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後世に語り継ぎたい「日本クルマ界 歴史の証人」日産カーデザイナー 松尾良彦【VOL.1】

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後世に語り継ぎたい「日本クルマ界 歴史の証人」日産カーデザイナー 松尾良彦【VOL.1】

自動車業界およびモータースポーツ勃興期に活躍され、功績を挙げた先輩方に語っていただくベストカー本誌にて連載中の「クルマ界歴史の証人」。その人気連載企画をベストカーwebに転載することと致しました。

第一回目は2019年に誕生50周年を迎えたエポックメイキングな名車、初代フェアレディZを採り上げます。いつの時代も最新Zのデザインに大きな影響を与え続けてきたS30Zのデザイナー、故松尾良彦氏を3回シリーズにてお届けします。

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第1回目は、誕生から52年を迎えるフェアレディZの初代モデルのデザインから商品企画まで担当した松尾良彦氏。幼少期より流線型に興味を持ち、大学で工業デザインを学び、ついに日産自動車に入社しカーデザイナーとしての道を歩み出した松尾良彦さんの幼年期からの生い立ちを追います。

INTERVIEW/佐藤篤司
写真/佐藤篤司、松尾良彦、日産自動車、ダイハツ
初出/ベストカー2019年6月10日号
※内容は2019年5月当時のものです。

松尾良彦氏は2020年7月12日、肺炎のため逝去されました。享年86歳でした。謹んでお悔みを申し上げますとともに心からご冥福をお祈りいたします。

生前、日本だけでなくアメリカなど、熱狂的なフェアレディZファン達のイベントから招待されていたという故松尾良彦氏。取材時にはいつも「CLUB S30」のエンブレムが付いたカーディガンやダウンを着て登場された。※2019年5月取材時のものです

[gallink]

■歴史の証人「松尾良彦」とは

1934年兵庫県姫路生まれ。幼い頃からデザインに興味を持ち、高校生時代に自動車のデザイナーを目指す。大学浪人中にダイハツの小型3輪にデザインのアイデアを与えるなどし、日本大学芸術学部入学後にもデザインコンクールなどに入賞。

ポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなど、最新のアメリカ雑誌からも世界最先端のカーデザイン手法を学ぶ。

1961年3月、日産自動車デザイン課に入社。すぐに“子供の国”の子供用の車両のデザインを手掛ける。またピニンファリーナが手掛けた2代目ブルーバードのマイナーチェンジを担当。

多くの実績が認められ入社5年目にしてスポーツカースタジオのチーフデザイナーに就任。ここでデザインと商品企画を手掛けた初代フェアレディZが1969年秋の東京モーターショーで発表され、世界的な大反響を巻き起こした。

この大成功によって松尾良彦氏は230グロリアハードトップ、初代ローレルハードトップクーペなど人気車を担当することになる。

そして1975年、日産を退社し、フリーのデザインコンサルタントおよびカーデザイン評論を行い、雑誌や単行本などの著書も多数。なお松尾氏が手掛けた初代フェアレディZは1978年までの9年間に全世界で53万台、最盛期には月販8000台を記録した。

■両親の反対を押し切って芸術大学へ進学

流線型のパーカーの万年筆(上)と国産のパイロットの万年筆。中学生の頃に日本の工業デザインの遅れを痛感させられたという

幼稚園の頃だと思うが私は、なぜか流線型デザインに強く惹かれていた。幼心に“とにかくカッコいい”存在であり、流線型のものに片っ端から興味を抱いていたのだ。

なかでも電車が一番だった。当時、神戸~大阪~京都を走っていた鉄道は、とくに神戸~大阪間では最も山側を走る阪急神戸線、そして海側を走る阪神本線、その間を駆けぬける国鉄(現JR)の3社が、まさに威信をかけて電車のスピード競争を繰り広げていた。

そこに国鉄が持ち込んできたのが、当時としては珍しい流線型デザインの電車、国鉄52系であり、マニアの間では“流電”と呼ばれるものである。とにかくそのデザインに幼心を奪われた私は“少しでいいから乗せてくれ“と母親にねだっては困らせていたのだ。

