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ニュルブルクリンク・サーキットは、ドイツ北西部の丘陵・森林地帯のアイフェル地方にある古城、ニュルブルク城の周囲の自然の地形を生かした歴史的なサーキットだ。サーキットとはいえ、通常のレース用のサーキットというイメージはまったくない、山岳地域丘陵の中を通る超高速のワインディングロードといった感じである。
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■北コースの全長は20.81km
現在のニュルブルクリンク・サーキットは、平地部分にあり、安全基準を高めるなど近代化され、F1グランプリ、WEC世界耐久選手権レースも開催される全長5.148kmの南コース(グランプリ・コース)がある。それと、創設以来の姿を残す20.81kmの北コースの2つのコースからなり、2つのコースは接続されている。ツーリングカー、GTカーの頂点の耐久レースと位置付けられる、ニュルブルクリンク24時間耐久レースは接続された25.947kmという長いコースで開催されているのだ。
北コース(ノルトシュライフェ)はコース全体が森林に覆われた丘陵地帯であり、ニュルブルク城を取り囲むようにコースがレイアウトされている。高低差は300m、コーナーの数は172もあり、しかも多くは3速ギヤ以上の高速コーナーで、森に視界をさえぎられたブラインドコーナーとなっている。
またコース幅が8~10mと狭く、コース外側のエスケープゾーンもわずかで、コースアウトするとガードレールに避けようもなく衝突する。普通のサーキットではスピンしてもなんら問題がないが、ここではスピンするとクラッシュにつながり、車両が壊れてしまうので、リスクを犯してコースを限界まで攻めることは難しい。
路面は、一般的なサーキットのように摩擦係数が高くタイヤがグリップしやすいサーキット専用の舗装ではなく、一般の地方道と同じアスファルト舗装であるため、他のサーキットより滑りやすく、また路面のうねり、舗装の荒れなどもある。さらにコースサイドの落葉や、気象の変化により、コースの一部で雨が降るなど、通常のサーキットの常識が通用しないコースなのだ。
このように速度制限のない公道のワインディングといったイメージのコースのため、レースだけではなく、自動車メーカーやタイヤメーカーのテストコースとして使用されていることもよく知られている。このコースでテストを行なうことでクルマのロードホールディング、安定性やコントロール性、エンジンパワー特性などを総合的に性能を熟成することができるとされている。
■車両開発に利用する目的
コースは高速カーブが連続していながらカーブの先が見通せず、しかもクルマのコントロールを失ったりスピンすれば、即大きなクラッシュ事故となるため、ステアリングを握るドライバーの心理的な重圧はきわめて大きい。安全性が重視され、コース幅の広い通常のサーキットを走るのとは心理的にまったく異なるわけだ。
自動車メーカーの多くがこのニュルブルクリンクでテストを行なうのは、このように一般の公道を走るのと同等以上のプレッシャーの下で、クルマの走りを評価することに意味があると考えているからだ。
したがって、ステアリングの正確さ、シャシーの安定性、安心感、コントロールのしやすさ、入力が大きな場合のサスペンションの動きの滑らかさや乗り心地のよさ、そしてエンジンの冷却性やタイヤのグリップ力のバランスなどが試され、操縦特性としては、アンダーステアであることが求められる。
日本企業ではヨコハマタイヤがいち早く、1970年代後半から高性能タイヤの開発のためにニュルブルクリンクでテスト初めて行なっている。その後、ブリヂストンがポルシェ用のタイヤ開発のためにニュルブルクリンクで精力的にテストを実施し、日産のR32型GT-R、ホンダの初代NSXの開発の舞台となり、日本の自動車メーカーの間でもよく知られるサーキットとなった経緯がある。
■ニュルブルクリンクのコースはどのようにして生まれたのか?
このニュルブルクリンク・サーキットが誕生した経緯も興味深い。
第1次世界大戦に敗れたドイツは、敗戦の傷跡が大きく、しかも戦勝国に巨額の賠償金を支払わなければならなかった。その結果ハイパーインフレが進行し、深刻な経済不況に陥った。社会は不安定で、大量の失業者が生じていたため、これを救済するための公共事業として当時のワイマール共和国政府、アイフェル地方の行政局が自動車産業の振興を目的とした巨大なサーキットの建設を決定した。
きっかけとなったのはアイフェル地方議会の議員であったオットー・クレイツが、ドイツ自動車連盟(ADAC)の賛同を得て専用のサーキットの建設を提案し、アイフェル地方の失業者対策や、自動車会社にテストコースとして貸し出すこと、そして観客や観光客を呼び込むことをコンセプトとしていた。
当時の有力な議員も賛同したため、ワイマール共和国政府の支援も取り付け1925年に建設が開始された。なおこのアイフェル地方は当時はドイツの最貧地方であり、公共事業を行なう必要もあったのだ。
アイフェル地域のアップダウンのある丘陵地形を生かしながら、しかもドイツの地方道路を再現するコース設計とされたのが最大の特徴で、1927年のオープン当初から、全長が22.8kmの巨大な北コース(Nordschleife)と全長7.7kmの南コース(Sudschleife)の2つに分かれていた。
その後ニュルブルクリンクは、ナチス・ドイツの出現以前に完成しているが、開業から6年後にナチス政府が資金を提供してコースが大改修されている。現在は北コースが20.8km、旧来の南コース以外に新南コースが4.5km(現在は5.1km)となっている。新しい南コースは1984年に建設され、1985年のドイツ・グランプリからはこの南コースで開催されている。
ニュルブルクリンクは、当初からドイツの自然を生かし、地方道路を再現したコース・レイアウトとし、当時のレースはガードレールもなしで、公道レースの性格を持たせ、同時にクルマの開発テストにも最適という2つの意図のもとで作られている。
