ホンダ シビック のみんなの質問

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本田宗一郎と豊田利三郎では、どちらが偉大な人物だったのでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

豊田佐吉(人名は「とよだ」と濁る)が創業した
豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)内に、
1933年(昭和8年)9月に開設された自動車部が
トヨタ自動車の起源である。

自動車部設置にあたり、
中京デトロイト構想創案者の川越庸一(大同メタル工業創立者)が
豊田喜一郎を説き伏せ、自動車部設置に至った。

初代自動部部長に川越庸一氏が迎え入れられた。
この設立の中心になったのは佐吉の息子である豊田喜一郎であるが、
初代社長に就任したのは
佐吉の娘婿で喜一郎の義兄である豊田利三郎である。

LEADERS リーダーズ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/LEADERS_リーダーズ
『LEADERS リーダーズ』(リーダーズ)は、
2014年3月22日、23日21:00 - 23:23に
TBS系で二夜連続で放送された日本のスペシャルドラマ。

主演は佐藤浩市。
トヨタ自動車創業者、豊田喜一郎をモデルに、
国産自動車に人生をかけた人々を描く。


-----------------------------------------------------------
本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、
1906年(明治39年)11月17日 - 1991年(平成3年)8月5日)は、
日本の実業家、技術者。
輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。

1906年(明治39年) - 11月17日、
静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。

1913年(大正2年)
- 光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学。
在校中に自動車を初めて見る。遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を、
三角乗り[1][2]で、アート・スミスの曲芸飛行を見学に行き、
飛行機を初めて見るなどの経験をする。

1919年(大正8年)
- 二俣町立二俣尋常高等小学校(現在の浜松市立二俣小学校)入学。
1922年(大正11年) - 高等小学校卒業、
東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の
自動車修理工場「アート商会」
(現在のアート金属工業)に入社(当時の表現で「丁稚奉公」)。
半年間は、社長の子供の子守りばかりであった。

1928年(昭和3年) - アート商会に6年勤務後、
のれん分けのかたちで浜松市に支店を設立して独立。
宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三から、のれん分けを許された。

1935年(昭和10年) - 小学校教員の磯部さちと結婚。

1936年(昭和11年) - 第1回全国自動車競走大会(多摩川スピードウェイ)に、フォードに自作のターボチャージャーをつけたマシン[3]で弟の弁二郎[4]とともに出場するが事故により負傷、リタイアを喫する。

1937年(昭和12年) - 自動車修理工場事業を順調に拡大、
「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。
エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目を付けるが、
経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、
浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、
3年間金属工学の研究に費やす。

1939年(昭和14年) - アート商会浜松支店[5]を従業員の川島末男に譲渡し、
東海精機重工業の経営に専念する。

1942年(昭和17年) - 長男・博俊(元「無限」代表取締役)誕生。
トヨタが東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。

1945年(昭和20年)
- 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。
所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、
「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年(昭和21年) - 10月、浜松市に本田技術研究所 (旧)設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年(昭和23年)
- 二男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。
同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。
二輪車の研究を始める。


会社のハンコを藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。
本田は社印も実印も見たことがなく、
技術部門に集中し後に
「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、
藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている。
互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、
「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。
また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており
身内を入社させなかった。

宗一郎は社名に個人の姓を付したことも後悔もしていた。

経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、
従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。
出場宣言は藤沢によって書かれた。

従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていたが、
一方で共に仕事をした従業員は共通して
「オヤジさんは怖かった」とも述べている。
作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に
容赦なく工具で頭を殴ったり、
実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし
「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていた。
しかし、
殴られたはずの者よりも、
殴った宗一郎の方が泣いていたということもあったという。
また怒る際、
「よくお前が可愛いから怒るというが、
俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言った。

南青山の本社ビルを新築する際
「万が一地震が起こったときに割れたガラスが
歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と
指示し全フロアにバルコニーがつけられたという。
また藤沢も全く同じ指摘をしていたという。
ちなみに、ビルの設計は、
初代シビックのイメージに基づかれていたという。

質問者からのお礼コメント

2016.9.15 20:46

詳しくありがとうございます

知りたいことがズバリと分かりました

こういう回答を待っていたのでとても嬉しいです

その他の回答 (3件)

  • トヨタというほぼ世界一の自動車メーカーを作ったということなら豊田利三郎。
    2輪も含めてレースにいち早く参戦した、F1も日本で最初に参戦してさらに勝った、日本で最初に4ストロークの軽自動車を作ったという意味では本田宗一郎。
    レースの世界で最初に世界から注目・脱帽されたのはホンダ。
    カンバン方式などの生産技術で最初に世界から注目・脱帽されたのはトヨタ。
    人間としてレースの世界でずっと現場で陣頭指揮をとっていたのは本田宗一郎です、会社を経営して利益を上げるという感覚は豊田利三郎の方が上のような気がします、視点がちょっと違うのでどっちが上か下かという比較は難しいですね。

  • 偉大とは大きな偉業を成し遂げた人。
    で、結果的に豊田利三郎。

  • 会社の規模が示すとおりです。

    ジャスインタイム、現地現物といった日本の自動車産業に欠かせないものを生み出した人です。

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