作家・安部譲二の華麗な自動車遍歴コラム『華麗なる自動車泥棒』連載第2部スタート!クルマが人生を輝かせていた時代への愛を込め、波乱万丈のクルマ人生を笑い飛ばす!月刊GENROQ‘97年4月から56回にわたり連載された『クルマという名の恋人たち』を、鐘尾隆のイラストとともに掲載。青年期からギャング稼業時代、そして作家人生の歩みまで、それぞれの時代の想いを込めた名車、珍車(!?)が登場します。稀代のストーリーテラー安部譲二のクルマ語り!(文:安部譲二 イラスト:鐘尾 隆)
友人が「このクルマ、面白いぞ。買わないか?」と、見せに来たグレーのライトスポーツは、昭和38年頃にローマで見たイノチェンティのカブリオレに似ていました。
小さな2シーターは内装が赤で、何とも言えず粋に見えたのです。
クルマが好きな友人同士は、お互いのことがよく分かっていて、大きなクルマでも小さなクルマでも相手の好みをよく知っていました。
友人は、見せれば必ず僕が気に入ると思って、このグレーの小さなカブリオレを持って来ました。小さなクルマの命は、エンジンや馬力ではありません。
デザインと、それにシート、そしてブレーキの利き具合なのです。
何とか大きく見せて、しかも4人乗れるようにしようなんて思うと、どうしても野暮ったいフォルムになってしまうし、ただでさえ小さなクルマですから、シートがよくなければ長い道は辛くて堪りません。
それに小さなクルマほどブレーキが効かなければ、大きいクルマよりも事故をやった時の怪我が大きいのです。
「これは国産のホンダS‐500と言って、半年ほど前に売り出されたクルマです」
とてもよく出来ていますよと友人は言って、買った男は新聞記者で、運の悪いことに2年ほどアフリカに転勤することになったから、涙を呑んで売りに出したのだと事情を教えてくれました。
アフリカではカブリオレのライトスポーツは、土埃りと太陽の暑さで楽しめません。
それに夜道を走っていて河馬か犀(さい)にぶつかれば、こちらが壊れてしまうでしょう。
コクピットに入った僕は、シートの坐り心地のいいのに驚きました。
ホンダが初めて造ったライトスポーツには、非の打ちどころのない素晴らしいシートがついていたのです。
エンジンを掛けてみたら、いいエキゾーストノートが響いてスムーズに回転が上がりました。
友人をコ・ドライバーズシートに乗せて、クラッチを繋いだら、お尻が可愛くピョンと跳ねて走り出したのですが、レッドゾーンの直前まで引っ張ってシフトアップすると、500ccの排気量とはとても思えないほどのダッシュです。
「これはスピットファイアに勝てるかもしれないぜ」
僕は叫ぶと、値段を訊きました。
まだ8000kmしか走っていない新車同様のコンディションでしたが、値段はこなれていたので、僕は堪らず買ってしまったのです。
粋で垢抜けていて、何とも言えずいいフォルムで、青山通りを走ると皆、目を見張りました。
178cmで85kgぐらいだった僕には、坐り心地とドライバーズポジションはとてもよくても、コンパクトなボディなので乗り降りは、靴が引っ掛かったりします。
誰も見ていないところで、鮮やかにヒラリと乗り降りする練習を、若かった僕は出来るようになるまで飽きずに何度でも繰り返しました。
こんな洒落た小粋なクルマを、モタモタノソノソ乗り降りしていたら、野暮ったくて仕方がありません。
男が見栄と気取りを喪えば、そんなものは煙草を吸って正上位で女を愛する珍しい豚だと、昭和41年、29歳の僕は思っていました。
買ったのが春で、秋になったら瞬間風速40mという台風がやって来て、北青山のキラー通りに頭を246に向け、お尻を代々木に向けてホンダS‐500を駐めると、威勢よく吹く風にあおられてよろける若い綺麗な女を、僕は楽しく見ていたのです。
