■ベースはランチア「フルヴィア」だった
2020年10月26日から31日まで、RMサザビーズ英国本社が再びオンライン限定でおこなった「LONDON」オークションにおいて、長らく世間から忘れ去られていた1台のコンセプトカーが出品され、世界的な話題を呼ぶことになった。
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その名はランチア「HFコンペティツィオーネ」。カロッツェリア「ギア(Ghia)」が1969年に一品製作したプロトティーポ(試作車)であるとともに、ある大きな目的も与えられていたという。
今回は、この数奇な運命をたどった1台のストーリーを中核として、「LONDON」オークションのレビューをお届けしよう。
●生粋のラリーカーがコンセプトカーに変身
このコンセプトカーのデザインを担当したスタイリストは、ピニンファリーナでフィアット「124スパイダー」などを手掛けたのち、ジョルジェット・ジウジアーロの後任としてカロッツェリア・ギアに迎えられたトム・チャーダである。ギア時代には、デ・トマソとともに「パンテーラ」や「ロンシャン」などの作品を残し、日本国内のスーパーカー通の間でも信奉者の多い人物である。
ベースモデルとされたのは、ランチア「フルヴィア・ラリー1.6HF」。1965年からフルヴィアに設定されたクーペ版をベースに、ランチアの実質的なワークスチーム「HFスクアドラ・コルセ」とその総帥、チェーザレ・フィオリオが製作させた一連のラリー用エボリューションモデルの最終進化形である。
このラリー用フルヴィアのファーストモデルである「フルヴィア・クーペHF」は、1966年1月に発売された。
1.2リッターの挟角V型4気筒エンジンは、標準型クーペから8?増の88psに強化される一方、各開口部のアルミ置き換えや、サイド/リアウインドウの樹脂化、さらに前後バンパーを廃することで、135kgものダイエットに成功。車両重量は825kgという軽量を誇っていた。
クーペHFは、デビュー早々からヨーロッパ各地のラリー競技で大活躍を見せるが、翌1967年春には1.3リッターに拡大した進化版「ラリー1.3HF」が登場。排気量アップにより101psのパワーを得て、戦闘力をさらに高めた。
そして1969年に登場した最終進化形「ラリー1.6HF」は、1584ccのV型4気筒エンジンを搭載。115psに達したパワーも相まって、現在のWRC(世界ラリー選手権)の前身にあたる「ヨーロッパ・ラリー選手権(ERC)」にて、1969年シーズンおよび1973年シーズンに年間タイトルを獲得するなど、1970年前後における世界最強のラリーカーの1台として君臨したのだ。
この名作をベースとするHFコンペティツィオーネについて、製作社であるギアでは「GTとして完全に適する一方でそのままサーキットに乗り込むことのできる、ふたつの個性を持つクルマ」とアピールしていたという。
11度20分00秒という特異なバンク角を持つV型4気筒エンジンは、フロントセクションを大幅に改造することでマウント位置を低め、ボンネットはスーパーカー的な低いものとされるとともに、ウェッジシェイプのプロポーションに重要な寄与を果たした。そして当時大流行していたリトラクタブル・ヘッドライトで、その印象はより鮮明なものとされた。
さらに、オリジナルのフルヴィアHFではリジッド式だったリアアクスルは、ふたつのウィッシュボーンによる後輪独立懸架へと置き換えられるなど、原則的にボディの架装を専業とする、この時代のイタリアのカロッツェリアが手がけたコンセプトカーとしては、かなり大掛かりな1台となっていたのだ。
しかし、それには深い理由があった。実は、のちにイタリア自動車業界のフィクサーとして君臨したレジェンドが、このプロトティーポには深く関与していたのである。
■フォードがランチアを買収しようとしていた! その真相は?
