それは、中嶋一貴がWECからの勇退を発表してからひと月も経たない日のことだった。
中嶋一貴が現役レーシングドライバーとしての活動から退く。WEC勇退のニュースを耳にしていたからこそ、いっそうの驚きと衝撃を持って迎えられた発表であった。
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モータースポーツジャーナリストの段 純恵氏に、中嶋一貴というレーサーの人となり、そして中嶋一貴の思い出、エピソードを語ってもらった。
文/段 純恵、写真/TOYOTA GAZOO Racing
[gallink]
■引退後の質問をしてから13年半……とうとうその時が
WEC第6戦、バーレーン8時間レースで見事優勝を飾り、自身のWEC勇退に花を添えた。まさかそれからひと月も経たないうちに衝撃の発表が待っていようとは……
2008年カナダGPのパドックで、初年度のF1フル参戦に奮闘していた中嶋一貴へのインタビューの最後にある質問を投げた。
将来レーシングドライバーを引退した後、何をしたいか考えたことはありますか?
まだ23歳の中嶋は、ふと思うこともなくはないですけれどと前置きし、耐久レースに出るのも面白いかもしれない、チームを持つことができればそれは自分の楽しみでもあると思う、後進のドライバーを育てることもありうる等々をおもむろに挙げてから、これだけはハッキリしてますと付け加えた。
「レースの現場から離れることは想像できないです。自分はあまり他のフィールドでの才能があるとは思えないんで(笑)」。
それから13年半が経ち、『将来』は現実となって中嶋の目の前に現れた。この間に中嶋はF1を離れ、レース浪人を経験したあと国内トップフォーミュラにデビュー。日本の頂点を2度制し耐久レースで再び世界に挑戦。世界の頂点を制するとともにル・マン24時間レースで3連覇の偉業を成し遂げた。
モータースポーツの公益性が云々される日本はさておき、レーシングドライバーという職業が憧れと尊敬の念をもって語られる海外で誰もが認めるレジェンドとなった中嶋の現役引退。
筆者のつきあいの中に限って言うと「早い」「まだまだ現役で走れるのに」「もったいない」という声ばかりで、最後に「それでも彼の決断を尊重したい」と付け加える点でも皆が一致していた。
■決してブレない、逃げない男の大きな決断
2022年トヨタモータースポーツ体制発表会の壇上で自身のレーシングドライバー引退についてコメントする中嶋一貴
11月のWEC最終戦の前にレギュラー選手からの勇退は発表されていたが、それからひと月も経たないうちに現役活動のすべてから退く話に変わったのだから驚くなというほうが無理である。
12月6日に行われた2022年トヨタモータースポーツ体制発表会の壇上、中嶋は引退について「自分自身で決断した。新しいステージで僕自身がドライバーとして経験させてもらったことを若い世代に引き継いでいかないといけないと思っている」とその理由を述べていた。
今春のスーパーフォーミュラ開幕戦で、台頭する若手選手への対抗心を露わにし、コロナ禍で減らさざるを得ないSF参戦を一つでも増やしたいと語っていたベテランが、8ヶ月あまりのうちに考えを180度転換させた経緯について知りたい気持ちはある。
しかしそれを問うたところで今さらにして無意味であることも確かだ。
F1から国内レース、WECと取材するなかで中嶋一貴という人物に一貫して感じていたのは、ブレない、逃げない、言い訳しない、そして誰かのせいにしない姿勢だった。
「本当に何もかもがうまくいかない厄年だった」といまだに本人が苦笑するF1の2季目、チームスタッフのミスで数回ポイントを落とし、年間ノーポイントで(当時F1の入賞は6位まで)ウィリアムズから放出されても、国内レースで他車にぶつけられてレースを失っても、WEC初期のマシンがとんでもなく乗りづらかった時も、マシンにレインライト装着が義務づけられる前に雨中のレースで回避不可の接触事故により負傷、入院した時も、中嶋は起きた事象について語ることはあっても、言い訳めいた言葉や誰かの責任を追及するような言葉は一切発しなかった。
そんな中嶋のドライバー人生で最大の危機があったとすれば、それは2012年のル・マン24時間レースではなかったかと筆者は思う。
2012年、ル・マン24時間レース参戦時の中嶋一貴
