卓越性を表す世界的基準として名を広めた功績
1904年に創業されたロールス・ロイスは、120周年を祝い、ブランドの豊かで卓越したヘリテージを作り上げた、並外れた人物、物語、そして自動車を紹介する一連のシリーズを展開しています。今回は1904年に焦点を当て、当時の世界と社会、そしてその時代の技術進歩に対するロールス・ロイスの貢献について語られた素晴らしいストーリーを紹介したいと思います。
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創業者たちの物語
2024年5月4日、ロールス・ロイス・モーターカーズは、ヘンリー・ロイスとチャールズ・スチュワート・ロールズ卿の最初の出会いから120周年を迎える。創業者たちの個人的なエピソード、彼らが設立した会社の歴史、そしてその製品はよく知られており、これまでもAMWで数々紹介してきた。
この記念すべきアニバーサリーを祝して、ロールス・ロイスはそのブランドが誕生した歴史的、技術的、社会的背景、そして120年にわたるロールス・ロイスの名前の影響と影響力について考察している。ロールス・ロイスというブランドの起源と遺産を完全に理解するためには、まず少し時代をさかのぼり、1904年に世界を変える最初の出会いを果たす直前の数年間における創業者たちの活動を検証する必要があるだろう。
ヘンリー・ロイス:エンジニア
ヘンリー・ロイスにとっての物語は、1884年末、マンチェスターに最初のエンジニアリング会社、F.H.ロイス社を設立したときから始まる。当初は電池式ドアベルなどの小物を製造していたが、オーバーヘッドクレーンや鉄道操車用キャプスタンなどの重機を製造するようになった。
しかし、20年近くにおよぶ事業拡大と成功の後、1902年、ドイツやアメリカからの安価な製品の流入による競争により、会社は経営難に陥った。ロイスは完璧主義で改良に執着していたため、価格競争に参加したり、製品の品質を落としたりすることは許すことができなかった。日常的な過労と絶え間ない緊張は、すでに弱っていた彼の身体に深刻な影響を及ぼし、ついに彼の健康は完全に崩壊してしまうのだ。
医師から長期休養を命じられたロイスは、南アフリカに住む妻の実家を10週間訪ねる旅に出た。しかし、休養を課せられても、彼のエンジニアとしての頭脳は相変わらず活発で探究心旺盛だった。長い船旅の道中で彼が選んだ読み物は『Automobile』という本だった。原著はジェラール・ラヴェルニュによってフランス語で書かれ、その年に英語に翻訳された。これは文字通り、自動車を製造する方法について書かれた「本」であり、ロイスはこの本に大いに啓発され、刺激を受けた。
心身ともに回復したロイスはイギリスに戻ると、すぐに最初の自動車としてフランスの10H.P.ドコーヴィルを手に入れた。このクルマは非常に出来が悪く、信頼性が低かったため、ロイスは苛立ちのあまり、数々の欠陥に手をつけたと思われがちだ。
しかし実際は、ほとんど逆である。彼がドコーヴィルを選んだのは、まさにそれが優れた最新鋭のマシンだったからであり、それを解体してすべての部品を分析し、ゼロから自分のクルマを製造するという明確な目的があった。ロイスほどの天才でなければ、「現存する最高のものをより良いものにする」ことはできなかったのである。
リトル・アーニーの重要な役割
あまり知られていないが、最初のロイス車の開発に不可欠な貢献者のひとりがアーネスト・ウーラーである。1888年にマンチェスターで生まれた15歳のアーネストは、身長162cmで、1903年に年季奉公の見習いとしてロイスリミテッドに入社したときには「リトル・アーニー」というニックネームで呼ばれていた。彼は製図室で1日1シリング(現在の約7.60ポンド)の賃金で週56時間働き、設計図の作成を学んだ。
ある朝、不吉な呼び出し状が届いた。ロイス氏が彼に会いたがっているというのだ。ロイスは若者が内緒で行っていた手仕事を厳しく叱責した後、メモ帳を取りに行くように命じた。 「それを持って私について来なさい」と彼は言い、作業場へ先導し、そこでドコーヴィルに乗り込み、ジャケットを脱いで袖をまくり上げた。そして、フィッターに手伝ってもらいながら、クルマを几帳面に分解し始めた。その近くでアーニーはメモ帳を持って箱の上に座っていた。「それぞれの部品が手渡され、私はそれをスケッチし、彼らが見積もった寸法を書き加えた」と彼は後に回想した。
ロイスが正しく判断したように、アーニーはその後の自動車の設計に反映される基礎データを把握する理想的な人物だった。ロイスは、アーニーがどん底からスタートしながらも自分を向上させたいと熱望する若者という、同志のような存在であると気づいていたのではないかと勘ぐりたくもなる。もしそうなら、彼は正しかった。1913年、アメリカに移住したアーニーは、設計技師として成功を収め、ベアリングのエキスパートとなって数々の特許を申請した。1947年、彼はフロリダ州ヒルズボロビーチで引退し、そこで初代町長に選ばれた。