その後、私は父の仕事の関係で日本統治下の京城(ソウル)で過ごし、小学生の時に現地で終戦を迎え日本に引き上げてきた。

その後、中学生になった私だったが、流線型へのこだわりは相変わらず。あるとき筆記具の販売店で流線型のパーカーの万年筆に出会い、その美しさに心を奪われた。

横にあった国産のパイロットの万年筆と比べるとデザイン的な遅れを感じ、残念な気持ちになったことを今も覚えている。

当時、万年筆といえば高級品であり、買ってもらえなかったが、それ以上に「日本もデザインをしっかりとやらなければいけない」と強烈に感じたのだ。

そんな思いを抱いていた私は高校生になるとデザイナーになりたい、特にクルマなどの乗り物をデザインしてみたいと考えるようになっていた。そこで父に「デザイナーを目指したい」と伝えると猛反対された。この頃、デザイナーといえば服飾関係のイメージだった。

「そんな軟弱で不確かなもので食っていけるのか。これからは経済だ」と言うのだ。大学進学は認めてもらえたのはいいが、デザイナーという選択はこの時点で否定された。だが、いくら考えても諦められなかった。

そこで私は父に内緒で東京芸大を受験した。幼い頃からデザイン画は描いていたので自信はあった。しかしほかの受験生たちは既に中学生の頃からデッサンの基礎を学び、東京芸大受験に備えていたような人ばかり。私には経験のない分野であり、見事に不合格。

それでも諦めず、次の年も挑戦したが、やはりデッサンで落とされた。デザインが100点というだけでは無理だった。さすがにこれ以上の浪人は無理と考え、浪人生活3年目で日本大学芸術学部、通称・日芸(以下、日芸)を狙った。

当時、東京芸大のほかに、クルマのデザインをはじめとした工業デザインを学ぶには千葉大学の工学部工業意匠学科があったが、確実に合格するには日芸1本に絞ることが最善だった。

実はこの決断には、もうひとつ理由があった。デザイナーの道しか考えていなかった私はある時、日芸の教授からドイツのバウハウス・デザインという“最先端のデザイン教育をやる”と聞いたからだ。

すぐに大学に行き、その教授にいろいろと聞いてみた。その熱心さが功を奏したのか「デッサンなどは別にいいから、うちに来なさい!」となった。まさに日芸に拾われたわけだが、同時に私は浪人中にある実績を作っていた。

大学浪人中にダイハツでデザインのアイデアを出した松尾氏。フロント部分にクロームメッキのグリルを付けてみたらどうか」というアイデアが採用され、後にグリルはダイハツの小型3輪に使われることになる

当時、大阪のそごう百貨店にて日本で最初のデザイン展が開かれていた。私はそこにも押しかけ「デザインをやりたい、とくに自動車のデザインをやりたい」と無茶な相談をした。するとデザイン展の責任者である知久 篤氏という方が「自分が顧問をやっているダイハツに行ってみたらどうだ」と言うのである。

もちろん私は迷うことなく飛んで行き、直談判。ダイハツにしても、いきなり学生服を着た浪人生がやって来て「デザインをやらせろ」と突然言うのだから驚いたはずである。

一方で、ライバルのマツダは小型3輪車を売り出して人気を得ていた。そんな状況からか、ダイハツとしても「坊や、いいところに来た。実は今、大阪府内にある意匠研究所のようなところに、うちの小型3輪車のデザインを頼んでいる。そこで少しアイデアを出してくれないか」となったのだ。

ところがそこを訪ねてみると、自動車どころか乗り物のデザインとは無縁の、ホーローの鍋釜に描かれる花柄のデザインなどを手掛けるようなところだった。

当然ダイハツの要望にもどう対応していいか、少々困っているような状況だった。そこに私が訪ねたものだから、渡りに船で「すぐに手伝ってくれ」となった。

そこで私は「フロント部分に“クロームメッキのグリル”を付けてみたらどうか」というアイデアなどを提案すると採用された。後にこのグリルはダイハツの小型3輪に使われることになる。

このように浪人中の私は知久氏にお世話になり、実績を作ることができた。その意味からいっても尊敬すべき先生である。

その知久氏だが実はダイハツのミゼットなどもデザインを手掛けているが、あまりそのことは表に出て来ない。またミゼットの他にも東芝の炊飯器や、ソニー初のテープレコーダーなどを手掛けた、優れたデザイナーである。

