MVSベンチュリ(1984年)
ルノー・アルピーヌA610にも似ているが、MVS 260とその兄弟車アトランティック300は完全に独立した製品だ。マニュファクチュール・ドゥ・ヴォワチュール・ドゥ・スポール(Manufacture de Voitures de Sport、略してMVS)が開発し、260psまたは310psのルノー製V6エンジンをミドシップに搭載している。
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性能は高かったが、フェラーリに対抗できるほどのインパクトを、本国フランスでさえも与えられなかった。ベンチュリ260は1984年から1994年まで生産され、後継車のアトランティックは2000年まで生産が続いた。速さはあったが、ハンドリングは同価格帯のポルシェ911には及ばなかった。
ポンティアック・フィエロ(1984年)
フィエロはアメリカン・スポーツカーの中で最も欧州車に近い存在だった。頑丈なボディの下にはミドシップ配置の2.5L直列4気筒エンジンが収まり、パワーは後輪に伝達される。しかし、欧州車との類似点はほぼここまで。コスト削減のため走行性能は期待外れで、オイルがエグゾーストマニホールドに漏れる不具合により車両火災が発生、リコールに至った。
ポンティアックは2代目フィエロを救うため3000万ドルを投じたが、時すでに遅し。1986年から1987年にかけて販売台数は半減し、ロータスを気取ったこのクルマは37万台で生産中止となった。
CXA CX(1985年)
シトロエンは1974年にあっさり米国市場から撤退し、それ以来復帰していない。米国道路交通安全局(NHTSA)の安全規制により、CX(写真)のようなモデルの販売が制限されていたのだ。しかし、オランダ人実業家アンドレ・ポル氏とマルコム・ラングマン氏は1980年代初頭にCXオートモーティブ(CXA)社を設立し、このモデルに活躍の場を与えた。同社はシトロエンのフラッグシップモデルにサイドマーカーライトや密閉型ビームヘッドライトの装着など、数々の改造を施して米国規制に適合させた。
リアルウッドのトリムといった高級装備も用意されていた。CXを購入して改造し、米国へ輸送するコストは極めて高く、米国で合法的に認可された仕様は約3万ドル(現在の約7万3000ドル=約1130万円相当)にまで跳ね上がった。数台が販売された後、1991年にCXの生産が終了。同社はXMの開発に注力した。
ボルボ780(1985年)
ボルボはイタリアのコーチビルダー、ベルトーネとの提携を再開し、760をクーペへと変貌させ、780と名付けた。1985年のジュネーブ・モーターショーで初公開されたそのプロポーションは262Cよりも洗練されていた。シャープでスポーティなラインはボルボのラインナップに調和し、当時の消費者の期待にも応えるものだった。
インテリアはレザーとウッドのトリムで仕上げられ、フラッグシップとしての地位にふさわしく、ボルボがそれまでに生み出した最もエキゾチックなクルマの1つとして、その名を馳せた。世界的にはV6、ターボディーゼル、ターボチャージャー付き4気筒エンジンが選択肢として用意されていた。780の生産台数については諸説あり、ボルボは8518台と発表しているが、正確な数字は1万台前後だと主張する人もいる。いずれにせよ、780の生産は1990年に終了し、後継車が登場したのは1996年の初代C70(ベルトーネは関与していない)まで待たねばならなかった。
ネイラーTF(1985年)
ネイラーは、MGのクラシックカーの高品質なレストアで高い評価を得ていた。そのため、MG TFに現代的なエンジン、トランスミッション、電気系統を搭載するという構想は理にかなっていたと言える。ネイラーTFの完成度の高さは目を見張るものがあったが、最高出力78psのブリティッシュ・レイランド製Oシリーズエンジンと4速マニュアル・トランスミッションという組み合わせは、買い手を惹きつけるものではなかった。しかし、ネイラーにとって真の問題はコストだった。
TFの当時の価格は1万4950ポンドで、トヨタMR2の方が安価で運転性能も高く、実用性も上回っていたのだ。愛国心を煽るようなマーガレット・サッチャー首相による試乗すら、販売を100台以上押し上げるほどの効果はなかった。
メルクールXR4Ti(1985年)
フォードは、欧州向けのスポーティなシエラXR4iを米国に投入すれば、BMWやメルセデス・ベンツ、アウディといったブランドとの競争に打ち勝てると考えた。同社はこのモデルを『メルクール(Merkur)』という新しいブランド名で販売することにしたのだが、それはドイツ語風に聞こえるという理由でのネーミングだろう。
米国仕様モデルはV6エンジンではなくターボチャージャー付き2.3L直列4気筒エンジンを搭載した。これが車名に付いた「T」の由来だ。あまりにニッチすぎたXR4Tiは、ドイツから約4.2万台が輸入された後、1989年に生産終了。大型モデルのメルクール・スコーピオも同様の運命をたどった。
ダイハツ・クオーレ・アバンツァートTR-XX R4(1985年)