小さなことが完璧を生む
ヘンリー・ロイスはわずか10歳で学校を去り、正式な教育は10代後半に通った英語と数学の夜間クラスだけだった。後に世界的に有名なヘンリー卿となった彼は、簡単な算数しかできないと自虐的に語っていた。しかし、彼には学歴の不足を補って余りある本能的、直感的な才能があった。
前述したように、ドコーヴィルはそれ自体が高度に進化した自動車であり、ロイスはその主要な特徴(2気筒エンジン、ライブプロップシャフト、チェーンドライブではなくディファレンシャルドライブ)のいくつかを自らの設計に取り入れた。それは、気圧で作動するインレットバルブではなく機械的に作動するインレットバルブ、より効果的なラジエーター、メイン、ビッグエンド、ギアボックスのベアリングの交換、悪名高いドコーヴィルのトリッキーなツインレバー配置に代わるシングルギアレバーなどである。当初から、彼はクルマ全体の重量を減らすことに執念を燃やしていた。ドコーヴィルのブロンズ製警告ベルは、約20kgもあったが、それも取り外された。
ロイスが緻密で厳密な調査を行ったのは、ドコーヴィルだけではなかった。1902年から1905年にかけて、ロイスは友人や知人の所有するさまざまなメーカーの自動車を修理、調査、試乗し、さらに直接的な見識を深めた。彼自身の記録によると、彼はこの研究の過程で約1万1000マイル(約1万7700km)を走破し、その多くは少なくとも1906年まで所有していたドコーヴィルに乗っていたに違いない。
エンジニアとしてのロイスは、世界最高のクルマを作ることを目指していた。それは、虚栄心や概念実証のためのプロジェクトではなかった。彼は、自分の技術革新が商業的に成立することを望んでいたのだ。残念なことに、魅力的な人柄、幅広い社交的ネットワーク、言葉の巧みさなどは、彼の多くの才能の中には存在しなかった。しかしロンドンに、これらの資質を十分に備えた若者がいた。
チャールズ・スチュワート・ロールズである。
チャールズ・スチュワート・ロールズ:セールスマン
多くの点で、チャールズ・スチュワート・ロールズ卿はロイスの対極にあった。裕福で貴族的、都会的で人脈が広く、高度な、そして高価な教育を受けていた。2人に共通するのは、エンジニアリングと機械への情熱であり、ロールズの場合はレーシングカー、熱気球、飛行機であった。
1898年にケンブリッジ大学を卒業したロールズは、クルーにあるロンドン・ノースウェスタン鉄道に勤めた後、一家の蒸気ヨットであるサンタマリア号の第3機関士として短期間雇われた。しかし、わずか数年後、彼は自分の大きな才能を活かすには別の方法が必要だと気づいた。
1902年1月、ロールズはロンドン西部のフラムに英国初の自動車ディーラー、C. S. Rolls & Co.を開業し、1903年末にはクロード・ジョンソンと提携した。当初はロールスの父であるランガトック卿が出資していたこの企業は、フランスのパナールやモルス、ベルギー製のミネルバを輸入販売していた。事業は一見順調に見えたが、ロールズはすべての在庫が海外で設計・製造されたものであることに不満を抱いていた。顧客のニーズや、訓練を受けたエンジニアとして、そして自動車の愛好家でもあった彼自身の基準を満たすような、国内で生産された自動車を見つけることができなかったのだ。
1904年が明けたとき、変革の可能性を秘めたパートナーシップの要素は整っていた。ロイスは市場を求める才能あるエンジニアであり、ロールズはゲームチャンジャーとなる製品を求める完璧なセールスマンであった。必要なのは、2人を結びつける何か、あるいは誰かだった。
ヘンリー・エドマンズとの決定的なつながり
ロールズは、グレート・ブリテン&アイルランド自動車クラブを通じて、ヘンリー・エドマンズと親交を深めていた。エドマンズはロイス・リミテッドの取締役で、同社の初期の10 H.P.に乗っていた。このクルマに対する彼の熱意が伝わり、ロールズはこのクルマの生みの親との面会を要請し、エドマンズはその約束を取り付けた。マンチェスターからロンドンに戻ったロールズは、クロード・ジョンソンに「世界で最も偉大な自動車エンジニアを見つけた」と語った。ロールズはロイスが製造できるすべてのクルマを販売する約束を取り付け、あとは文字通り歴史となった。
1904年の世界
パーソナリティについてはこれくらいにしておこう。ロールス・ロイスが形成された世界と背景はどうだったのだろうか。