ランチアHFコンペティツィオーネのプロジェクトを発案したとされるのは、この時代にカロッツェリア・ギアの社主であったアレハンドロ・デ・トマソその人だったという。
当時のデ・トマソ生産車といえば、レーシングカーやスーパースポーツ、GTカーともに、密接なかかわりを持ちつつあったフォード社製のコンポーネンツを流用するのが常道だった。
ところがこのプロトティーポのみは、当時のデ・トマソに深い関わりがあったわけではないはずのランチア市販車をベースに製作されているのだが、そこにはデ・トマソの野望が大きく影響していたようだ。
●アレハンドロ・デ・トマソの野望の遺産?
1960年代後半、イタリア自動車業界の再編成に乗り出そうとしていた彼は、フェラーリとの「婚約破棄」およびその後のレース界で大リベンジを果たしている真っただ中だったフォードに、ランチア社を買収させようと目論んでいた。この時代のランチアは、慢性的な財政危機にあったのだ。
そして、提携関係を通じて親友ともいえる間柄なっていたフォード・モーター・カンパニーのCEO、リー・アイアコッカは、ランチアのCEOとしてデ・トマソを指名する……、というのが彼の描いた計画であったという。
ところが、イタリアの良識ともいわれた名門ランチアのトップになる、というアレハンドロの夢は、はかなくも崩れ去った。1969年9月にフィアット・グループがランチアを傘下に収めたことで、フォードによる買収計画はキャンセルとなってしまったのだ。
しかし、デ・トマソが「ハニートラップ」として計画したコンセプトだけは現実のものとなり、1969年のジュネーヴ・ショーおよびトリノ・ショーにて大きな注目を集めるに至った。
さらにデ・トマソは、このプロトティーポの終幕を飾るべく、1970年のル・マン24時間レースに参加を期したモディファイを指示。ボンネットにはエアスクープを取り入れたパワーバルジが設けられるとともに、リアには巨大なウィングスポイラーを設置した。
また、当時のFIAレギュレーションに準拠した大容量のアルミニウムタンクがリアコンパートメントに追加されるとともに、ガソリンの給油口もクイックリリース型に変更。ウィンドスクリーンは、ベルギーのグラヴァーベル社がオーダーメイドした軽量タイプに換装。サイド/リアウインドウもプレクシグラスとされ、レース仕様のロールバーも取り付けられた。
しかし、レーシングカーに改装され、名実ともに「コンペティツィオーネ(レースカー)」となったプロトティーポは、テストのみでル・マンの実戦に登場することなく終わり、歴史の表舞台から姿を消すことになったのだ。
こうして役目を終えたランチアHFコンペティツィオーネは、ギアと同じくデ・トマソ傘下となっていたカロッツェリア、「ヴィニャーレ(Vignale)」の創始者であるアルフレッド・ヴィニャーレの甥のもとで、約20年にわたって所蔵されたといわれている。
今世紀を迎えたのちに現在の所有者に譲渡され、2014年にはフルレストアを受けることになった。また北米「アメリア・アイランド・コンクール・デレガンス」にも出品され、複数のエンスージアスト向けメディアで大きく取り上げられた。
「ギア」と「ランチア」、そして「デ・トマソ」の歴史のうねりを物語るユニークな1台。「ランチア・クラシケ(現FCAヘリテージ)」が真正を証明したCertificato(チェルティフィカート:証明書)も添付されているというランチアHFコンペティツィオーネに、RMサザビーズ社は14万ー18万ポンド、日本円換算にして約1955万円ー2515万円というエスティメート(推定落札価格)を設定していた。
ところが、実際のオンライン競売ではビッド(入札)が振るわなかったのか、残念ながら流札。現在では上記のエスティメートを提示したまま「Still For Sale(継続販売)」となっているようだ。
この価格について、様々な意見が出てくることは容易に想像ができる。
しかし、アニバーサリーイヤーやブランド別/コーチビルダー別などのテーマを上手くキャッチできれば、伊「コンコルソ・ヴィラ・デステ」や北米「ペブルビーチ」など、一流どころのコンクール・デレガンスの招待資格も狙えそうな1台であることを勘案すれば、決して高くないとも思われるのだが、いかがなところであろうか……?
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排気量 クルマのデザインの方向性は デ・トマソと全く違う
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