【クルマ小説】僕は新人トップセールス vol.5「帝国ホテルのコーラフロート」
掲載 更新 carview!
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僕は平成12年頃に中古車屋のニイチャンを1年くらいやっていた。雇ってもらって5ヶ月目になる頃。
「日本○×銀行の狭山と申しますが」
狭山さんは、電話の第一声から自分の「立場」を強調して言ってきた。ある種のステータスのある人にとって、自らの身元を臆することなく明かすのは、ある意味で名刺代わりのようなもので、逆に僕のような凡人には出来ない振る舞いである。
こういうタイプのお客様、つまり、社会的地位のある階級意識のある層に、新人営業である僕は成果を残すことが出来ずにいた。僕のお客様、お得意様筋というと、やはり個人事業主やフリーランス、中小企業の社長が圧倒的に多数だった。だから、いい予感はあまりしなかった。
銀行のお偉いさん、ということだけはすぐにわかった。声の張り、自信のある口調、ビジネスライクで端的な会話。かなりのやり手ではないかと想像できた。企業や社会でそれなりに実力があり、上り詰めていくような人というのは迫力があるし、また、そうしたものを身に付けないと登っていけない、堂々とやらなければ社会では成功しない、そういうことなのだろう。僕の生き方はその逆だった。
横浜の場末の中古車屋、だけど、並んでいるクルマは珠のように輝き、素性の優れた超のつく優良中古車ばかりであったから、店舗の設備投資にケチってボロく見えても、目利きにはハッキリとどういう商売をしている店であるかはわかってもらえる、それが僕らの売りだった。だから、お客様の層は確実にハイオーナーであり、かつ社会の常識や安っぽい見てくれだけで繕った商売を簡単に見抜く力を持った方々であることが多かった。その意味では非常に良い社会勉強になったと思う。
でも、エリートサラリーマンという人種は苦手だった。自分がサラリーマンに向いていなかったからだと当時から思っていた。だから、狭山さんを担当することになったとき、その苦手意識を知っている社長に睨まれた。
「オイ前田よぉ、ここらへんでバシっと、決めとかないとなぁ。狭山さんと昨日電話でお話して、帝国ホテルでアポとったからな、オマエを向かわせるって言っといたから」
普段は店舗営業でコツコツとお客様を対応していた。その中でもエリートサラリーマンのお客様との商談がことごとくスベっていた入社半年の僕。そんな時に銀行のお偉いさんである狭山さんは、商談場所になんということか、帝国ホテルのオフィスルームを指定してきた。これはマズい。いつものラフな格好では臨めない商談になる。面接時に買った紺色のコナカのスーツを引っ張り出した。社長からのプレッシャーも感じていた。失敗はできない。
狭山さんご指定の、メルセデスE320ワゴンの西暦2000年、当年モデル、ということは、サイドミラーにウインカーが付くようになった始めの頃のモデルである。お決まりのシルバーメタリックで、内装は黒革、サンルーフにナビも標準のサードシート付きモデルである。このサードシートが今回の商談の大きな決め手になるとは、この時は思わなかった。
帝国ホテルまで、メルセデス日本仕様のナビゲーションを使ってなんとか到着した。首都高が要人警護とかでやたら混雑していて、時間に間に合わないかと思ったが、緊張している時というのはむしろ足が速くなるもので、予定よりも早く到着してしまった。喫茶店で珈琲でも飲んで待つか、いやいや、そんな雰囲気ではどうやらない。間接照明にモフモフの絨毯。足を踏み入れると毛足の長い絨毯が僕の足の直進性さえ奪おうとする。いや、それは緊張しているからなのか、わからない。完全に舞い上がってコナカの紺スーツの脇の下はびっしょりだった。
なんとかロビーで落ち着いて、時間が来るのを待つ。事前に作ってある見積もりと契約書の書式を確認して、電卓と、朱肉と、車庫証明の用紙、恐らく持ち家だから自認書の用紙、とやっていると、買ったばかりのピッチ(PHS)が鳴った。
「ああ、前田さん?いまどこだい?」
こっちの極度の緊張がピッチの電波に乗っかったのかもしれない、狭山さんは努めて明るい印象で話しかけてくださった。こういう意表を突く喋りで来られると、余計に緊張が増した。額に汗がドッと吹き出る。耳は真っ赤だ。
「ハ、ハハア!い、いま、、ロビーにおります!」
と言ってしまった。かなりの舞い上がり方だ。モフモフの帝国ホテルの絨毯に革靴が沈む。心臓のパルス上昇、目は踊る。心のダッチロールは既に開始されていた。これはもうダメかもしれない。そう思った。
