずか19か月で仕上げた。デトロイトの「ビッグ3」の中でも極めて早い動きであった。
1948年6月の発表当日には、なんと10万台の注文が入った。クーペ(写真)など多彩なボディスタイル、3.7L直6と3.9リッターV8エンジンを用意し、フロントサスペンションは独立懸架で、ステアリングも新しいものが採用された。
1949年モデルは112万台生産され、当時のフォードにとって巨額の利益となる1億7700万ドルを稼ぎ出した。この利益によってフォードは再興を果たし、1956年の株式公開にこぎつけたのだ。
メルセデス・ベンツ180(1953年)
メルセデスは戦後、フォードとはまた違った問題を抱えていた。戦時中、連合軍の爆撃で多くの工場が破壊されてしまったのだ。しかし、メルセデスは廃墟から徐々に立ち直り、再び得意とする自動車の大量生産に踏み切った。そこで生まれた180(W120型)は、シトロエン・トラクシオン・アヴァンを模倣した革新的なユニット構造の、第二次世界大戦後初の本格的な新型車であった。
ただ、180はスタイリングも走りも非常に保守的で、信頼性は高いがスピードは遅い。それでも頑丈な乗用車として27万台を販売し、メルセデスを黒字に押し上げた。しかし、メルセデスの復活を確実なものとしたのは、その次のモデルである。
メルセデス・ベンツ300SL(1954年)
お金持ちのためのクルマづくり。そのためにはブランドに「華」が必要だ。この点において、メルセデス・ベンツ300SL以上の名作はないだろう。
当時、大型車はまだ1930年代のデザインを踏襲しており、小型車も地味な存在であった。そんな中、ガルウィングドアにフューエルインジェクション(燃料噴射装置)、レースの血統、最高速度260km/hの性能を備えた300SLが登場。あらゆる意味でセンセーションを巻き起こし、メルセデスのイメージを一変させた。
1957年に1400台の生産が終了すると、ロードスターがその座を引き継いだ。リアサスペンションの改良、シャシーの剛性アップ、乗り降りのしやすさなどにより商品価値を高め、1856台が販売されている。さらに、300SLの技術は主力量産車にも取り入れられ、メルセデスは先進技術と安全性のイノベーターとしての方向性を固めることになる。
フィアット500(1957年)
第二次世界大戦後、復興に奔走するイタリアでは安価な移動手段としてスクーターが求められたが、フィアット500はそれに終止符を打った。4人乗りで、子犬よりかわいいルックスの「バブルカー」ではない正真正銘の乗用車のおでましである。18年間で実に350万台が販売された。
排気量499ccの小型並列2気筒エンジンをリアに搭載し、メンテナンスが簡単で安価、しかも街中や郊外を駆け回るのに十分な性能を備えている。500がもたらした利益により、フィアットのビジネスの基礎が築かれた。
BMW 700(1959年)
現在のBMWが、かつて潰れかけていた会社であるとは考えにくいのだが、1950年代後半はまさにそのような危機的状態だった。高級車とバブルカーというまとまりのないラインナップでは収益が上がらず、そこで登場したのが700であり、今日まで続く1シリーズなどの量産車の雛形となったのである。
700はBMW初のモノコック構造で、当初はクーペとして発売されたが、すぐにセダンが登場。セダン単独で15万4557台の販売を記録し、クーペとカブリオレは、さらに3万3500台を売り上げた。BMWの二輪車用エンジンから派生した697ccフラットツインをリアに搭載するという個性的な構造であったが、人気は損なわれず、今日に至るまでの成長の土台となった。
ジャガーXJ6 S1(1968年)
ジャガーがスポーツカーで注目を集めたのは確かだが、真の出世作となったのは初代XJ6だ。快適性、ハンドリング、洗練性においてあらゆる高級セダンを打ち負かしただけでなく、競合他社が「なぜこの価格で」と困惑するような価格を実現したのだ。
XJ6発売当時、ジャガーは財政難に陥っていたわけではないが、当時はブリティッシュ・モーター・ホールディングスの傘下にあり、混迷極めるブリティッシュ・レイランドの泥沼時代に両足を突っ込もうとしていた時期でもあった。そんな中、XJ6はジャガーを支え、その派生モデルはシリーズ3 XJ12として1990年代まで続いた。
