日産 フェアレディZ のみんなの質問

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トヨタ2000GTは、ヤマハが日産と共同開発する予定だった。
フェアレディzは、ミュージカル、マイフェアレディから来ている。
マツダは、元々コルクの会社だった。などの雑談、他に何かあります?

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ベストアンサーに選ばれた回答

フェアレディZの前代のダットサン・フェアレディは、初代の名称が「ダットサン・フェアレデー」だった。

質問者からのお礼コメント

2023.12.1 21:30

ダットサンの名前の由来は、こち亀で書いてましたね(笑)

その他の回答 (4件)

  • ※ヤマハは、元々は楽器製造の木工屋でしたが、ピアノの共鳴フレーム(真鍮の巨大な鋳物)を作っていたため、戦時中軍部に『機械部品も作れるだろ』とプロペラの量産を提案され、それでヤマハは機械工場を建設しました。
    戦後、敗戦によりプロペラの受注が止まりましたが、機械工場をそのまま解体するのは勿体ないということになり、今度は平和利用しようということでバイクの製造を始めました。
    この機械部門が日本楽器(ヤマハ)から分離・独立したのが、今日のヤマハ発動機です。

    ※大正から昭和に入り、当時軍用車両を輸入車に頼っていた軍部は、国産化の必要性を感じていました。
    そこで英国製ウーズレートラックのライセンス生産を行うなど、日本での自動車製造のパイオニアだった東京瓦斯電気工業に、中小規模の自動車製造を行っていた石川島造船、ダット自動車(快進社=後のダットサン=日産)の一部を統合し、東京自動車工業を設立、この会社が後にディーゼル工業に改名し、戦後はいすゞ自動車となりました。
    要するにいすゞは元々、軍用車を国産化する為に組織された国策企業でした。実際戦時中は、軍のトラック用統制エンジン(同じ型をいくつもの企業で平行して生産するエンジン)はいすゞ製で、三菱さえいすゞが設計したディーゼルを作っていました。

    ※また、ディーゼル工業のエンジン製造部門が独立したのが日野自動車で、他に小松製作所などもディーゼル工業から派生しました。
    ディーゼル工業、というか東京瓦斯電気工業は、実は日本の自動車産業の生みの親であり、日野はいすゞ本体(当時はまだディーゼル工業)から分社・独立した会社と言えます。

    ※中島飛行機を前身に持つスバルの主力工場である太田工場は、大戦中、中国の重慶爆撃を果たした100式重爆撃機・呑竜(どんりゅう)を生産しており、太田工場は中島時代を知るヒトやミリヲタから『呑竜工場』と呼ばれています。

    ※自動車・バイクメーカーのスズキを現代の世界的規模に引き上げ、ホンダの藤沢武夫(藤沢は、ホンダを世界規模の企業に育て上げた経営者。本田宗一郎の技術だけでは、あれほど巨大な企業にはなれませんでした)と並び称される名物社長・鈴木修は、創業家である鈴木一族と血族ではなく、単に鈴木家に入った婿養子。

    ※スズキの創業者、鈴木道雄の本職は大工さん。

    ※スカイラインや天皇の御料車『プリンスロイヤル』で有名なプリンス自動車は、ブリヂストン創業者、石橋正二郎の個人的『持ち物』でした。
    自動車の輸入緩和に伴い国内自動車産業を強化しようとしていた政府は、中小の自動車・バイクメーカーの統合を推し進め、それに応じてプリンスは日産と合併しましたが・・・この決定は石橋個人が行い、プリンスの重役連中も知りませんでした。
    日本の企業経営の英雄の一人に数えられる石橋正二郎は、プリンスから見たら『カネは出さないがクチは出す』うるさいオーナーで、日産合併も社内での相談なく一人で決め、プリンスの社員やプリンス車のファンからは『一夜にしてプリンスを潰した男』『カネのためなら親兄弟でも売る男』などと言われて恨まれていました。

  • 実際は日産の技術力が影響していますょ(オーティック?)・・

    私は整備士で、2000GTのデザイナーの野崎さんの個人所有の、ベンツを整備しています・・
    実際本人からは、日産の手助けが有ったと言う事は、一切聴いてい無いので
    、此の情報を初めて観た時は驚きです・・
    世の中こう言う事はあり得るのですね・・

    個人的に頑張れる面も有りますが・・

    下写真の車も、ドイツ車全て・フェラーリー&ランボルギーニ&RR&ベントレー&ジャガー&ロータス&ボルボetc

    パーツが無い訳では無く、機構上の欠陥から対策パーツが出来無いのです。

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10236605335

    https://carview.yahoo.co.jp/news/detail/51d1e1a7e1511d58b316bc5a6b73ec66ab66e853/

    回答の画像
  • WEC,IMSAに出ているキャデラック3台の色は、キャディーのエンブレムの色が由来

    日本車で初めてルマンの「ポールポジョン」を取ったのはトヨタでもマツダでもなく、90年の日産,日本車初優勝は91年マツダ、日本人初優勝は95年関谷正徳

    世界ラリーで日本車初優勝は、トヨタでもスバルでも三菱でもなく日産

    バサースト12時間レースの最多勝はマツダ(もう直ぐ抜かれるけど)

    アメリカのレースで一番成功したメーカーはマツダ

  • 2000GTに関しては、ヤマハが他の完成車メーカーの開発業務を受託するビジネスを始めようとしていて、最初に受注したのが日産、結局日産と喧嘩別れしてヤマハの自動車部隊がヒマこいてたところに声を掛けて来たのがトヨタって感じなんですよね。

    トヨタ側は既に図面まで完成させてて、あとは実際に手を動かして開発を進められればというとこまで来ていました。当初はセンチュリーの開発で知られる関東自動車工業(今のトヨタ自動車東日本)などトヨタ系の身内に開発を委託する予定だったんだけど、当時のトヨタ系開発陣は量販車の開発業務に掛り切りだったので手が回りませんでした。ヤマハの自動車部隊は日産の仕事がポシャってヒマになってたので、タイミングが丁度よかったわけです。

    そう考えると、日産で作られてた車(Y550X)と2000GTは、コンセプトに類似点はあるけど別物と考えるのが妥当かと思います。

    2000GTの開発を受託するまで、ヤマハのバイクは2ストロークエンジンのみでした。ヤマハは2000GTの開発で4ストロークの作り方を学んだようで、2000GT発売から2年後の1969年に、ヤマハ初の4ストローク車XS650が登場していたりします。

    フェアレディZはマイ・フェア・レディだし、セドリックは小公子の主人公だし、ブルーバードはメーテルリンクの青い鳥です。こういう命名は当時の川又社長の趣味って説もありますね。

    マツダの前身である東洋コルク工業が創業したころ、コルク材は軽量で衝撃や熱に強い新素材でした。広島周辺には呉の軍港など軍施設があったりしたので、砲弾輸送時の緩衝材や断熱材としてニーズが高かったらしいです。

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