「あぁそうか!じゃあ本館5階の501号室ね、ルームサービスで冷たいもん頼んだから、ゆっくり話聞かせてくださいよ、ね!」
どう考えたって向こうのペースである、というか、もう最初から。
ベンツの商談、というより自分の面接のような気持ちだった。手に汗握るどころか身体中汗だくで、モフモフの絨毯が足をヨロケさせる。心の中はダッチロール、もはやどこに墜落してもいい、そういう心境だった。
酔っ払ってもいないのに汗だくの千鳥足で狭山さんの仕事部屋に辿り着いた。ノックをするとドアは開かれ、小柄で小太り、でも銀行マン特有の一目で他人を納得させる迫力のある面持ちとポマードの匂いに、僕はこれから死刑台の部屋にでも立ち入るかのような思いでヘロヘロになりながら敷居を跨いだ。
しかし、テーブルに用意されていたのは意外にも、コーラフロートとメロンクリームソーダだった。テーブルの真ん中にはカルビーのポテトチップスが袋の真ん中から無造作に開かれて、準備万端だった。
「前田さん、たぶん若いと思ったからさ、こういうの、好きだろ?コーラ?メロンソーダ?どっちか選びなよ、な!」
狭山さんはそう言って、銀行のバッジのついたブレザーをサッと脱ぎ捨て、腕まくりをして僕を席に着かせてくれた。
コーラフロート、メロンクリームソーダ・・・帝国ホテルにこんなメニューはあるんだろうか・・・
「いやぁ実は僕も好きなんだよ、こういうの。よく無理言って頼むの(笑)」
デキる人とはこうなのか。またも意表を突かれた。商談の書類をビシッと揃えて、総額700万円近くになる取引のための準備が整っているのかと思いきや、僕の緊張を既に予測して、ポテチやコーラフロートが並べてある。完全に狭山さんのペースだ。この心遣いこそが一流だと思った瞬間だった。凄い。
そのおかげで僕の緊張、心のダッチロールは「アンコントロール!SOS!」状態を脱することが出来た。少し緊張の糸がほぐれたのが自分でもわかった。
こうなったらペースを取り戻して、いつものようにやるしかない。ポテチにコーラフロートの商談なんて、後にも先にもこの一回だった。
狭山さんはついさっきまで銀行で大事な取引の商談で大変だったことに始まり、遠からず昇進して役員クラスの地位に就く内示が出ていること、その頃はまだ空き地ばっかりだった豊洲にマンションを購入したことなど、嬉しそうに話してくれた。今乗っているのは平成3年式、当時9年落ちのトヨタ ウィンダムのV6、3リッター車でグリーンの車体に本革内装、当時住んでいた甲州街道沿いにあるトヨタカローラの中古車店で238万円で買い、それが自分で買った最初のクルマだという。
銀行マンって意外と堅実なんだなと思った。普通なんだなと。お金を扱う職業だからといってお金にまみれてはいるが、その分、お金の使い方をわきまえている、当たり前かもしれないが、そんな人物像が見て取れた。意外と僕らと感覚は近いのかもしれない。
「それがさあ、この歳で・・・」
なかなか止まらない身の上話。さあ、次は何が来るのか・・・
「子どもが増えるんですよ。しかも双子!!」
お歳は伺わなかったが、40歳代半ばとお見受けする、白髪もちらほら生えているような方だったが、たしかに双子が生まれるというのは、彼にとって予想外のことだったかもしれない。そして、とても嬉しそうだった。先に書いたように、昇進もあり子宝にも恵まれ、狭山さんはかなりの祝賀ムードということがわかった。
「こう見えて今まで苦労もあったからね、ベンツは自分へのご褒美みたいなものだよ」
狭山さんはそう言って実印を取り出した。まだクルマも見ていないし、僕がテーブルのポテチの横に広げたのはご提案書段階のいわゆる御見積書だ。
「いやいや、契約書はこれからお作りしますし、お車も是非ご覧になって下さいよ」
「なに言ってるんだ、そんな必要はない。キミの店の商売ぶりは聞いてますよ。それに、キミを見ていれば、その必要はない、僕はそう直感してましたよ」
銀行マンとして数々の折衝や商談、お金と信用に身を粉にしてこられたかたの含蓄ある、そして最高級の僕と僕らへの褒め言葉だった。
「いやぁ、なんと申し上げたらよいのか。今日もこちらに参ります時に、このようなホテルなどなかなか来ることはありませんから、ふかふかの絨毯に足を取られたりしまして、冷や汗は止まりませんし、どうなることかと思っていましたが・・・」
こちらも正直に話した。
「キミも正直なヤツだな(笑) コーラフロート、おかわりしようか!」
