市販車と同じ姿で戦う姿に多くのファンがときめいた
グループAで勝つために生まれたBNR32は、結果圧倒的な強さと速さで他を凌駕した。ライバル不在でもその人気は衰えることはなく、観客を熱く燃え上がらせた。ほんのわずかなドライバーだけがシートを手にすることができたのだが、誰もが主役を張れる役者揃いだったのは確かだ。伝説となっているグループAでの活躍などを振り返る。
日産「R30スカイライン」の人気は衰えず! なぜ6代目は6気筒ではなく4気筒に人気が集中したのかお教えします
(初出:GT-R Magazine 172号)
もはや他メーカーに敵はなし! 日本一速い男と天才が真剣勝負
グループAで勝つために開発されたR32GT‒R。初参戦した平成2(1990)年3月のシリーズ第1戦、西日本サーキット(後のMINEサーキット)に衝撃が走った。出走した2台のGT‒Rは他を圧倒して1~2位でチェッカーフラッグを受けたのはもちろん、2位のGT‒Rさえ星野一義のカルソニックスカイラインから1周遅れだったのだ。3位といえばさらに1周遅れ。続く菅生での第2戦も2台のGT‒Rの後の3位は1周遅れ。第3戦の鈴鹿では2台のGT‒R以降は3周遅れという結果である。
シリーズ全6戦の半分を終えた時点で、もはやGT‒Rの敵はいないことが明白になった。GT‒Rに乗れなければ勝てない。これはプロフェッショナルなレーシングドライバーにとって死活問題である。それまでスカイライン以外の車種でグループAを戦ってきた彼らは、必死にGT‒Rに乗る機会を探した。逆にようやく年間王座に手が届く機会を得た日産自動車と関係の深いドライバーたちは勇躍した。
1989年に市販されたR32GT‒RはグループAに出場するため、高橋健二の手で精力的に開発が進められた。ここで使われたタイヤはブリヂストンであった。この1年間で、ブリヂストンはGT‒Rに最適なタイヤの知見を積み上げていた。
R32GT‒Rの諸元は、グループAの車両規定で優位になるため、一般には不自然とも思える数値を持っている。例えば排気量2.6Lという数だ。2Lでも3Lでも、その中間の2.5Lでもない。当時のガソリンエンジンとしては半端な排気量であった。だが、この排気量こそが意味を持っていたのだ。当時のグループA規定は、エンジン排気量ごとに装着できるタイヤ寸法が定められていた。従ってターボチャージャーの過給を得ながら出力を上げ、その大馬力を速さに結び付ける最適なタイヤ寸法を手に入れるため、2.6LのツインターボガソリンエンジンがR32GT‒Rの諸元値となった。
それでもなお、タイヤは300psを超えるとされた高性能を活かしきれないため、GT‒Rは4輪駆動を採用した。過去のスカイラインの歴史にはなかった4輪駆動車の登場である。また、規定一杯のタイヤ幅をオーバーフェンダーなしで装着するため、スカイライン自体は5ナンバー車で開発されたが、GT‒Rは前後にブリスターフェンダーを装備する3ナンバー車となった。
このグループA仕様のGT‒Rを初戦で勝利に導いたのは「日本一速い男」の異名をとる星野一義である。星野は高性能な4輪駆動車を300kmという耐久レースの中で最大に活かし切るため、コーナーで内輪を浮かせて走る片輪走行を編み出した。ネガティブキャンバーに調整された外輪側のタイヤがコーナリング中にほぼ垂直に立ち、適切な接地面でタイヤへの負担を抑えながら、最大のグリップを得る走法だ。
星野のそうした果敢な走りを、第2ドライバーとして支えたのが鈴木利男である。全日本F3の初代チャンピオンという実力で、フォーミュラ志向ではあったがGT‒Rを乗りこなし、度重なる優勝に貢献した。その鈴木は、R35GT‒Rの車両開発責任者であった水野和敏氏の指名により、開発ドライバーを務めたことは知られるところである。ちなみに鈴木は、グループCでも星野のパートナーを務めている。
最強のカルソニックスカイラインに挑んだのは長谷見昌弘だ。天才と謳われる長谷見のGT‒Rはダンロップタイヤを装着していた。グループA仕様の開発で1年先行してGT‒Rの経験を積んだブリヂストンに対し遅れての開発となり、ダンロップは試行錯誤の連続となった。そうした中、単なる勝利ではなく年間王座こそがプロフェッショナルとしての価値だと考える長谷見は、巧みなレース戦略で勝ちを目指し、1991~1992年と連続でグループA王座を手にしたのであった。
パートナーを務めたのは、スウェーデンのアンダース・オロフソンである。オロフソンは1986年のグループA最終戦インターTECに来日し、フライング・ブリック(空飛ぶレンガ)と形容されたボルボ240ターボで優勝している。オロフソンも鈴木と同様に着実な運転で長谷見の王座獲得に応えたのである。
それぞれにドラマを感じさせる個性派揃いのドライバー布陣!
