公共交通における安全対策の変遷
30年前の今日、1995(平成7)年3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。午前8時頃、東京の地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線でサリンがまかれ、13人が死亡、6000人以上が重軽傷を負った。
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この事件は、日本の公共交通におけるセキュリティ対策に大きな変化をもたらした。そのなかでも特に注目すべきは
「駅のゴミ箱」
に対する対応の変化だ。事件以降、鉄道駅に設置されていたゴミ箱は、要人の来日やイベント時には閉鎖されるのが常態化し、現在では多くの鉄道会社が安全対策として撤去を進めている。
その結果、問題が新たに浮上している。例えば、自販機で購入した空き缶やペットボトルが不法にリサイクルボックスに投げ込まれる事態や、トイレにゴミが捨てられることが増えている。
本稿では、地下鉄サリン事件以降の対応を振り返り、乗客の安全確保のためにゴミ箱撤去がどれほど妥当であるかについて考察する。
撤去の先駆け、地下鉄の警戒強化
地下鉄サリン事件の影響は、事件直後から人が集まるあらゆる施設に及んだ。鉄道会社だけでなく、デパートなども来客に対して不審物への注意を促し、警戒態勢を強化した。特に鉄道会社の対応は迅速だった。
事件の現場となった営団地下鉄(現・東京メトロ)は、当日中にすべてのゴミ箱を撤去。この措置に続き、他の鉄道会社も同様の対応を取り、駅トイレの安全点検や車内での不審物への警戒を呼びかける放送を実施した。
地下鉄サリン事件ではゴミ箱が使用されなかったにもかかわらず、なぜ撤去が実施されたのか。それは、この時点で日本には
「ゴミ箱を使ったテロ事件」
の前例があったからだ。1988(昭和63)年10月3日に営団地下鉄千代田線で発生した事件がそれに該当する。『朝日新聞』同3日付け夕刊では、この事件の内容を次のように報じている。
「3日午前8時25分ごろ、東京都千代田区丸の内2丁目、記帳所がある皇居坂下門寄りの営団地下鉄千代田線二重橋前駅1番ホームのゴミ箱にあった紙袋が燃え出した。同時刻ごろ、同区大手町1丁目の地下鉄同線大手町駅5番ホームでも、紙袋が発火。いずれも、駅員が消し止め、電車の遅れや、通勤客に影響はなかった。警視庁丸の内署の調べで、紙袋にはそれぞれ、発煙筒やポリエチレン製の弁当箱、乾電池が入っていた。二重橋前駅の方の紙袋の中から、「天皇制をなくせ」などと主張する内容の過激派の革命的労働者協会(革労協)のビラが見つかった。同署は革労協による時限式発火装置を使った犯行とみている」
当時、昭和天皇の病状が悪化し、自粛ムードが広がるなかで、天皇制を批判する暴力的な活動が活発化した。そのような背景で発生したのが、この事件である。天皇制が批判の対象となった理由は、天皇制が日本の封建的な支配体制の象徴と見なされ、
「資本主義や階級社会を維持するための道具」
であると考えられていたからだ。批判者は、天皇制が社会的不平等を正当化し、労働者や貧困層の搾取を助長する体制であるとみなし、この存続が
・労働者の権利抑圧
・社会全体の不平等
を助長する象徴であると主張していた。
この事件以降、皇室行事や要人来日時に、関連する地域の駅でゴミ箱の閉鎖が報じられるようになった。1990年の皇室行事、1991年のソ連ゴルバチョフ大統領訪日時にも閉鎖されている。これにより、サリンという新たなテロが発生した際、まずゴミ箱対策を講じることは当然の措置とされるようになった。
その後、オウム真理教に対する捜査が進み、首謀者らが逮捕されたが、撤去措置は長期間にわたり続いた。特に、死者を出した営団地下鉄では、1997年4月まで復活しなかった。
撤去後のゴミ問題激化
その後、復活したゴミ箱は以前よりも厳格に管理されるようになった。事件前、営団地下鉄には約500セットが設置されていたが、再設置されたのは半分以下の220セットだった。利便性と乗客の安全を考慮し、係員の目の届く範囲にのみ設置されることになった。
安全面での懸念から再設置が躊躇されたゴミ箱が復活した背景には、撤去後に発生したさまざまな問題があった。サリン事件直後から、撤去による問題は頻発していた。確かに乗客の警戒心は高まったが、営団地下鉄のゴミ回収量は1995年3月に約69tだったのが、4月には33tに激減した。車内に捨てられていた新聞や雑誌もほとんど姿を消した。