■日芸から日産への入社にはちょっとした裏技が……

松尾氏が取材時に持ってきたアメリカのデザイン誌

日芸入学後に授業だけでなく、ポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなど、アメリカの最新の雑誌から松尾氏は、世界最先端のカーデザイン手法を学んでいた

こうした経験を持ちながら日芸に入学。日本では工業デザインそのものがまだ始まったばかりで、明確に確立されていない時代である。自動車のデザインがやりたい一心で入学してはみたのだが、なかなか大学の勉強だけでは不完全。

そんなモヤモヤをとした気持ちを多少なりとも癒やしてくれたのが、東京の日比谷にあった米国務省所管の図書館である「ACC(アメリカン文化センター)」。

なんとそこにはポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなどといったアメリカの最新の雑誌が揃い、世界最先端のカーデザイン手法を学ぶことができたのである。

当時の日本にはまだなかったクレイモデルから削り出して立体を作り出すことなど、自動車のデザインに関する最先端がびっしり詰まった雑誌であり、私にとってはまさにバイブルが並び、通い詰めたのだ。

そんな勉強の一環として、毎日デザインコンクールに応募したこともあった。

ここで松下電器のステレオをデザインし、入選したこともあった。そして松下電器に受賞の挨拶に行くと「当然、うちに入るんだろうね」と言われたが、やはり気持ちは自動車メーカー1本。丁重にお断りしたが、賞金だけはちゃっかり頂き、ヤマハのバイクを買った。

こうして充実した学生生活を送り、卒業を迎えることになった。実は日芸を卒業したら「ダイハツに入ってくれないか」と知久氏に言われていた。

しかし、いかに恩人のお誘いとはいえ「僕はスポーツカーがどうしても作りたいんです。そうなるとダイハツでは無理だと思います」と言って説明すると知久氏は納得してくれた。

そして4年生の夏休みになると、自動車メーカー各社が行っていた研修に参加した。私が狙ったのはもちろん大手の日産だった。

だが、話を聞いてみると日産は“指定校制”を取っているという。デザイン部門では東京芸大か千葉大だというのである。もちろん日芸の名はなかった。だが「とりあえず研修だけ参加してみたら」ということになった。なんとも冷たい、いわゆる門前払いであった。

それでも私は勉強や経験を自分なりに積んでいる自信はあった。芸大や千葉大のエリートと呼ばれる人たちより自動車のデザインに関しては絶対に上だという自信があった。

「研修で指定校の連中に圧倒的な差をつけ見せつけてやろう」と決意して臨んだ。端っから差をつけられていると逆に肝が据わる。今まで以上に思いっきりよく描いたデザイン画が多くの人たちを驚かせた。その力が認められて1961年に日産入社を果たしたのだ。

だが入社してみると、予想どおりエンジニアのほとんどが東大出身であり、デザインのセクションは東京芸大や千葉大卒が占めていた。私などはまさに異端だった。

だが、よく見ると彼らは、ほとんど自動車をデザインしたことがなかった。私はまがりなりにも浪人中を含め、自動車のデザインを学び、いくつかの実績もあった。当然、デザイナーとしてやっていく自信も揺るがなかった。

一方で当時のデザイン部にはチョットした問題があった。実は私が入社する少し前まで、デザイン部のトップとして率いていたのが東大出身の佐藤章蔵氏だった。

1954年に日産の初代造形課課長となって、ダットサン110/210系と、その後継車である初代ブルーバード(310)などをはじめ、日産の主要モデルをデザインして、高い評価を得ていた人である。それだけの実績を持ちながらも、同期の東大出身エンジニアが部長職に就いたのに、佐藤氏は課長職止まりだったという。

デザインに対する認識がまだまだ低く、それが「デザインを軽視している」ことに繋がっていると、佐藤氏は怒っていたという。そんな状況に嫌気がさしたのかもしれないが1959年に日産を辞職。

フリーランスに転じた佐藤氏だが、前後にスライドする戦闘機のようなキャノピーを持つトヨタスポーツ800のプロトタイプのデザインを手がけるなど、その後も活躍されている。

さて問題とは、その佐藤氏が退社された後、2世代目のブルーバード(410)や2世代目のセドリックなどを、どうするかということだった。

そこで会社は「残ったデザイン部の人員には、まだデザインを任せられない。次の主力車種は世界的なデザイン事務所に任せよう」となった。その依頼先がイタリアの名門カロッツェリア、ピニンファリーナだったのだ。

