マツダ ルーチェ のみんなの質問

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1950~60年代、マツダとダイハツは三輪トラックを中心に商用車メーカーとしてしのぎを削っていたようですが、

1970年代以降マツダがロータリーエンジンのスポーツモデルを出したりして華やかに発展していった一方でダイハツはトヨタの下請けに。両社の格差が開いていきました。
この差はどういった要因で生まれたのでしょうか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

1967(昭和42)年6月、日本政府は資本自由化の基本方針を決定した。同年9月の日米貿易経済合同委員会では、米国側から日本における資本取引の自由化促進が要請され、さらに同年12月にはジョージ・ボール前国務次官を団長とする米国自動車使節団の来日が予定されるなど、外国資本の攻勢は激しさを増していった。このため、日本の自動車業界は従来よりもいっそう緊迫した状況のもとで、規模の拡大による国際競争力の強化を迫られた。 このような情勢から、業界再編成がますます盛んに唱えられるなかで、三和銀行からトヨタ自工に対して、ダイハツ工業との提携話がもたらされた。ダイハツは日野の場合とは異なって、生産・販売車種がトヨタとかなり競合しており、それを整理する意向はなかったところから、両者が自主性と責任をもって経営にあたることを前提に、業務提携に合意した。


一方マツダ

当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた[104]。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた[105]。 こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は[106]、1960年(昭和35年)の元旦にドイツ人の友人から、西ドイツのNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた[107]。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断[108]。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発や設備投資を強化できるといった考えがあった[109][110]。 NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した[111]。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取の堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい[112]、当時としては破格の2億8,000万円の特許料を払って技術導入を決めた[113]。 技術提携に関する政府認可[注釈 4]がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた[115]。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった[116]。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置[117]。山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された[118]。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功[119]。1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した[120]。 REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし[121]、それまでの「バタンコ屋」[注釈 5]と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった[123]。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加[123]。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペやルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し[124]、1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した。

このように1960代は政府が自動車業界に関与したため、マツダとダイハツの明暗を分けましたね。

質問者からのお礼コメント

2024.2.26 08:57

詳細なご教示ありがとう御座いました。

その他の回答 (1件)

  • 其の様な事は全く関係無いでしょう?REは成功してい無いのですから!!
    全く意味不明の事ですょ・・知識が中途半端な考え方♪

    https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10236605335

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