今日、当たり前のように使われているものの多くは、1904年よりまだ何十年も先に誕生したものであり、2024年の現代から見ると、1904年は古代のように感じられる。私たちの時代や経験とは切り離された、粒子が粗く、遠く、白黒の世界だ。
ロールズとロイスは、テレビもペニシリンもFMラジオもない世界で出会った。パナマ運河の建設工事が始まったばかりで、タイタニック号が運命の処女航海に出るのはさらに8年後のことだった。エドワード7世は、1902年に母ヴィクトリア女王の後を継いで在位2年目だった。この年はボーア戦争が終結した年でもあり、ウィルバーとオーヴィル・ライトが動力飛行機で世界初飛行に成功する1年前でもあった。アーサー・バルフォアは英国首相、セオドア・ルーズベルトは米国大統領、フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア・ハンガリー皇帝だった。
1886年にカール・ベンツが、わずか3輪ではあったが、初の「真の」ガソリン自動車を製造しており、モータースポーツはチャールズ・ロールズのような大胆で裕福な愛好家の趣味に過ぎなかった。自動車が大多数の人々にとって身近で手ごろなものになるのは、1913年にヘンリー・フォードが世界初の動く組立ラインを公開して以降で、世界はそれまで待たなければならなかった。
しかし、私たちの現代生活の種はそこにあった。「ベル・エポック」と呼ばれるヨーロッパが平和で政治的に安定していた時期が異例の長さで続いたことで、経済的な自信と繁栄が生まれ、それが技術革新の急増を促したのである。それまでの20年間だけでも、掃除機、電気オーブン、乾電池、ボールペン、映画、空気タイヤ、X線、ラジオなどが発明されている。1904年の偉大な技術的驚異は、時速100マイル(約160km/h)を超えた世界初の蒸気機関車、シティ・オブ・トゥルーロであった。
イギリス初の黒人市長や初の女性大学教授が任命されるなど、社会的・文化的な進歩も大きかった。ロンドン交響楽団が創立コンサートを開き、ウェストエンドにコロシアム劇場がオープンした。文壇では、マーク・トウェイン、H・G・ウェルズ、ジュール・ヴェルヌ、ジェイムズ・ジョイス、レフ・トルストイ、P・G・ウッドハウスが活躍し、コンサートホールやオペラハウスでは、ドビュッシー、シベリウス、ラヴェル、エルガー、プッチーニ、マーラーの作品が初演された。新しいタイプの音楽も開花し、後にジャズに影響を与えるシンコペーションのリズムが特徴のラグタイムも流行した。
ロールス・ロイスが誕生したのは、この極めて豊饒で、ダイナミックで、楽観的な時代であった。先見の明とパイオニアが、この先何年も何十年も、世界の考え方、機能、行動を形作っていく時代であり、まさにロールズとロイスが新しい自動車で成し遂げたことだった。
エンジニアリング、性能、信頼性、耐久性において、それまでのすべてを凌駕するマシンを作ることで、ロイスとロールズは、後に続くロールス・ロイスのすべてのモデルだけでなく、自動車そのものの基準を打ち立てた。そうすることで、彼らは、仕事、移動、通信、地域社会、インフラ、デザイン、技術、素材社会、政治、経済、文化を、彼らが予想もしなかった方法で変革することになるテクノロジーを形作ったのである。
永久の遺産
ロールズとロイスは「世界最高のクルマ」を作るという使命を果たした。彼らは、世界中の超高級車を定義し、今もなお名門の自動車会社と誰からも認識されている。
しかし、おそらく彼らの最高の功績は、ロールス・ロイスという言葉が卓越性を表す世界的基準として使われるようになったことだろう。1904年以来、発明されたあらゆる製品、サービス、装置、技術は、その業界や分野で「~界のロールス・ロイス」となることを目指してきた。120年前にロールス・ロイスが設定した基準は、今もなお、彼らが創設した会社を含め、あらゆる場所で革新と改善の原動力となっている。
AMWノミカタ
ロールス・ロイスは自動車という工業製品を作りながらも、他の自動車メーカーとは異なる、そこはかとなく上品で知的な文化・芸術の香りが漂うブランドであるとこれまでも感じていた。その要因のひとつには「ベル・エポック」と呼ばれる19世紀末から第一次世界大戦までの経済的にも文化的にも栄華を極めた時代に誕生したという時代背景も影響しているのではないかと思う。豊かだからこそ人々がより良いものを求め、豊かだからこそ新しい発想が生まれ、豊かだからこそそれを具現化できる。良い時代に偶然に偶然が重なり合って誕生した奇跡のブランドがロールス・ロイスだが、プロダクトに触れると当時の空気感も今のグッドウッド工場で作り出せるのではないだろうかとさえ思わされる。
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それが何であれ。