「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:SAN’S/モーターマガジン社)*タイトル写真は、1989年11月12日全日本ツーリングカー選手権(JTC) Rd6富士インターテック。カルソニック・スカイラインGTS-Rで参戦。
国内ハコレースで不完全燃焼。その悔しさをバネに伝説の90年代へ
日本で本格的な4輪レースが行われてから、レーシングスポーツやフォーミュラなどが最高峰として注目されてきた。これと並行して、身近な市販車で競われるツーリングカーも根強い人気を集めてはいたが、それらはあくまでもローカルレースだった。
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しかし、1982年にグループA規定がスタート、ツーリングカー、いわゆる「ハコ」のグループAマシンによるヨーロッパ選手権が大いに盛り上がる。そして日本でも85年、グループAマシンを使った全日本ツーリングカー選手権(JTC)がスタートする。
日産はこのレースに、スカイラインRSターボ(DR30)を投入。星野は第2戦、筑波でのレース・ド・ニッポンで、近藤真彦とペアを組んでエントリー。PPを獲得しながらも結果はリタイア。星野がこの年の全日本ツーリングカーを走ったのはこの1戦だけだった。翌86年はエントリーせず、87年にはホシノレーシングは参戦したが、自ら走ってはいない。
日産は86年こそスカイラインRSターボ&鈴木亜久里でチャンピオンとなったが、87年には三菱スタリオン、トヨタ・スープラ、そしてヨーロッパで活躍していたフォード・シェラの速さに対抗できなくなっていた。
そこで富士で行われた年の最終戦のインターTECで、日産&ニスモは新型のスカイラインGTS-R(HR31)を投入、ホモロゲーション取得のための800台限定のエボリューションモデルである。
星野もステアリングを託されるが、フォード・シェラ勢を上回るには至らない。星野は88年も再び走らなかったが、翌89年ついに全日本ツーリングカーにフルエントリー。大先輩である北野元とのコンビで第2戦・西仙台で勝利するが、同じスカイラインGTS-Rを駆る長谷見/オロフソン組が3勝しチャンピオンを獲得したことを思えば、不完全燃焼なシーズンとなった。
しかし、その悔しさを晴らすためのマシンが既に出番を待っていた。(90年代に続く)
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