30年続いた「常識」
駅のエスカレーターで「片側を空ける」というマナーは、今や全国的に広まった習慣だ。東京では右側、大阪では左側を空けるのが「当たり前」とされてきた。
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しかし、最近では鉄道事業者や自治体が「立ち止まって利用する」ことを呼びかけるようになってきている。その背景には、歩行中の事故が増えていることや、片側を空けることがかえって輸送効率を下げているという調査結果がある。
では、そもそも「片側空け」というマナーはどのように広まり、定着したのだろうか。そして、なぜ多くの人々はこれを「効率的」と信じてきたのか。本記事では、エスカレーター利用の歴史を振り返りながら、この30年の「常識」の真相を探っていく。
欧米志向と「先進国のマナー」
日本でエスカレーターの片側空けが広まったのは1980年代だ。その背景には「欧米ではこのようなマナーがある」という報道や、旅行関連書籍の影響があった。
例えば、1981(昭和56)年の『週刊文春』では
「せっかちなくせに公共の場ではまごつく日本人。取り入れたい習慣といえる」
として欧米流の片側空けを称賛している。また、1989(平成元)年に日本航空文化事業センターが刊行した『JALスチュワーデスのトラベルマナー&アドバイス』では、エスカレーターの左側を「追い越し車線」と説明し、「文明国では当然のこと」と紹介している。
こうした海外の事例を基に「日本もこうあるべきだ」という意識が広がった。日本の高度経済成長期には、欧米のライフスタイルやマナーを積極的に取り入れる風潮があり、エスカレーターの片側空けもその流れのひとつだったと考えられる。
しかし、興味深いのは、このマナーが最初から鉄道事業者やエスカレーター製造業者によって推奨されたわけではない点だ。1989年の『読売新聞』では、営団地下鉄(現在の東京メトロ)が安全上の問題もあり、片側空けのマナーを呼びかけることは考えていないと明言している。つまり、鉄道会社側は当初、この習慣に否定的だったのだ。
それでも、このマナーは「合理的」とされ、利用者によって自主的に広まっていった。
本当に「効率的」だったのか?
片側空けの習慣が広まった背景には、急ぐ人のために道を譲ることが合理的であるという思い込みがあった。しかし、近年の調査によって、この習慣が実際には輸送効率を悪化させることが明らかになった。
構造計画研究所の実験(2018年)によると、全長30mのエスカレーターを350人が通過するのにかかった時間は、2列に立った場合が6分49秒で、片側空けをした場合(そのうち6~7割が歩行)は7分35秒だった。この結果から、片側を空けるとむしろ
「輸送効率が悪化している」
ことがわかる。また、全員が歩行した場合でも、時間の短縮はわずか15秒程度だった(『毎日新聞』2018年12月25日付朝刊)。
さらに、朝のラッシュ時には片側空けが逆にボトルネックを生み、問題となる。片側に立つための列が長くなり、ホーム上での移動が妨げられる結果、目的である「早く進む」ことが逆効果となり、全体の流れを悪化させてしまう。
加えて、安全性の観点でも問題がある。日本エレベーター協会の調査によると、「乗り方不良」による事故は2008(平成20)~2009年に674件だったが、2013~2014年には882件に増加した。エスカレーターを歩行することで転倒や衝突のリスクが高まることが明らかになっている。
では、なぜ非効率で危険な習慣が30年以上も続いたのだろうか。まず、1980年代の日本は欧米文化への憧れが強く、
「欧米ではこうしている = 日本も取り入れるべき」
という考えが広まった。このような思い込みから、実際に検証することなく習慣が受け入れられた。次に、日本社会の「譲り合い」の文化が、片側空けを「親切な行動」として定着させた。しかし、それが結果的に輸送効率を悪化させ、事故を増加させることには誰も気づかなかった。
そして、一度定着した習慣は変わりにくい。30年以上続いた習慣は、人々の行動規範として根付いてしまい、近年の「2列乗り」の呼びかけに対しても、多くの人が「マナー違反」と感じるのはその証拠だ。
「片側空け」の先にあるもの
近年、JR東日本をはじめとする鉄道事業者は、「立ち止まって利用する」ことを呼びかけるようになった。東京都や大阪府でも、駅構内のポスターやアナウンスで「エスカレーターでは歩かない」ことを推奨している。
しかし、この意識改革には時間がかかる。30年以上続いた「片側空け」の習慣を変えるためには、単に「危険だからやめましょう」と訴えるだけでは不十分だ。「2列立ちの方が効率的で、歩くことで得られる時間短縮には限界がある」という事実を、データを基に丁寧に伝えていく必要がある。
また、物理的な対策も重要だ。近年、一部の駅では「立ち止まることを前提としたエスカレーター」が導入されている。例えば、ひとり分の幅しかない「シングルレーン型」エスカレーターを増やすことで、自然と片側空けを防ぐことができる。
「効率的だと思っていた習慣が、実は非効率だった」
というケースは、モビリティの世界では決して珍しくない。エスカレーターの片側空け問題は、「合理的に見えるものが本当に合理的か?」を再考する好例といえるだろう。
「常識」の再検証が、新たな移動の形を生み出す。私たちの移動習慣も、そろそろアップデートする時期に来ているのではないだろうか。
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