三菱ランサーエボリューションやスバル・インプレッサといった世界ラリー選手権(WRC)車の市販版が世界を熱狂させていた頃、ダイハツは独自の解釈でクオーレ・アバンツァートTR-XX R4を投入した。ただし、WRCでのステージ優勝というより、活況を呈していた日本の軽自動車市場から生まれたものだ。
小さなクオーレは、他社の有名なラリーカーと同様に四輪駆動システムとターボエンジンを搭載していたが、排気量659ccではやや非力だった。4気筒エンジンは64psを絞り出し、0-97km/h加速は8.5秒。本気で追い込めば最高速度160km/hに達する。大した数字ではないように見えるかもしれないが、クオーレはハードに運転せざるを得ない特性ゆえ、驚くほど楽しめ、どんな旅も一味違うものにしてくれる珍しい存在だった。
UVA F33(1986年)
このUVAフュージティブF33 Can-Amは、ミドシップにローバーV8エンジンを搭載したミニマルなF30を基に誕生したモデルだ。有名なアリエル・アトムより10年以上も前に登場したF33は、UVAのオフロード用サンドバギーに着想を得たシャシーに、骨組みだけのボディワークを載せている。
1986年の発表当時、その性能はスーパーカー並みだった。しかし、フェラーリ・テスタロッサ風のサイドインテークや驚異的な性能を誇っていたにもかかわらず、12台しか売れなかった。1980年代の過剰さを象徴する1台だ。
スズキ・サムライ(1986年)
このクルマが本質的に不安定だという認識は、発売当時の人々の心に刻まれている。サムライはスズキ・ジムニーの輸出仕様だが、米国のとある雑誌で「横転しやすい」という記事が掲載され、訴訟問題に発展。記事の内容は眉唾物だったが、残念なことにネガティブなイメージが根付いてしまった。
サムライは廉価版ジープ・ラングラーのような位置づけで、楽しさとオフロード性能を求める若いドライバーをターゲットに設計された。約20万台が販売されたものの、クルマの不安定性を報じた雑誌社に対する訴訟後、販売も不安定になったと言われている。
BMW Z1(1988年)
当時8000台しか売れなかったZ1は、BMWの歴史の中ですっかり影の存在となっている。1988年の発売当時、ベースとなった当時の325iスポーツの2倍以上の高価格だったが、流麗なデザインと特徴的なドロップダウンドアに惹かれた人は多かったはずだ。その後、Z1は後継車であるZ3 MやZ4 Mにやや影を潜めることになった。Z1の扱いにくさや控えめな性能に対するやや不当な評判も、その傾向に拍車をかけた。それでもなお、少数ながら熱心なファン層が存在する。
シボレー・ベレッタGTU(1988年)
ずばり、初代フォルクスワーゲン・ゴルフGTIの米国版である。ベレッタGTUはシボレーのレースでの成功から生まれ、130psの2.8L V6エンジンを搭載。0-97km/h加速9.2秒と、ゴルフGTIよりわずか0.2秒遅いだけだ。
ベレッタGTUが他と一線を画しているのは、よくあるスポーティ版とは異なるアプローチを取った点だ。シボレーは単にボディキットを装着しただけでなく、サスペンションを調整し、高性能タイヤを履かせた。さらに、そのGTUの血統を控えめに表現していた点も特徴で、このあたりもゴルフGTIとよく似ている。
ビュイック・リアッタ(1988年)
リアッタはクーペとコンバーチブルが用意され、1980年代後半のビュイックのラインナップの頂点に位置づけられていた。ミシガン州ランシングにある専用施設で主に手作業で生産され、当時としては比較的先進的なクルマだった。オプションとして16方向調整シート、オートヘッドライト、さらにはタッチスクリーンまで用意されたが、これらの装備は段階的に廃止されていった。経営陣は年間約2万台の販売を見込んでいたが、1988年から1991年にかけて生産されたのは約2万2000台に留まる。お世辞にも成功とは言い難く、この教訓から、ビュイックはその後2人乗りモデルを販売していない。
ダイハツ・ロッキー(1988年)
このコンパクトSUVは、日本ではラガー、英国ではフォートラックとして知られている。日本と英国では一定の成功を収めたが、SUVには大型化を求める米国市場では小さすぎた。エンジンラインナップも魅力に欠け、100psに届かない4気筒エンジンは、予想通り鈍重な走りを披露した。ハンドリングも悪く、米国市場におけるイメージ向上にはまったく貢献せいず、1992年には完全に撤退した。
クライスラーTC by マセラティ(1988年)
クライスラーとマセラティの親会社デ・トマソは、1980年代半ばにスポーツカーの共同開発で合意した。計画は紙の上では見事だった。クライスラーはマセラティの名声を利用し、米国市場で最高峰の2ドア車と対抗できるフラッグシップモデルを生産するつもりだった。
イタリア・ミラノで組み立てられるため生産に時間はかかったが、エンジンオプションにはコスワース設計の16バルブヘッドを備えた2.2L 4気筒と、三菱製のV6が含まれていた。クライスラーは約7300台を米国に輸入した後、このプロジェクトを中止した。今にして思えば、マセラティのエンジンを採用していればTCの寿命は延びていただろう。
レクサスES(初代、1989年)