1972年までに7万8218台が生産され、世界中の顧客に納車されている。「XJ」のラインは2019年までずっと続いてきたが、後継となる電動モデルはリリース直前にキャンセルされた。再びこの名前を目にするときが来ることを期待したい。
AMCグレムリン(1970年)
米国がマッスルカー全盛期に突入するなか、AMCグレムリンは控えめな時代の到来を予感させるかのようなモデルであった。ホーネットのプラットフォームをベースとし、4人乗りで快適性、スペース、走りの良さを備え、米国にサブコンパクトクラスを誕生させるきっかけとなった。また、フォードやGMのライバル小型車を抑えてショールームに並んだ。
グレムリンは3.3Lと3.8Lの直6エンジンを搭載しているので、「小型車」というのは違和感のある表現だが、新しい世代の消費者を開拓し、8年間で67万1475台も販売された。この結果、AMCは1980年代まで独立企業として存続し、クライスラーに飲み込まれるまで自動車を生産し続けたのである。
アルファ・ロメオ・アルファスッド(1972年)
スポーティな後輪駆動車はアルファ・ロメオの定番であったが、アルファスッドは発売前から特別な存在であった。前輪駆動のフラット4エンジンを小さなハッチバックボディに搭載するというアイデアを、フォルクスワーゲン・ゴルフより2年も早く実現していたのだ。アルファスッドという車名は、イタリアの南部ナポリにある新しい工場に由来しているが、そのために品質や耐久性に問題があった。
しかし、アルファスッドはすぐに、優れたハンドリングを持つハッチバックとして評判になる。イタリアでは一躍その名を知らしめたが、他国ではやや馴染みの薄いモデルであった。それでも、11年間の間に38万7734台が販売され、1980年代までアルファ・ロメオの経営を支え続けている。
ホンダ・シビック(1972年)
ホンダがシビックを発売したのは、自動車生産をやめて二輪車に専念しようと考えていた1972年のこと。それまでの小型車は日本以外ではほとんど売れなかったが、オイルショックの影響でより小型で経済的なクルマが求められるようになり、シビックは突如としてスポットライトを独占したのだ。
欧州の強豪フォード・エスコートがまだ後輪駆動で板バネを使っていたのに対し、シビックは前輪駆動を採用するなど徹底的に近代化された小型車であった。3ドアと5ドアのハッチバックがあり、1976年にはシビックと同じプラットフォームを採用したアコードを発売、こちらも成功を収めた。シビックは現在までに2000万台以上販売されている。
フォルクスワーゲン・ゴルフ(1974年)
フォルクスワーゲンはビートルに代わる主力モデルを模索しており、1974年に発表された前輪駆動のゴルフもその試みの1つであった。老舗のビートルが存続する一方で、ゴルフも独自に名声を獲得。ついにフォルクスワーゲンを空冷エンジンの縛りから脱却させた。また、パサートの開発資金を確保するなど、近代化に大きく貢献している。
ゴルフの発売当時、フォルクスワーゲンは資金難とは無縁だったが、ブランドを現在の姿に導く、まったく新しいアプローチの始まりだったのである。ゴルフがなかったら、今のフォルクスワーゲンはなかったかもしれない。
ヴォグゾール・キャバリエ(1975年)
1970年代半ば、ゼネラルモーターズの英国部門ヴォグゾールは衰退の一途をたどっていたが、キャバリエの登場により、ライバルのフォード・コルティナを本格的に追い詰めるほどの力を得た。発売当時、価格は2749ポンドに設定され、「あなたが望むパワー、あなたが必要とする経済性、そしてあなたが気に入る価格」と謳われた。
サスペンションとシャシーの大部分をオペル・マンタと共有しており、そのためハンドリングに優れ、エンジンも質素な1.3L 4気筒から元気な2.0L 4気筒まで幅広く用意された。
英国では23万8980台が販売され、消費者の愛国心をくすぐるために多くが国内(ルートン)で製造された。ヴォグゾールの法人向け販売を軌道に乗せ、後継のベクトラが登場するまでの20年間、ブランドの大黒柱となった。
ダッジ・オムニ(1978年)
ダッジの親会社であるクライスラーは1970年代半ば、やや苦しい状況にあった。商品力のある小型車がなく、AMCグレムリン、シボレー・ヴェガ、フォード・ピントにサブコンパクトクラスの座を奪われていたのだ。そこで欧州に目を向け、即席の対抗馬としてタルボット・ホライゾンを米国向けに改良・導入できないかと考えた。
