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小林彰太郎氏ゆかりのレースカー「インヴィクタ」とは? 日本のモータースポーツの黎明期を伝えるクルマに富士モータースポーツ・ミュージアムで出会える!

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小林彰太郎氏ゆかりのレースカー「インヴィクタ」とは? 日本のモータースポーツの黎明期を伝えるクルマに富士モータースポーツ・ミュージアムで出会える!

国内モータースポーツの黎明期を伝える証言車

100年近く前のレーシングカー、1929年式インヴィクタ「4 1/2」が富士モータースポーツ・ミュージアムに展示されています。インヴィクタはかつて、日本国内に1台が輸入されていました。今回紹介する個体は日本国内と海外を何度も行き来した数奇な運命を持った1台。詳細をお伝えします。

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多摩川スピードウェイに出場するためレーシングカーに改造

「インヴィクタ」というクルマをご存じだろうか。イギリスで1925年から1935年にかけて存在したメーカー(当初はバックヤードビルダーだった)で、エンジンをはじめとする優秀なコンポーネントを集めて組み立てることで優れたコンプリートモデルを産み出していた。そのインヴィクタはかつて、日本国内に1台が輸入されていた。今回紹介する個体は、日本国内と海外を何度も行き来した数奇な運命を持った1台で、正規の状態から何度かの変更を受け、モータースポーツの世界でも活躍した歴史を持っている正真正銘のヒストリックモデルだった。

10年近く前、イギリスの自動車博物館を歴訪した際にコッツウォルズ自動車博物館(The Cotswold Motoring Museum)で出会ったクルマに、1台のインヴィクタがあったが、ビューリーにある国立自動車博物館(Beaulieu National Motor Museum)でも、英国車ならほとんどラインナップしていると言われる英国自動車博物館(British Motor Museum)でも出会えなかった、まさにレアなモデルでもある。

今回の主人公となるインヴィクタは岐阜の素封家、渡邊家の14代目である渡邊甚吉さんが、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、1930年にヨーロッパに遊学した際にロンドンで運転免許証を取得し、同年にロンドンで1年落ちの中古車として購入した、4.5Lのメドウス・エンジンを搭載した「LC」モデル(4 1/2L)だ。

当時の購入価格は3300円と言われるが、現在の貨幣価値としては諸説あるものの約3300万円くらいだとされている。帰国後には岐阜薬科大学の設立資金、10万円(前述の計算式では現在の10億円)を寄付し、貴族院議員としてサイドカーで登院したとも伝えられている人物だ。

そんな1929年式のインヴィクタ LCは1930年の年末に輸入され1931年から1934年ごろまではショーファー・ドリブン、いわゆるお抱えドライバーが運転する格好で使用されていたが、多摩川スピードウェイの建設が発表されるとレーシングカーに改造されることになる。

改造を担当したのはダットサンやオオタからボディ製作を請け負っていた梁瀬自動車(現ヤナセ)で、シャシーを切り詰めると同時にラジエターやエンジンの搭載位置をより後退させるとともに低下させ、ボディもボートテールに作り直している。

第1回全国自動車競走大会では見事優勝

エンジンの搭載位置を後退・低下させるのは、かつて全日本GT選手権やSUPER GTでも実施されていたレーシングカーを製作するうえでの常套手段。エンジンはノーマルのままだったようだが公道でテスト(多摩川スピードウェイができるまで最高速を試せる常設サーキットなどなかったからテストは公道で行うのが一般的だった)した際に130km/hほど出して交通警備の警察官(現在のような白バイではなく、赤く塗られた“赤バイ”だったという)に捕まり15円(同15万円)の罰金を支払ったという「武勇伝」も伝わっている。

そして1936年に竣工し同年5月に開業した多摩川スピードウェイの杮(こけら)落としとなった同年6月開催の第1回全国自動車競走大会に、ショーファー・ドリブン時代にお抱え運転手として勤務していた川崎次郎氏のドライブで参戦した1929年式のインヴィクタ LC“改”は見事優勝を飾っている。ちなみにこのイベントでは後に本田技研工業を創設する本田宗一郎さんも出場していたが、アクシデントでクルマから放り出され九死に一生を得たというエピソードがあり、インヴィクタの優勝よりもこちらの方が話題となった。それはともかく優勝したインヴィクタだったが、その後は詳細不明というか消息が不明となってしまった。

米国に渡ったが再び日本国内に戻る

そんなインヴィクタが再び歴史の表舞台に立った(は少し大袈裟か)のは、もはや戦後ではないと言われる1955年のこと。我が国を代表する自動車評論家のひとりであり、のちに自動車雑誌『CARグラフィック』を創刊することになる小林彰太郎さんが友人2人と錦糸町付近を歩いていた時に、川沿いの修理屋の軒先路上にあった同車を発見、その友人と2万円で購入することになったのだ。

ただし、その存在意義の重要性は知っていても若かった2人には成す術もなく、1956年には立川に在住していた米軍属のエンジニアであるプレストン・ホプキンス氏に譲渡。彼の帰国によって1929年式のインヴィクタ LCもアメリカへと渡っていった。これで同車の車歴から日本の文字は消滅するかに思われたが、1981年に、4年前にホプキンス氏からインヴィクタを購入した、というデイヴィッド・B.ウィリス氏からインヴィクタの情報を求めて突然の便りが届いたのだ。

日本から情報を送ったことも手伝い、同年にレストアが完成したペブルビーチで行われたモントレー・ヒストリックに参加。これを日本人がオークションで手に入れて再びインヴィクタは日本国内に戻り、ヒストリックカー・イベントや鈴鹿で行われたF1日本GPのドライバーズパレードにも使用されることになった。

インヴィクタが富士スピードウェイの駐車場を走った!

その後はもう一度、ドイツの有名なクラシックカー愛好家のもとへと国外に脱出したものの、2016年には3度目の日本上陸を果たしている。この数奇な運命をたどったインヴィクタは、2024年の秋から富士モータースポーツ・ミュージアムにおいて企画展示が行われてきた。12月中旬には小林彰太郎さんの長男で戦前の自動車文化史に詳しく『御料車と華族の愛車』の編集・執筆を手掛けられた、多摩川スピードウェイの会 会長でもある小林大樹さんの講演会が同ミュージアムにおいて開催された。さらにその1週間後には富士スピードウェイにおいてインヴィクタの走行会も実施されている。

ただし富士スピードウェイが舞台とは言うものの、もちろんハイスピードなレーシングコースではなく、パドックを出発し場内の駐車場までを往復する走行披露だったが、多くのファンから喝さいを浴びていた。

なお、富士モータースポーツ・ミュージアムではこのインヴィクタの企画展示を2025年1月末まで開催している。個人オーナーのプライベートコレクション故に、この機を逃すともう2度と出会うことがないかもしれない貴重なクルマであり、国内モータースポーツの黎明期を伝える証言車。見逃すことのないように。

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