ホンダ シティ のみんなの質問

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マクラーレンはどういう経緯でメーカーになったのですか?

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経緯ですか・・・長くなりますよ。

※元々は、『ニュージーランドの英雄』ブルース・マクラーレンが作った自分の為のプライベートチームが『マクラーレン』で、ブルースがマシンテスト中に事故死した後は、親友のテディ・メイヤー、テイラー・アレクサンダーなどがチームを切り盛りしていました。
が・・・1976年にジェイムズ・ハントがワールドチャンピオンになって以来、数年低迷が続きます。

※それに付け込んだのが、ヨッヘン・リント(1970年、モンツァで事故死後にワールドチャンピオンになった、ロータスの伝説的ドライバー)の専属メカニックだったロン・デニスという人物です。
彼はメインスポンサーのフィリップ・モリス社(マールボロ・タバコ)に『入れ知恵』してマクラーレン低迷の責任を追及させ、ブルースの友人達を更迭、ロンを中心とした『プロジェクト4』がチームを乗っ取りました。

※それとは別に。
クルマが2台しか並べられない馬小屋からスタートし、一代でロータス社を築き上げたコーリン・チャップマンというヒトがいて、『シティ』(日本の兜町に相当する、証券会社がひしめくロンドンの一区画)では『立身出世の人物』として英雄扱いされています。日本だと本田宗一郎、ドイツだとフェルディナンド・ポルシェ、米国だとヘンリー・フォードに相当する様なヒトです。
ヨッヘンのメカニックだったロンも当然ロータスにいたワケで、社長兼監督のコーリンにものすごく影響された様です。結果、ロンもコーリンの様に『F1チャンピオン』のまま市販スポーツカーを生産するという野望を持ち、マクラーレンのF1活動が軌道に乗ったところで動き出します。

※ロンはTAG(テクニカル・アヴァンギャルドという技術系の投資ファンド)にマクラーレンを売り、見返りに出資させてマクラーレンの市販車部門を作りますが、今度はアラブ系の石油資本と接近し、市販車部門を(マクラーレングループに残したまま)別会社として切り離し、CEOに収まります。
これでロンは、『終の棲家』としてスーパーカーメーカーをウマウマと手に入れたワケです。

・・・これが現在のマクラーレングループの市販車部門、『マクラーレン・オートモーティブ』です。
尚、ロン・デニスは何度かマクラーレン・グループCEOから外されたり復帰したりを繰り返し、最後は業績悪化の責任を取らされてグループ全体から離脱しました。(石油資本の工作によるもの、という説が有力です。)

正直なところ。
ブルース無き後のマクラーレンチームを支えたテディ・メイヤーとチーフデザイナーのゴードン・コパック(ロータス72と共に、’70年代前~中期のF1マシンの最高傑作とされるマクラーレンM23のデザイナー)のファンだったワタシは、チーム乗っ取りから40年後、株主総会の決議でロンがグループの全ての役職をはく奪された時、『ざまぁみろ』『これこそ因果応報』と思いました・・・。

ところで最後に全くの余談ですが。

ロン・デニスはヨッヘン・リントのメカニックとしてロータスで働いていたわけですが、一方ヨッヘン・リントの個人マネージャーはあのバーニー・エクレストンで、ロータスのF2チームの監督もやっていて、コーリンのマネージメント手法を間近で見ていました。

一介のプライベーターを自動車メーカーにまで発展させたロン・デニス、FOCA(F1製造者組合)の代表にして『F1界のドン』『F1の富の40%を手にする男』などと呼ばれ、英国の長者番付に毎年リストアップされるほどの高額所得者となったバーニー・・・2人とも、コーリン・チャップマンから経営手法を学んだ『コーリンの弟子達』です。
コーリン・チャップマンがシティで『伝説の英雄』とされるのも、もっともな話です。(なにしろコーリンは、あの『デロリアンDMC-12』製造に絡んでマーガレット・サッチャー首相から莫大な補助金を引き出した人物であり、あらゆる政敵やエリザベス女王、更にはアルゼンチンすら打ち負かした『鉄の女』サッチャーが、唯一『騙された』のがコーリンでした・・・。)

その他の回答 (3件)

  • wikiのマクラーレンのあらましから。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/マクラーレン

    もともとマクラーレンはレーシングドライバーのブルース・マクラーレンが自分のレーシングチームを結成して車両を開発・製造し、レーシングカーの市販までしたところから始まっています。1960年代のこと。

    ブルース・マクラーレン自身は、F-1の他にも各種のレースに参戦しており、1966年にフォードGT40Mk.IIをクリス・エイモンとドライブし、フォードに初めてのル・マン優勝をもたらしたドライバーでもあります。

    アメリカの2座席レーシングカーレース・CAN-AMでは、1968年シーズンにエントリーしたマシンの半分がマクラーレン製でした。
    https://en.wikipedia.org/wiki/1968_Can-Am_season

    またブルース・マクラーレンは自身の車でのル・マン挑戦を目指して、CAN-AMカーのM6Aに屋根をつけてホモロゲーションを取ろうと画策したことがあります。レース出走はかなわず、ブルースのロードゴーイングカーになりました。
    https://en.wikipedia.org/wiki/McLaren_M6A

    ブルースが事故死した後、マクラーレンはF-1専業になりますが、1980年代にチームの経営がプロジェクト4に移った後、マクラーレン・ホンダでF-1を席巻したとき、チーム代表のロン・デニスとデザイナーのゴードン・マレーが市販車を開発するプロジェクトを立ち上げ、マクラーレンF1が生まれます。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/マクラーレン・F1

    その後マクラーレンはメルセデス・ベンツの市販車SLRを開発・製造し、2010年代にマクラーレン・オートモーティブを始動して、スーパーカー製造販売事業を本格的に行なっています。

  • 経緯って言うか、
    創設者ブルースマクラーレンには、
    市販ロードカーを作るって野望があったものを、
    90年代の代表、ロンデニスさんがチームが絶好調でウハウハって事もあって、
    遺志を継ぐカタチで最初のロードカー、
    マクラーレンF1の開発、販売したから。

  • 元々はF-1ドライバーが興したレーシングコンストラクター(F-1チーム)です。
    その後、アイルトン・セナやアラン・プロストを擁してトップチームに上り詰めました。
    その名声を元に、市販車プロジェクトを立ち上げたのが市販車メーカーのマクラーレンの始まりです。

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