それが運ばれてくるまでに正式な契約書を作ってよ、値引きなんかしなくていいからな!といって、狭山さんは一本仕事の電話をかけ始めた。「ああキミ、例の件その後の進捗はどうなっているかね?ん?」・・・その口調はやはり厳格で端的、じつに説得力に満ちたベテランの域に達しつつあるビジネスマンそのものだったが、この硬軟の使い分けが、狭山さんという人をのし上げたひとつの原動力なのかもしれない、そう思った。そう、人心をつかむ力に非常に長けた人なのである。
ウィンダムは下取り。クルマは見ていない。向こうがそうなら、こちらもそれで行く。こういう時に妙に肝が据わるのは、僕の勝負師としての資質かも知れない。そして、会社で僕からの連絡を待っている社長に下取り車の情報を伝えると、社長も「この商談は決まる」と思ったらしい。即座に中間マージンを差し引かない、オークションの実売価格を契約書に載せるように指示してきた。ふつうなら、見てもいない下取り車、修繕のリスクなどを考えた値段に「買い叩く」ものだが、ここもウチの社長の勝負師なところである。
契約書はベンツ本体に諸費用で758万円になったが、先の下取り車を差し引きして、ジャスト700万円という金額でまとめさせていただいた。値引き欄には何も記載していない。
「これ、ちょっと安くないかい?」
「いいえ。弊社は薄利多売によりお客様のご信用を頂くことをモットーとしております。ご要望のとおり、値引き欄には何も記載しておりません」
「そうか、よし、わかった。」
まるで、銀行の決済書に印を突くように押印。狭山さんはベンツを買ってくれた。
運ばれてきたコーラフロートが乾いた喉に染み渡る。コーラに浮いたバニラアイスの香りがそこらのファミレスと同じではない。ここは名門、帝国ホテルなのである。
狭山さんがベンツを見たのは納車の時が初めてである。豊洲のマンションまでお届けしたら、お腹の大きくなった奥様や小学生くらいの女のお子さん、上品な白髪のお母様まで出迎えてくださった。
これからふたりの赤子の姉になるお嬢ちゃんは「私ここで後ろのクルマに手を振るの!」といって、後ろ向きのサードシートに乗ってはしゃいでいた。狭山さんはそれを見てニコニコして上機嫌だった。「お姉ちゃんためにこのイスが付いてるのにしたんだぞ」。
続いて奥様。「あなた、これ新車じゃない?大丈夫なの?」
「いいんだ、もうそういうことは気にしなくてよくなるんだから」
つまり、銀行でも一般職クラスでは乗るクルマに暗黙の制限があったようだ。上司のクルマを追い抜いてはいけない、でも、それなりのステータスは必要。しかし狭山さんはそうした縛りからも解き放たれた開放感を感じていたようだった。
まさに、自分へのご褒美、という感じだった。
クルマを商売にしているとこういうシーンに多々遭遇する。そして、そのほぼ100パーセントで、オーナーの幸せな顔を見ることができる。それは、そうではない商談も世の中にはあるのかもしれないが、僕にとってこうしたシーンが多かったと感じているのは、ひとつに扱っているクルマが中古車として素晴らしく、会社も真面目な取引で堅実に信頼を勝ち取っていたこと、そして、手前味噌だが、僕という営業マンがそれなりの素質をもっていたから、なのかもしれないと思う。仕事をしていて「お客様に気に入っていただいている」という感覚、手応えもあった。そうでなければ、こうした良いお客様との良い商談、出会いに恵まれることはなかったと、今になって思う。いい仕事をさせてもらったと、感謝している。
そして僕にとっても納車時に初めて拝見する下取りのウィンダムはまだ距離も浅く非常に美しい状態を保っている。すこしホッとした。したがってオークションで転売することなく、店で売ることにした。下取り車の状態が素晴らしいというのも、僕が入ったこの会社の取引上、きわめて特徴的なことだった。普通はそうはいかない。程度の悪い下取りをどうするか、と悩むことも多いのだが、この会社、店ではそういうことは殆どなかった。珍しいことだった。
ウインダムは店頭販売します、そう狭山さんにご連絡し承諾をいただく。
「ああ、かまわんよ。キミたちの思うように取り扱ってください、十分儲けなさいよ!」
最後までさりげない気遣いを忘れない大手銀行役員、狭山さんなのであった。僕は狭山さんとお会いして、「サラリーマンもいいな」と、遅まきながら見直した。
今でもあのときのコーラフロートの味が忘れられない。
(文章:前田恵祐/イラスト:田中むねよし)
【この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません】
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