トヨタにとって13年ぶり、自身にとって初めてのル・マンで、中嶋はドライバー交代直後に本山哲がドライブするデルタウイングと接触。相手をクラッシュさせ、自分は修理を経てコースに復帰したものの、結局エンジントラブルでリタイヤとなった。
当時TMG(現トヨタガズーレースシングヨーロッパ、TGR-Eの前身)のドライバー選定基準は『参戦する全カテゴリーの全戦で5年間にミス2回』というとても厳しいものだった。
ここでいうミスとは、ドライバーが気をつければ避けられたはずのミスでアクシデントとなり、資金的、労力的にチームの一年間の苦労をフイにするレベルを指している。このとき中嶋がヤラかしたのがまさにこの大ミスだった。
もう時効だと思うのでこの話をさせていただくが、実はこの時のル・マンの後で、中嶋は当時のTMG代表に呼び出されて相当厳しい叱責を受けている。
「キミは5年中の1回分を使ってしまった。残り4年半。どうすべきかわかっているな」。
そう痛罵された中嶋は、それ以降WECはもちろん国内レースでも大ミスを犯すことはなく、それとともに速さにも磨きがかかり、本当に強いドライバーへと進化を遂げた。
押しも押されもせぬトップドライバーに成長し、余力を残しながら引退することになった中嶋について、スーパーGTでトヨタ勢とガチで闘いスーパーフォーミュラにも全戦帯同しているホンダの佐伯昌浩GTプロジェクトリーダーは、
「本当に手強いドライバー。予選で前にいなくても決勝になると必ず前に来る。ウチにとってはやっかいな(笑)本当に強いドライバーだった」と評した後で、こうもつけ加えた。
「F1で走ってWECでタイトル獲ってル・マンで3連覇したドライバーですよ、中嶋くんは。F1のパドックを歩いてるだけであちこちから声がかかるよ。
将来トヨタから離れたとしても、彼なら日本とヨーロッパのモータースポーツ界で十分活躍していけるし、業界全体の発展に力を尽くせる人材だと思う。ぜひそうなっていってほしいよね」。
■中嶋の経験は次の世代へと引き継がれる
中嶋一貴のスーパーフォーミュラ最終戦となった第6戦での勇姿。中嶋の思いは、中嶋の背中を見て走り続けてきた若いドライバーたちが受け継いでくれるだろう
現役引退発表の翌々日、鈴鹿で行われたSFの合同テストで某トヨタ系チームのマシンを走らせる中嶋の姿があった。
1台体制でマシンの評価に難儀していたチームからのオファーで実現したレジェンド最後のSF走行に、ホンダ系ドライバーからは「ラストランなのに(マシンの)色が違うだろ?」という声が挙がっていた。
中嶋と長年にわたり苦楽を共にしたチーム・トムスも、事情が許せば自分たちのマシンで走らせたかっただろうし、それを叶えられず口惜しかったのではないかと思う。
それでも中嶋自身は、思いがけずSFマシンを走らせる機会を得たことを喜び、これまでと変わらず淡々とマシンを走らせ、データを集め、担当時間を終了すると静かに最後のステアリングを置いた。
その後、中嶋にとって本当にサプライズの出来事が待っていた。
マシンを降りた中嶋がスタッフに呼ばれてついて行った先に、自分の最後の走りを見ようと地元・岡崎からやってきたファンが見守るグランドスタンド、そしてそこから見下ろすスターティング・グリッドに山本尚貴をはじめとする現役ドライバーが全員、トヨタ系はもちろんホンダ系も含めた全チームの関係者、そして中嶋が国内で使い続けたカーナンバー36の緑と白の懐かしいマシンが待っていたのだ。
ハデなことは気恥ずかしい、正式なセレモニーなしで去るのも自分らしいかなと言っていた中嶋だったが、ライバルとして闘った仲間たちの思いがけない餞にこみ上げるものを抑え切れなかったのだろう。
F1のシートを失おうがル・マンで残り16分の悲劇に見舞われようが逆に悲願の表彰台のてっぺんに上がろうが、人前で涙を見せなかった中嶋が何度も何度も目尻を拭う姿に、筆者も胸がいっぱいになった。
「こうやって挨拶する機会をいただけて感謝しています。悔いなくレース活動を終えられたと思っています。立場が変わってもレース界の発展に貢献していきたいと思いますので、これからもよろしくお願いします」。
うっすらと涙が残る瞳に、人生の新しい扉を前にした澄み切った心を映しだし、モータースポーツの最前線を闘ってきた仲間たちに見送られて、中嶋のドライバー人生は静かに、だが暖かい空気の中で本当の幕を下ろした。
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みんなのコメント
中嶋悟と中嶋一貴。
スーパーレーシングヒーローだよ。