ダッジはタルボットの欧州志向のエンジンを捨てて、1.6L、1.7L、2.2Lのガソリンエンジンを搭載するオムニを開発した。また、走り好きのドライバーを満足させるために、ターボチャージャー付きの2.2Lエンジンも用意した。
クライスラーの経営陣もオムニの販売台数に満足しており、生産終了まで好調を維持した。不思議なことに、オムニが米国で発売されると同時に、破綻寸前のクライスラーが欧州事業を売却したため、タルボ・ホライズンはPSAグループ傘下のモデルとなった。
オースチン・メトロ(1980年)
メトロは、低迷するブリティッシュ・レイランドが新会社オースチン・ローバー・グループに切り替わったのと同じ時期に発売された新型車であり、新たなスタートの象徴でもあった。ミニを補填するモデルとして、広いキャビンと適切なハンドリングを備えている。
メトロの廃止後もミニは生産が続けられたため、メトロを「不作」とみなす向きもあるが、オースチン・ローバーの足場を固めたことは確かだ。1980年代には、英国でベストセラー車のトップ3に常にランクインし、ダイアナ・スペンサー夫人(ダイアナ妃)がチャールズ皇太子との結婚を前にハンドルを握る姿が目撃されたこともある。国内だけで100万台以上が販売された人気車種である。
クライスラーK(1981年)
1978年、クライスラーはサブコンパクトクラスのダッジ・オムニによってひとまず危機を脱したが、1980年代初頭にはまだまだテコ入れが必要だった。そこで登場したのがクライスラー・ルバロンやダッジ・エアリーズなどの「Kプラットフォーム」シリーズであり、クライスラーに救いの手を差し伸べ、財政の安定化に貢献した。
オムニのプラットフォームを発展させたKプラットフォームは、米国の中流階級向けにまずまずの性能と経済性を提供した。エンジンの出力は86psから224ps(ダッジ・マグナム)まで、幅広いレンジが用意された。Kプラットフォームをベースにしたモデルは最終的に50種類以上となり、1980年代を通じて200万台以上が販売され、クライスラーは資金難から解放されたのである。
ポルシェ944(1982年)
ポルシェは、主力モデルの911と928、そしてエントリーモデルの924の間のギャップを埋める新型車を必要としていた。そこで登場した944は、さまざまなタイプで16万3280台が販売され、924の販売台数を大きく上回った。ポルシェはこの功績により、ボクスターをはじめとする1990年代の新型車を開発することができたと言える。
944の素晴らしさは、911や928よりもはるかに幅広い顧客層に対して、パワー、アグレッシブさ、ハンドリングを的確に提供したことである。ターボやカブリオレを追加することで魅力はさらに増し、1991年には大幅に改良された968にバトンを繋いでいる。
ボルボ700シリーズ(1982年)
安全性、耐久性といったイメージの強いボルボに、高級志向の740と760が登場。瞬く間にメルセデス・ベンツのステーションワゴンに代わるエグゼクティブモデルとなった。広大なトランク、銀行の金庫が薄っぺらく見えるほどの造りの良さは当然として、予想外だったのは、その運転のしやすさである。
後輪駆動のシャシーに活発なエンジンが組み合わされた740と760は、エンターテインメント性に富み、ターボチャージャー搭載モデルは0-97km/h加速が8.0秒と、そこそこの速さを誇る。生産が終了し、900に引き継がれるまでに、123万台の700シリーズが世に出ている。資金源となるだけでなく、現在のボルボの高級なイメージへの道を開くものであった。
プジョー205(1983年)
ピニンファリーナがスタイリングを手がけた205が発売されるまで、プジョーのラインナップは堅実なモデルで占められていた。205はたちまちプジョーの「華」となり、309や405など、数々のヒットモデルを生み出した。優れた走行性能、広い室内空間、ランニングコストの低さなど、その人気の理由は容易に理解できる。
現在では、クラシックカーとして205 GTIが脚光を浴びているが、ベーシックモデルは当時250万台以上を売り上げ、プジョーが必要とするキャッシュをもたらしたのである。
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