■シルバーアローの誕生
1934年にニュルブルクリンクで開催されたアイフェル・グランプリではメルセデス・ベンツのグランプリカーが事前の車両検査で車両重量規定をわずか1kgオーバーしていたため、チームは、苦肉の策としてボディの純白の塗装を一晩かかって剥がし落とし、アルミ剥き出しのボディにゼッケンを貼り付けてレースに参戦したエピソードは有名だ。このアルミ地むき出しのグランプリカーでマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが優勝した。これがメルセデスベンツのシルバーアローの伝説の始まりとなっている。
1939年のアイフェル・レースでは、ヘルマン・ラングが12気筒エンジンを搭載したシルバーアローで9分52秒の新記録を樹立し、1956年までこの記録は破られなかった。また戦前のニュルブルクリンクでのレースは、この1939年が最後となり、以後は戦争のためにレースは開催されなかった。
第2次世界大戦中には、ニュルブルクリンクの特別観覧席やサーキット・ホテルは臨時の住宅や病院として使われ、 またコースは敗戦直前の1945年には多数の戦車の走行や砲爆撃により大きな被害を受けている。ニュルブルクリンクは西方から進撃してくる連合軍に対するドイツ軍の抵抗拠点のひとつとされたからである。
■F1ドイツグランプリの開催
コースは戦争で大きな被害を受けたにもかかわらず、戦後のニュルブルクリンクの復興は意外と早く、1947年にアイフェル・カップ・レースが再開されている。この当時の入場料は、ワイン、ソーセージ、パンの消費チケットを含み5ライヒスマルクであった。敗戦国のドイツは経済が崩壊状態で、まだワインも食料も容易に入手できなかった時代ならではである。
4年後の1951年には、戦後初のドイツF1グランプリが開催され、ニュルブルクリンクは国際的に再認知された。1954年に開催されたヨーロッパ・グランプリでは観客数は40万人以上という驚くべき記録を残している。
1970年にはレースでの安全性を高めるためにコースは大幅に改修されることになった。1700万マルクの費用をかけ、コース幅を広げ、エスケープゾーンを拡大し、多くのガードレールを新設した。そして改修が終わった1971年からドイツ・グランプリが再開された。
しかしニュルブルクリンク北コースは依然として危険という指摘がグランプリ・ドライバーから行なわれた。その指摘の通り、1976年にフェラーリF1のステアリングを握っていたニキ・ラウダがレース中にコースアウトするという大事故を起こして重傷を負い、それ以後は北コースがグランプリレースに使用されることはなく、自動車メーカー、タイヤメーカーのためのテストコースとして利用され、また一般市民の走行コースとなった。
ただし例外的に1970年に開始されたツーリングカーによるニュルブルクリンク24時間レースは、その後も北コース、南コースを接続して使用されている。
■サーキットの破産からロシア財閥へ
F1グランプリ用として新しい南コースが1984年に建設され、1990年代には5000人の観客が収容できるメルセデスベンツの特別観覧席、さらに新しいVIP棟の建設、医療技術センターの建設、そして新しいアクセス道路の建設の他、室内娯楽場やアドベンチャーワールド施設などもオープンし、1999年には最先端の汚水処理設備が完成するなど、施設面は大幅に革新されている。
2000年にはコントロールラインの計時設備が一新され、1600平方メートルの広さを持つデジタルメディアセンターも新設され、現在では世界最高峰の設備を持つサーキットになっている。
2009年には大規模な改修によって、3億ユーロ(約300億円)の融資を受け、結果的に大きな負債となって2011年頃から経営が悪化。EUに緊急の資金援助を求めたが却下されたため、2012年7月に破産した。
サーキットの実質オーナーは株式の90%を保有するドイツのラインラント・プファルツ州だったが、2014年にドイツの自動車部品メーカー「カプリコーン・グループ」が経営権を得ている。がしかし、買収資金の払込に遅滞が生じ、2016年にロシアの財閥オーナーのヴィクトル・チャリトーニン氏が改めて買収を行ない現在に至っている。
■誰でも走れるサーキット
ニュルブルクリンクではレースだけではなく、レクリエーション、オートキャンプ、自転車競技などスポーツ・イベント、ロック・フェスティバル、安全運転センターなど多様なイベントや活動が展開され、地域経済にも大きく貢献しているのも特徴だ。
一方で、レース時には30万人近い観客が集まり、観客のほとんどは1週間のオートキャンプをしながら観戦をするのもニュルブルクリンクならではのことだ。近年では、近隣のベルギー、オランダ、フランスはもちろん、ロシアや東欧から、またフェリーで海を渡ってイギリスからの観客など、海外からクルマに乗ってニュルブルクリンクを訪れる観光客やレース観戦者が多いのも注目されている。
ニュルブルクリンクの北コースはレースやイベント開催日、インダストリアルデー(自動車メーカー、タイヤメーカーが共同して専有するテスト専用日)以外は、一般に公開されており、走行チケットさえ買えばライセンスなどはなしで、クルマ、バイク、観光バスなどで走行できるのも有名だ。
旅行者の場合は、ニュルブルクリンク専用のレンタカーを借りて走ることができる。最も安い車両クラスで、2周のチケット、ガソリン代、保険込み(ドライバーの傷害、サーキット設備補修費用は除外)で5万円からの値段で借りることができる。
またドライビングスクール、サーキットタクシーでニュルブルクリンクを楽しむ方法もある。サーキットタクシーは、「Ring taxi」などが有名で、プロドライバーの運転する高性能車に同乗できるというシステムだ。
クルマ好きなら、ドイツに出かけたときには一度は体験しておきたい。
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