風は凄かったのですが、雨は降っていません。僕の可愛いホンダS‐500は、お尻をあげてノーズを下げて目の前に駐まっていました。
突然、凄い風が吹きつけてきて、ビルの巨きな看板が宙に舞って246とキラー通りの交差点まで、唸りをあげて飛んで行くと、大きな音を発てて落ちたのです。
やあ、凄い風だな……と、僕が驚いていたら、続けてもっと強いのが吹きつけて、僕の見ている前でホンダS‐500のトランクの蓋のヒンジがふたつとも、折れてしまって蓋だけ凧のように空を飛びました。
こんなこと見たことがありません。
上げていたお尻がモロに風を受けたので、堪らずふたつのヒンジが両方同時に折れてしまったのです。
鋳物の金具がふたつとも、ひと吹きの風で折れてしまったのには、自然の恐ろしさを感じるというよりも、とりあえず僕は呆れました。
いくら台風でも、風に吹かれて壊れてしまうクルマなんて、見たことも聞いたこともあるものかと、どこまでも飛んで行く蓋を追い駆けながら、僕はしきりに頭を左右に振ったのです。
ホンダの工場が、保証修理は出来ないと言ったので、怒った僕は、風で壊れるクルマを売って無料で直さないというのは納得しないと、冷静に言いました。
友人のところで麻雀を始める時間が迫っていたので、僕は仕方なく、明日また来るから話し合おうと言うと、トランクの蓋がないクルマで昭和通りを神田に向かったのです。
徹夜で麻雀をして勝ち負けなしということになると、ひと晩、自分は何をしていたのかと思って、僕はゲンナリしてしまいます。
勝てばよし、負けても闘ったという満足感はあるので、ツーペーになった時よりも納得がいくのですが、不機嫌な僕がトランクの蓋のないホンダS‐500のところまで来たら、スペアタイヤとジャッキ、それに工具が姿を消していました。
そんなものを盗んでどうするのだ、馬鹿野郎のコソ泥め……と、僕は思わず声を出して喚きました。
ホンダが無料で直すことを断ったから、こんなことになったのだと僕はチンピラ得意の理屈で、八ツ当たり気味の仕返しをすると決めたのです。
蓋の代りに金網を張って、トランクの中に小さな鶏を2羽入れると、
「台風で蓋を吹き飛ばされたのに、ホンダは保証修理を拒否したので、鶏を飼って卵を生ませることにしました」
白い紙にハッキリ大きく赤のサインペンで書いて、僕は幌の後ろに粘着テープでしっかり貼りつけました。
バーストしたらスペアタイヤがないので、僕はゆっくり都内を走り回ったのです。
交差点で止まると、後ろのクルマから降りて来た男が「本当に風で飛んじゃったんですか。鶏は揺られても卵を毎朝、産むんですか」
なんて目を丸くして訊きました。
皆、指を指して驚いたり、笑ったりしたのです。1ヵ月それをやっていたら、鶏が目を回して結局、4羽も買いました。
遂にホンダは僕の家にやって来て、写真週刊誌なんかにもし撮られると、ブランドイメージが傷つくので、お互いに歩み寄っていい線を出しましょうと、言ったのです。
その頃、ホンダS‐600が出たので、僕はトランクの蓋の修理代を払うから、ホンダは新しいエンジンに載せ換えろと言ってやると、ホンダの男は腕を組んで唸りました。
5日も話し合って、僕が現金で10万円払い、ホンダはトランクの蓋を直してその上600ccのエンジンに載せ換えることで、とても気持ちよく合意したのです。
もっとも気持がよかったのは僕だけで、ホンダは機嫌が悪かったのかもしれません。
日本は民主主義国なのですから、何でも怒鳴り合わずによく話し合わなければいけないと痛感した僕は、台風の風に礼をしなければいけないと思ったのでした。
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