2年目の1991年シーズンに入ると、GT‒Rの参加台数が増え始めた。勝つ機会を手に入れようと、各ドライバーたちの熱意は尋常でなかった。同時に、それぞれのチームに新たなタイヤメーカーとの関係があった。ひとつは横浜ゴムである。アドバンカラーに彩られたワークスチームがGT‒Rで現れる。ドライバーはグループA仕様の開発を担った高橋健二であり、パートナーは土屋圭市だ。
ドリキン(ドリフトキング)こと土屋は、全日本選手権で総合優勝を狙える体制での参戦に喜んだ。さらに彼を狂喜させたのは、翌1992年から憧れの高橋国光と組む体制になったことだった。また、土屋は星野の片輪走行を身に着けようと奮闘した。そして1994年にMINEの予選でポールポジションを獲得し、続くオートポリスで総合優勝も手にすることになる。かつての日産ワークスドライバーの大御所である高橋国光は、そうした土屋の奮闘ぶりを微笑みながら見つめ賞賛した。
もうひとつのタイヤメーカーは東洋ゴム。ドライバーはモータージャーナリストの清水和夫と全日本F3チャンピオンの影山正彦だ。東洋ゴムも4輪駆動のGT‒R用タイヤの開発で苦戦を強いられた。だが、ある練習走行の折、後輪用タイヤを前輪に間違って装着して走ったところ、タイムが改善されるという想定外の出来事があった。これをきっかけに東洋ゴムは急速に進歩し総合優勝争いに加わるトップコンテンダーとなったのである。
そして、1991年の最終戦である富士のインターTECで星野のカルソニックスカイラインに次いで2位に入った。そして翌1992年の鈴鹿でついに優勝するのである。
その1992年は、ドライバーの組み合わせに入れ替えがあった。清水のパートナーは影山からデンマークのトム・クリステンセンに替わり、そして影山は星野のパートナーを務めるようになった。
トム・クリステンセンも全日本F3選手権のチャンピオンとなり、F3000への昇進を果たしていた。しかし、必ずしもチームが十分な戦闘力を発揮できずにいたところ、グループAに抜擢されたのである。常に攻めの姿勢で臨むクリステンセンの走りはGT‒R同士の優勝争いに刺激を与えた。後にクリステンセンはドイツ・アウディのワークスドライバーとなり、ル・マン24時間レースで7勝を挙げ、歴史に名を残すことになる。
長谷見のパートナーを務めていたオロフソンは、1992年に自らが主ドライバーとなるチームを得た。パートナーは木下隆之である。木下は自動車雑誌編集者からプロフェッショナルレーシングドライバーに転身。ドイツのニュルブルクリンクを得意とするドライバーの一人となる。またモータージャーナリストでもあり、グループA当時、オロフソンと組んだときの経験が大いに役立ったと語っている。
同じく、かつて星野のパートナーを務めた鈴木は、1993年に自らが主ドライバーとなるチームに迎えられた。そのパートナーとなったのは、日産レーシングスクールを卒業して間もない飯田 章であった。その年の筑波でこのチームが優勝している。飯田は後に高橋国光や土屋とル・マン24時間レースにホンダNSXで参戦することになる。グループA時代のR32でプロフェッショナルとしての技量を高めていったのだ。
異色な存在として萩原 修がいる。横浜ゴムでアルミホイールをデザインしている会社員。羽根幸浩のパートナーとして参戦し、1993年の菅生で優勝を経験した。羽根は1999~2000年にFIAのGT選手権に出場するなど、国内外を通じて活動の場を広げたドライバーだ。
ドライバーの移籍などによりバトルはより白熱する
クリステンセンがセカンドドライバーを務めたチームのエースは1993年から横島 久に替わった。横島はR32が登場する前の1988年にフォード・シエラRS500でグループAの王座を獲得。フォーミュラからツーリングカーまで、速く、粘り強いレース展開をする知能派だ。
長谷見昌弘のパートナーとして、オロフソンの後を継いだのは福山英朗であった。鈴木利男と同世代でFL500で活躍した後、F3やF3000への昇格も果たした。後に米国のNASCARへの思い入れを深くし、自らが操るだけでなく、TV中継の解説なども行っている。
見崎清志と長坂尚樹の組み合わせも忘れられない。見崎は元トヨタのドライバーであり、マカオグランプリやル・マン24時間レースでも活躍。また『ヘアピン・サーカス』という1972年公開の映画の主役も演じている。長坂は、グループAの初年である1985年にBMW635iで王座を勝ち取り、1987年にはフォード・シエラRS500で再び王座を手にしている。F2のほかツーリングカーやGT、ル・マン24時間レースにも参加し何に乗っても速いドライバーの一人だ。
1990年にR32がグループAに登場すると、GT‒R以外は勝てない状況になった。通常なら面白みに欠ける危惧もあるが、以上のような多彩なドライバーの駆け引きと、四つのタイヤメーカーの奮闘などにより、目の離せないレースへと成長した。そして1993年にグループAは最終戦の富士で、9万4600人の観客に見守られながら幕を閉じたのであった。
(この記事は2023年8月1日発売のGT-R Magazine 172号に掲載した記事を元に再編集しています)
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みんなのコメント
グループAを終わらせた
シリーズが不成立になりかけて
慌ててニスモがノンスポンサーでエントリー
辛うじてシーズン成立という前代未聞の事態
レースに収まらずストリートでも
Rの敵はRだけ、だったな