フェラーリ ローマ のみんなの質問

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養蚕の歴史について書かれた本を探しています。

養蚕の歴史、特に、中国古代(シルクロードが発達していたころ)と江戸時代の様子をまとめた本・文献を探しています。
古代に、日本近代の養蚕機械が(要するに、女工たちが働いていたような機械)があったのか知りたいのです。
どうしても知りたいので、ご存知の方、教えてください。
よろしくお願いします。

補足

回答をありがとうございました。実は古代中国が大量に外国へ絹を輸出できていたことに疑問を持っていました。それで、明治初期、諏訪の女工たちが働いていた頃のように、なにか盛んに生産できるような機械があったのだろうか、と思いまして。なぜ大量に輸出できたのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

《追記》
補足を拝見して・・・。
何故?
まずは、需要があったからでしょうか?
優れた技術と品質が西方の諸国に喜ばれたから、
あと、絹だと畳んだり、巻いたりして運搬に便利でしょうし、
陶磁器とか漆器と違って、
運搬中に破損する心配はないですし、
香料とかお茶のように、
熱気や湿気で痛むこともまずないでしょうし、
輸出するほうも、
輸入するほうも扱いやすかったことが原因かと愚考しますが・・・。


座繰りのことでしょうか?
本は存じ上げませんが、いくつか参考サイトを見つけました。
シルクロード時代は今から2000年以上前の時代ですので、
いくつか遺跡からの出土で確認されてはいるようですが、
画像は見つけきれません。
糸車でさえ、500~1000年頃の発明とされます。
http://www.fashion-heart.com/term/material/jp-ho.htm
シルクロード時代に江戸時代末期から明治時代の、
養蚕機械に該当するようなものがあったとは思えませんが、

http://www.city.kawasaki.jp/28/28kikaku/home/isan/la/la0070.htm
http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/sangyo/seisan-gyo/05zaguri/zaguri.htm
http://blog.goo.ne.jp/whtomioka/e/c26e535076f3124105b2744516ff3553
http://summit1000.blog98.fc2.com/blog-entry-30.html
http://www.okaya-museum.jp/material/

絹の起源は、中国だとされます。
最古は、浙江省呉興縣遺跡から出土した絹布(BC2700年頃)
「二つに引き裂かれた繭」(BC3000~2300年頃)
このころ、黄帝の后である西陵が蚕を飼い、
絹の作り方を伝えたとされています。

また、紡錘車と繭殻が、新石器時代のBC6000年(推定)とされる、
中国山西省南部の夏県西陰村の彩陶遺跡から出土しており、
その頃から絹の生産が始まっていたという説もあります。

遅くとも、今から4500から5000年前、
既に中国ではカイコが飼育され、
繭から生糸をとって絹織物をつくる技術を持っていた、
と言われています。

BC1500~1000年頃の殷の時代の絹布や甲骨文、
BC643年頃の周の金蚕等が発見されています。
この頃の絹織物のタテ・ヨコ糸は撚りのない糸が使われていることから、
この頃にはすでになんらかの製糸技術が知られていたとされます。

養蚕と絹織技術の発達は、
周時代から春秋戦国時代にかけてのBC1000~220年頃とされます。

漢になると、宮廷だけでなく庶民の間でも絹の需要が高まり、
前漢初期(BC200年頃)の墓からは、
平絹、錦、紗、綺(き)などの絹織物が発見され、
織りの他に刺繍や彩絵などの技法が、
すでに使われていたとされます。

前漢時代の蜀王本紀に、
「蜀の先、王と称する者は蚕叢と曰う」と書かれ、
彼は養蚕を発明した人物と伝えられ、
「民に蚕桑を教え」(馮堅『続事始』)たことから、
「蚕の神」として尊ばれたという記載があります。

新疆ウイグル自治区でも後漢時代の絹織り物が発掘され、
敦煌やモンゴル人民共和国のノイン・ウラや
シリアのパルミラからも漢時代の絹織物が出土しています。
漢時代に中国の絹織物がシルクロードを経て、
西へ輸出されたとされます。
古代ローマでは中国の事を、
「セリカ」=「絹の国」と呼んでいたとされます。

生糸と絹と機織

http://www.viva-insecta.com/tuat_acv/archive/kiito/kiito.htm

絹が日本へいつ伝来したかは解っていないようですが、
シルクロードが出来る前、
弥生時代(BC5c~3c)の遺跡から絹織物が出土しており、
すでに絹織物が作られていたと見られているようです。
魏志倭人伝には、
238年卑弥呼が魏王への貢物として、
『斑絹』という絹織物を送り
返礼として、中国の絹織物を下賜されたとされます。
この斑絹は、当時の中国製の絹織物との糸使いが異なっており、
日本独自の絹織物の技術が存在していたとされます。
その後、7世紀中頃からは、中国や朝鮮半島からの渡来人によって
中国の先進的な技術が持ち込まれ、
10世紀に編纂された延喜式には、
畿内を除く61ヶ国中48ヶ国が絹生産国として記録され、
その品位によって上糸国、中糸国、麁糸国と区分されていました。

質問者からのお礼コメント

2011.2.9 23:21

本当に丁寧に書いてくださってありがとうございました!私の補足の書き方がまずかったのですが、なぜ大量に輸出できたか⇒なぜ大量に「生産して」輸出できたかという意味でした。すみません。この件にかんしては、またトピを立てさせていただきますので、またお時間があればよろしくお願いいたします。サイトは本当に参考になりました。また、brundelmayerbrutat92さん の答えも大変ためになりました。ありがとうございました。

その他の回答 (1件)

  • 養蚕は古代中国において始まったとされており殷時代(商時代:紀元前1200-前1050年代頃)の絹織物や甲骨文字発見されており。
    決定的な確証は更なる研究を待たないといけませんが
    1926年に中国山西省の黄河下流の仰韶村。仰韶遺跡から繭殻が発掘されました。(紀元前2500~前2000年)
    中国の後期新石器時代。ヤママユらしい繭殻の化石と紡績用の石が本物ならば仰韶期における養蚕の存在が確認されたことになります。


    そこから絹織物の製品として早くから物々交換などの交易がシルクロード(絹の道)を通じて古代ローマ帝国などの地中海沿岸部の文明へと広まっており、中東の宝石類などが殷時代の遺跡から出土しております。

    女工が働いていたような近代的なものと言うよりは、後の時代でも各家庭での女性の農閑期の内職に位置づけられておる様な有様でしたので、アルプスの少女ハイジのようなもので糸を紡いで。
    http://www.auvelcraft.co.jp/hataori/mobiliart/
    このような簡単な手織り機で織り上げていたものではないでしょうか。
    残念ながら、木は保存状態が極度に良くないと遺跡として出てまいりませんので、漆を塗るような物でもございませんから2500年前の機織り機は出土しないと思います。

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