トヨタは当初、初代レクサスLS(セルシオ)をフラッグシップモデルとして構想していた。しかし、米国を中心とする市場調査の結果を踏まえ、専用のブランド化が必要と判断。販売台数を確保するために、カムリをベースにESを開発した。
1989年デトロイト・モーターショーでLSと同時にデビューし、LSより小型・廉価なモデルとして位置付けられた。レクサスは1989年9月、LSの初回生産分1000台を納車した翌月にESの販売を開始した。両モデルは人気を博し、1989年末までに1万6000台の販売を達成。1991年には内外装ともにレクサス専用デザインを採用した2代目ESが登場した。
ベルトーネ・フリークライマー(1989年)
1980年代、4WD車セグメントは劇的な変貌を遂げた。かつては実用車として購入されていたジープ・グランドワゴニアやランドローバー・レンジローバーが、ステータスシンボルへと変化したのだ。ベルトーネはこれを好機と捉えた。
ダイハツ・ロッキーをベースに、格段に洗練されたインテリアを採用し、細部のデザインを改良。特に重要な変更点として、滑らかで高出力なBMW製エンジンに換装した。このモデルは1989年よりフリークライマーとして販売された。初代フリークライマーは1989年から1992年にかけて約2800台が生産された。この数字は驚くほど多いわけではないが、新型ロッキーをベースにした2代目モデルの開発が決定。フリークライマーII(写真)の販売は1992年に始まり、1995年までさらに2800台が生産された。その後、ベルトーネは他のプロジェクトの生産能力を確保するため、フリークライマーの生産を終了した。
ラフォルツァ5リッター(1989年)
1989年に登場したラフォルツァ5リッターは、1980年代後半にイタリアを訪れた人なら誰もが親しみを感じるデザインだった。イタリア軍、警察、カラビニエリ(憲兵隊)向けに、イヴェコのシャシーをベースに生産されたレイトン・フィッソーレ・マグナムをさらに発展させたモデルだ。マグナムはフィアット・ウーノをマッチョにしたような外観で、これをレンジローバーに対抗する高級SUVへと改造するよう依頼されたのがデザイナーのトム・ジャーダ氏(1934-2017)だ。
5リッターはフォード製4.9L V8エンジンを搭載し、4速オートマティック・トランスミッションを介して四輪を駆動した。インテリアは本革シートとリアルウッドで高級感を演出。発売当初は特にカリフォルニア州で好調だったが、初期モデルはさまざまな不具合に悩まされ、同社の米国部門に打撃を与えた。1990年に破産申請したが、サウジアラビアのバドラーン・エンタープライズ社が資産を買収(同国での5リッター販売を開始)したことで復活を果たした。
ダッジ・ダコタ・スポーツコンバーチブル(1989年)
1989年に発表されたダッジ・ダコタ・スポーツコンバーチブルに対し、消費者は一様に「ちょっと待て、何だこれは?」と驚き、続いて「なぜ?」と疑問を抱いた。その名が示す通り、これは手動式ソフトトップを備えたピックアップトラックだが、「スポーツ」という名称はかなり疑問符が付くものだった。このモデルは短命に終わり、フォードやシボレーからの競合車も生まれなかったが、1980年代で最もユニークなピックアップトラックの1つとして記憶されている。ひょっとすると、これは日産ムラーノ・クロスカブリオレやレンジローバー・イヴォーク・コンバーチブルの前身だったのだろうか?
ビーガンチューン・エヴァンテMk2(1990年)
英国のビーガンチューン(Vegantune)が1960年代のロータス・エランを改良したモデル。バックボーンシャシーを基に、エヴァンテMk2はフォード製ブロックをベースにした独自の1.7Lエンジンを搭載し、142psを発生した。性能はオリジナルのロータスを上回り、造り込みも良かった。しかし、1990年代初頭の景気後退期に、クラシックなロータスを思わせる高価な2シーターは受け入れられず、エヴァンテは失速する。
興味を示す人は少なく、実際に購入する人はさらに少なかった。そのため、ハンドメイドのエヴァンテMk2はわずか6台しか生産されなかった。その後、ビーガンチューンはFleur De Lys社に売却され、そこでフォードのゼテックエンジンを搭載した12台が追加生産された。現在では活発なオーナーズクラブが存在する。
キャデラック・シマロン(1982年)
シマロンの物語は中途半端な取り組みの記録だ。1982年に登場したシマロンは、プレッシャーの産物だった。海外メーカーに販売を奪われることを懸念したキャデラックは、既存プラットフォームを流用した新型車の開発を強く望んでいが、問題はその開発期間がわずか1年しかなかったことだ。
そこで、シボレー・キャバリエをフルスペック化し、バッジエンジニアリングを施したものをキャデラック・シマロンとし、4000ドルのプレミアム価格で販売した。年間2万台という安定した販売台数を維持したものの、この稚拙なバッジエンジニアリングは消費者に見抜かれ、シマロンの販売は6年で徐々に萎んでいった。
写真:1983年モデル
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みんなのコメント
一回だけチューリッヒだったか、デュッセルドルフで見たことあったけど、とてもカッコ良かった。