だが、残りの33トンはどうなったのか――。
一部の人々は会社や自宅にゴミを持ち帰って捨てていたが、不法投棄も増加していた。特にゴミの不法投棄が集中した場所は
「トイレの個室」
だった。以前からゴミ箱には生ゴミなど家庭ゴミが目立っていたが、撤去されると、トイレには空き缶に加え、ビニール袋に詰めた生ゴミが積み重なっていった。
テロ警戒で再びゴミ箱撤去
ゴミ箱の撤去は駅施設の売上にも影響を及ぼした。営団地下鉄では空き缶回収箱も閉鎖対象となり、その結果、自動販売機が停止した。この影響で、事件後の3月から5月までに約3500万円の損失が発生した。
・安全性
・駅の美化
・売上のバランス
を考慮すると、復活は避けられなかった。
その後、駅のゴミ箱への警戒心は徐々に薄れていったが、2004(平成16)年に再び注目を集めることとなる。きっかけは、同年3月11日にスペインで発生したマドリード列車爆破事件だった。
この事件では193人が死亡、2000人以上が負傷した。事件後、国際テロ組織「アル・カーイダ」の「アブ・ハフス・アル・マスリ隊」が日本に対する次のテロを予告し、都内の駅を中心に警察官が多数配備され、緊張感が高まった。
国土交通省は事態を重く見て、すべての交通事業者に警戒を呼びかけた。この年のゴールデンウィークには、駅だけでなく一部の
・高速道路パーキングエリア
・フェリーターミナル
などでもゴミ箱の撤去が実施された。これを契機に、各鉄道事業者はその数をさらに減らす措置を進めることとなった。
不法投棄対策と衛生問題
単に減らすだけではない、乗客の利便性を考慮した新たな取り組みも進められている。2004年5月、JR東日本は透明なゴミ箱を開発し、新幹線駅を皮切りに各駅への設置を進めた。この取り組みは、警戒が強まるなかで、新幹線車内の使用禁止措置が取られたことを受けたもので、利便性向上を目指した策であった。
これが普及し、駅におけるゴミ箱は再び定着したが、2020年代に入ると撤去を決定する事業者が増加した。特に首都圏では、西武鉄道が2021年3月に全駅のゴミ箱を撤去し、東京メトロが2022年1月、都営地下鉄が2022年5月に撤去を決定した。多くの事業者が踏み切る一方で、JR東日本は駅構内に多くの店舗があるため、設置を続けているなど、対応は分かれている。
近年の背景としては、駅構内の時計や時刻表の撤去と同様に「コスト削減」が一因と考えられる。しかし、事業者が一様に強調しているのは、
「家庭ゴミなどの不法投棄対策」
である。特に、新型コロナウイルスの拡大にともない、マスクが捨てられる事例が増加し、衛生面の懸念が設置継続を難しくしたと説明されている。この説明が正当であれば、最終的には安全面よりも、マナーの悪さが撤去を引き起こしたといえるだろう。
ゴミ箱がない現状では、ゴミの持ち帰りがマナーとして求められる。しかし、駅にないことは依然として不便である。特にインバウンドの増加にともない、繁華街ではゴミ箱がないために不法投棄が問題となっている。モラルの向上には限界があり、一定の設置は依然として必要だといえるだろう。
コスト高騰が導く新戦略
この問題はどのように解決されるべきだろうか。
ひとつの解決策は、新たなものの導入である。例えば、埼玉県川越市では、観光地でのゴミの不法投棄を防ぐために「スマートゴミ箱」の設置を進めている。これらの「SmaGO」と呼ばれるものは、ゴミを自動で検知して圧縮するほか、遠隔で担当者に状況を通知する機能も備え、安全面にも配慮されている。
しかし、コストは非常に高い。設置費用は1台あたり120万円以上で、川越市の商店街では市のオーバーツーリズム対策費から全額補助を受け、ゴミ箱のラッピング広告による収入で運用費を賄う予定である。
地下鉄サリン事件から30年が経過し、状況は安全対策と利便性のバランスを取る形で揺れ動いてきた。鉄道各社は、完全撤去や透明なゴミ箱の導入など、選択肢を取りながら対応を進めている。
不法投棄やマナー問題、インバウンド対応といった新たな課題も浮上しており、スマートゴミ箱のような技術的解決策も登場している。しかし、コスト面での課題は依然として大きい。これまでの流れを考えると、モラルの徹底は困難であり、美化のためには駅に設置することが必要であると考えられる。
鉄道事業者にとって、セキュリティと利便性はどちらも重要な課題だ。果たして、どちらの選択が最適なのかは今後の課題である。
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