マクラーレン セナ のみんなの質問

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高橋徹(享年23歳)というレーサーについて。
僅か22歳の若さでステップアップした1983年・全日本F2選手権の開幕第1戦でいきなりの2位と、かなり将来を期待されたドライバーです。

しかし、その年の富士グランチャンピオンレース最終戦、星野一義に続いて2番手を走行中に最終コーナーで大クラッシュ。残念ながら帰らぬ人に。この時、弱冠23歳でした。

鈴木亜久里は「徹が生きていたら、絶対にF1に乗ったはず」と言っているようですね。実際にラップタイムは、鈴木亜久里よりも高橋徹のほうがたいてい速かったみたいです。

この鈴木亜久里も結構F1で活躍しましたが、当時、F1界には高橋徹・鈴木亜久里と同じ1960年生まれのアイルトン・セナというドライバーがいました。もし高橋徹がずっと健在で、F1カテゴリーに上りつめていたとしたら、それは何歳から何歳までで、どのくらいの成績を残したと思いますか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

恐らくは、まずは海外のF3、F2でレースを経験を経て既存するチームの人に認められるような成績を納めないといけませんので、日本のレース並に活躍すれば早くて26歳くらいの年齢でF1の昇格する可能性があれば良いのですが、ホンダのバックアップして貰えるだけの実力を得られなければなりませんので、28歳から35.6歳くらいのF1でのキャリアになるのではと思います。

質問者からのお礼コメント

2018.9.18 16:32

たくさんの回答ありがとうございました!

その他の回答 (9件)

  • 高橋徹さん、萩原光さん、村松栄紀さん、皆さん不幸なアクシデントで他界されました。
    三人共に生きていればF1に乗れていた人です。

  • ↓1983年 全日本F2選手権シリーズ 第2戦 富士

    https://i.imgur.com/gF0H8Pp.jpg

    先頭立とうとしてるのが彼です。

    そのGCの事故の時まさに見に行ってました。

    家に帰ってきてからTVニュースで死亡したの知りました。

    F2 初戦の鈴鹿でいきなり2位に入賞して。こりゃえらい新人が登場したなって思いましたね。

  • 「ウイングカーの申し子」トオルの後にヒーローズに復帰移籍したのが中嶋。
    トオルが亡くなる事無く、
    契約のややこしさは置いといて、
    ヒーローズに残留し、
    同じホンダエンジンの供給を受けて、
    中嶋と同レベルの走りをしていれば
    ホンダがF1ドライバーに選ぶのは、
    中嶋より7歳ほど若いトオルだったかも知れない。
    当時でも、中嶋の34歳でのF1デビューは、
    年齢的にちょっと遅いと言われていました。
    その後も、
    F1キャリアの終盤は、
    加齢による衰えに苦心した中嶋よりは、
    幾ばくかは長く活躍出来たかも知れない。

    一般紙にも名前が出るくらい、
    「高橋徹」のスター性は高く、
    バブル景気を待たなくても、
    1人で日本にモータースポーツブームを引き起こすくらいの可能性を秘めたドライバーでした。

    あんまり、タラレバの話は好きでは無いけど、
    高橋徹が事故死したことは、
    日本のレーシング界と歴史の大きな損失、
    ターニングポイントだったと思います。

  • 誰にもわからないということでしょう。
    確かに才能はありました。ですが時代が悪かった。まだF1でホンダも確固たる地位を築いてなかった上に日本人はF1はおろか、ヨーロッパのF2やF3に本格参戦する者さえいない時代。日本のF2など東洋の島国でやってるローカルレースくらいの扱いでチャンピオンになっても評価なんかされていません。後にF1ドライバーとなる中嶋 悟がスポット参戦や日本との掛け持ちでなんとかヨーロッパのF2やF3000に参戦していたくらい。ホンダが中嶋の代わりに高橋 徹をワークスとして抱え込んだら話は別ですが、あの時代ホンダのバックアップのなかった高橋 徹の1参戦は考え辛いです。その後のバブルに乗ってF1参戦があったかもしれません。

  • ヨーロッパではこのクラスのドライバーは多数います。
    ヨーロッパ各国のF3000.F-2.F,ルノー、F-3等でチャンピオンもしくはそれに該当する成績を残したドライバーが資金を用意して初めてF-1ドライバーになれます。
    日本で星野さんを追いかけて無理をした結果クラッシュして他界してドライバーですからここの時点でF-1には呼ばれないドライバーでした。

    亡くなってしまった、ドライバーに対する社交辞令として高橋徹さんはF-1に行けるドライバーと言う言葉が聞かれたと言う事です。

    回答の画像
  • いきなりの2位という事もあって、才能はピカイチだったのかもしれませんが、当時はヒーローズレーシングという日本のトップチームに所属し、BMWからワークスエンジンを供給されていた体制でしたからね(体制的には星野さんよりも良い)。しかし、シリーズを通してみると星野さんに負けてましたからね。
    経験不足と体力の無さが原因ではなかったかな?と思います。
    仮に、後々F1に上がれたとして?
    後にF3でセナ並みの成績を残してF1に上がった佐藤琢磨さんでしたが、バトンに負け続た例もありますからね。
    もしもの話などは言えません。

  • そもそも高橋がF1まで行けたか?
    微妙かもしれません。

    「コネ」という意味では亜久里は父親の代からヤマハや無限(本田博俊)とつながりが強く、それらのサポートでF1を戦いましたが、高橋にはそういったバックグランドがありませんでしたから、80年代中盤に星野、中嶋、松本、長谷見といったメンツを相手にどんな実績を作れるかによるでしょう。

    ただ当時のF1界を考えると、やはり中嶋がF1に行ったことで道が開け、そこに亜久里が続くのは変わらないと思います。
    その次のチャンスというと、91年の服部尚貴のスポット参戦は別として、92年の片山右京デビューのところに入れ替われるかどうかといったところですから、結果も推して知るべしですね。
    そもそも若い右京に勝てないかもしれませんし。

  • 実力的には、亜久里の評価通りだと思いますが、
    F1に乗ったか、通用したかは微妙です。
    一番の可能性は中嶋の代わりですが、経験がなく
    代役として開発にあたるには力量不足で×。
    あとはバブルマネー次第なので、どこかの誰かの
    代わりに参戦したでしょうね。
    で、活躍できたかですが、残念ながら活躍できる
    ようなクルマに恵まれたドライバーは居ないので、
    彼が参戦しても同様の成績だったと思われます。

  • 当時の日本(日本人)ではF1は夢のまた夢。
    中嶋悟がF1に行けたのは当時のホンダのおかげ。

    死んでしまったヒーロー(自分的にはね)が生きていたら!?
    と考えても何とも言えない・・・


    *萩原光も忘れないで!

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