■入社直後の若造デザイナーがずいぶんと生意気なことを

日産入社後、初めてのデザイン作品となったダットサン・ベビー試作第一号車

『子どもの国』園内で子供たちに囲まれているダットサン・ベビー。クルマを取り囲むようにガードが装備されている

当初、そんな状況にあることを知らなかった私は、やる気に満ちていた。そんなところに回ってきた初仕事というのが神奈川県にある「子供の国」の自動車「ダットサン・ベビー」のデザインだ。

もちろん新人に不満など言っている暇はなかったし、まずは実績を残すこと。そしてなにより運転する子供たちが心から喜んでくれるクルマをデザインしたいと思った。

まず使用するシャシーだが、愛知機械工業のコニー・グッピーのものとなった。メカニカルな部分でも2ペダル式のトルクコンバーターだから、子供にとっても操作は易しく、乗りやすい。またエンジンも単気筒の空冷ということになれば、「子供の国」でのメンテナンスも楽になる。

サイズ的にはちょうどいいと思ったが、助手席には付き添う親が乗ることを考えると、オモチャのように小さなクルマではいけないなど、いろいろと考慮することは多い。

早速デザインするわけだが「一人でやれ」ということだったので責任重大。当初はグッピーそのもののデザインを少し手直しする程度でいいと言われていたが、いかにも商用車というデザインのままでは、とても子供たちに夢を与える存在にはならない、と思った。

そこで私は遊園地の乗り物であっても「ちゃんと走れるスポーツカーを絶対に作ってやろう」と決めて、2シーターのクーペスタイルというデザインスケッチを一気に描いて制作に回した。

市販車でもなく、台数も限定されているからクレイモデルを作る時間もなかった。しかし、私のなかには流線型のスポーツカーのデザインしかなかった。

こうして完成したダットサン・ベビーは本格的なクルマとしても通用するほどのミニスポーツとして存在感を示すことができた。そのクルマに乗り、心から嬉しそうに子供たちが運転する姿を目の当たりにすると、デザインの大切さをより強く感じたのだ。

2014年、こどもの国開園50周年を記念して日産名車再生クラブがレストアした100号車

そのデビューから半世紀、2015年に開園50周年を記念するかたちで「子供の国」に保管されていた車両が完全レストアされ、日産本社のギャラリーでの展示や「こどもの国」開園50周年イベントなどで、その姿を見せていた。デザインを担当したものとしては感慨深いものである。

さて、私がこのダットサン・ベビーを担当している頃、デザイン部にとって大きな変化が訪れようとしていた。

前出のデザイン部を率いていた佐藤章蔵氏が退社された後の2世代目のブルーバード(410)や2世代目のセドリックなどを手掛けていたピニンファリーナから、発売を前にして試作車が日本に送られてきた。それを見た私は「このクルマはダメだ、売れないよ」と思わず言ってしまった。

入社してそれほど時間の経っていない、おまけに本流ではない日芸出身の若造のひと言が、社内では「大先生になって言うようなことを若造が言うんだ」とチョットした騒動になってしまった。

だが私は“売れない”と直感したのだ。

そして実際に売り出してみると苦戦。ヨーロッパでは好評を得ていた“尻下がりのデザイン”は日本では不評であり、しのぎを削っていたトヨタのコロナに初めて販売台数でリードを許すことになったのだ。同じようにピニンファリーナが手掛けた2世代目のセドリックも苦戦をしていた。

すると今度は「お前が批判したんだから、ブルーバードのマイナーチェンジでは、お前が直せ」と言われたのだ。人のやった尻拭いかと思ったが、取りあえずやらざるを得ない状況である。ここからの悪戦苦闘の証言は、次号で行いたいと思う。

[gallink]

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みんなのコメント

3件
  • ベストカーの連載を興味深く読んでいた。後のフェアレディZへの片山豊さんの関わりなど、これから出て来る。
  • 亡くなった方を悪くは言いたくないですが。
    この方は当時業務指示にないデザインにかまけて本来やるべきことを放置していたそうです。おかげで周りの方の負担が大きく大変だったとモデラーさんからうかがいました。
※コメントは個人の見解であり、記事提供社と関係はありません。

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