東京からとんぼ返りをし、慌てて向かった祇園の有名料亭“和久でん”。そこで待ちかまえていたのは、ひとりを除いて見知らぬスーツ姿の男性たちだった。けれども富田はそこによく知るひとりの男を発見する。親友であり、兄貴分であり、父のように慕う清水輝久だった。
清水は富田が20歳のころに半年ほど務めた日産サニー京都の社長である。富田が会社をやめたのち、十数年間、ふたりの間の縁は切れていたのだが、清水がボランティアで運営する異業種交流サロン「ヒューマンハーバー」で再会をはたすと、立場を超えてたちまち意気投合した。清水は、ときには父親を知らない富田の親代わりになったし、ときには何でも相談できる頼もしい兄貴分でもあった。富田にとっては最高の親友であり、人生の師匠というべき存在である。
原付の50ccエンジンを使って童夢と開発した「コメット」。バックもできる一人乗りのモビリティで、当初は原付免許で運転できるのが売りだった。オーナー社長の清水は、日産本社の社長や役員とは麻雀仲間だったといい、いつでもダイレクトに話ができるような人物でもあった。清水は当時の社長(石原俊)に、「京都にいる富田とレーサーの松本(恵二氏・故人)、童夢の林の3人を(日産陣営へ)早めに囲っておいたほうがいい」と、富田たちには内緒で伝えていた。その結果がこの日の会合というわけだった。
この日、極秘裏に祇園で集まった関係者たちは、当時の日産社内で絶大な力をもっていた宣伝部長を筆頭に代理店(博報堂)の担当部長など、総勢10名あまり。“日産の富田”が動き出した瞬間だった。
のちにスズキも同様の乗り物を出したが、法改正で普通免許でないと乗れなくなってしまい、利点を活かせなくなってしまった。モノ造りの原点結局、富田と松本は日産と契約する。松本はその後、日産でル・マンを戦った。40歳になった富田はというと、京都のガイシャ屋からいきなり日本の大企業との付き合いがはじまって、まるで未知の世界に飛び込んだかのような日々を送り始めた。
もっとも、富田自身にモノ造りの経験がなかったわけじゃない。否、むしろ、持ち前のアイデアと実行力があったからこそ、日産という大企業にも認められる存在になったと言っていい。
30歳のころには後にポケバイへと発展し大ブームを巻き起こすマイクロバイク“チッパー”を制作販売しスマッシュヒットを放っていたし、童夢と共同で開発した原付バイク用50ccエンジンを積んだマイクロカー“コメット”は確実に時代の先を走っていた。コメットなどはあまりの経済性の高さに大手メーカーが目をつけた。途端、普通免許でしか運転できなくするという“お上”からのお達しが出てしまう。報道番組のニュースステーションが特番でとりあげるなど味方もあったが、お上の決定が覆ることはなかった。
富田は、この国での新しい挑戦には常にとてつもない困難が伴うということを、すでに身を以て経験していたのだった。
オリジナルのターボシステム80年代当時、自動車販売をメインとする会社が独自で用品を販売したり開発したりすることはまだ珍しかった。富田が用品の開発に乗り出したのは、アメリカのBAE社製ターボシステムを輸入したことがきっかけだった。
その頃、ターボは高性能の証として日本でもブームになりつつあったが、BAE社製のシステムはいわゆる“ドッカンターボ”でパワーは出るがとても扱いづらいシロモノだった。なんとかもっと運転しやすく、取り付けも容易で、価格を抑えたターボシステムができないものだろうか。無いなら自分たちで造ればいい。持ち前のチャレンジ精神が富田を動かした。
もともとバイクが好きであった富田が初期に作った作品の「チッパー」。ポケバイの先駆け的製品であり、当時富田はまだ幼い息子をモデルにカタログを製作した。なお、エンジンには芝刈り機のエンジンを使っている。こうして生まれたのがオリジナルシステムの“ターボ疾風”だ。このとき富田は、F2のトップレーサーで“メイジュ”というカーショップを京都北山で開いていた松本とターボ疾風を開発した林みのるの童夢とともに、MTD(メイジュ+富田+童夢)という用品開発および販売の別会社も設立している。社名の命名法に、富田のAMGに対する憧れと尊敬が透けてみえるようで面白い。
童夢に依頼して制作したtomita auto製の「ターボ疾風」。タイムラグの少ないターボシステムをコンセプトに開発し、価格の低さや取り付けやすさも売りだった。ちなみに、富田はこのとき最初で最後のレースチーム監督を務めている。トミタオートがフルスポンサーとなってMTDカラーのF3マシンを走らせることになったからだ。ドライバーはハヤシレーシング(林みのるの従兄・将一の経営)の社員だった新人の小河等。「F3に乗れるなら何でもやる。食っていけなくても水だけ飲んで頑張る」。自分と同じメカ上がりで生真面目な小河のハングリーさに富田はほだされた。小河はその後、日本のトップレーサーとして活躍することになる。
トミーカイラ誕生前夜ハルトゲジャパンが設立される少し前に、以前から知り合いだったコジマF1のエンジニア、解良喜久雄がトミタオートに入社している。解良の才能を見込んだ富田は早くからオリジナルブランド“トミーカイラ”の名前を思いついていたが、それをいきなり発表することはなかった。
富田の戦略は巧妙だった。AMGからチューニングカービジネスのノウハウを学び、ハルトゲで実際の開発と販売を経験して、トミタオートの名を日本のクルマ好きに広く知らしめてから、オリジナルブランドの展開を計ろうとしたのだ。
世界に通用する高品質な高性能車が国産メーカーになかったゆえ、ヨーロッパの高性能車信奉がとても強かった時代で、そのうえチューニングに対する理解もまるでなかった。富田は、高性能車の代表格であったM・ベンツとBMWのチューニングモデルを積極的に扱うことで、ベースとすべき高性能国産車の出現を待ちながら、チューニングカーというカテゴリーをまずは日本に浸透させる作戦に出たというわけである。
ターボ疾風を搭載したメルセデス・ベンツの280SE。当時はターボカスタムは邪道という風潮で、普及に苦労したという。おりもおり、冒頭にも書いたように日産との協業が降って湧く。ハルトゲブランドを日産車にも活用しようという富田の戦略は思ってもみない方向へと進み、結果的に“トミーカイラ”というブランドを世に送りだすキッカケとなった。
当時のカタログ表紙にも掲載しており、スーパーカーを押しのけてこの280SEとターボをプッシュしていた。(次回予告)
トミーカイラブランドの誕生と日産とのプロジェクトは、切っても切れない関係にある。そこで富田は異次元の世界を垣間みた。中古外車屋の社長が大企業の商品開発に関わるという前代未聞の事態はさまざまな化学反応をおこし、結果的にトミーカイラが飛躍するキッカケとなる。次回は日産とのプロジェクトで、富田にとってもキーポイントとなったスカイラインの開発秘話に迫る。
文・西川 淳 編集・iconic
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