クルマへの信頼性確立に「ラリー」が果たした役割とは
F1日本グランプリのホストサーキットとして知られる鈴鹿サーキットが1962年に完成。翌63年には、その鈴鹿で初の日本グランプリが開催されています。これを国内における近代モータースポーツの事初めとする説が有力ですが、厳密に言うなら近代モータースポーツではなく近代レースの事始め。じつはその5年も前に、国内メーカーが海外に打って出たモータースポーツイベントがあったのです。それがラリー。ただし、現在の世界ラリー選手権(WRC)シリーズイベントのような速さを競うというより、速さを兼ね備えたクルマの耐久性を競うものでした。
「ラリーの日産」と言われたほど勢いがあった! 1970年~1990年代に活躍した名ラリーカー5選
海外に打って出たトヨタと日産の「黎明期」
ジャパン・チャレンジはオーストラリア大陸を一周するモービルガス・トライアルで始まりました。国内メーカーで初めて、海外ラリーに挑戦したのはトヨタでした。
1957年8月21日~9月8日にオーストラリアで開催された豪州一周モービルガス・ラリーに、主催者から招待されたトヨタ自動車は誕生・発売から僅か1年半のトヨペット・クラウン・デラックスを投入。近藤幸次郎/神之村邦夫組の日本人クルーが参戦したのです。
参加した102台中、約半数の50台がリタイアや失格で脱落していく中、近藤組は見事完走。52台中47位、海外からの遠征組としては11台中3位で栄えある『外国賞』を受賞しています。2人のクルーは、ドライビングだけでなく車両点検から修理に至るまでのサービスを、すべて自分たちで行ったことでも大きな注目を集めることになりました。
このモービルガス・ラリーですが、翌1958年には日産が挑戦することになりました。用意された車両は210型の型式名を持ったダットサン1000。富士号、桜号の愛称が与えられた2台のダットサンは、本来の大きな参戦目的である車両の耐久性確認テストに加えて、外国車の実勢調査も参戦目的のひとつとしていました。
後に日産ワークスの監督としてサファリ・ラリーなどでの活動を指揮、さらにはNISMOの初代社長としてル・マン24時間レースでも総指揮を執るなど日産のモータースポーツ活動を支えることになった難波靖治さんは「競技車がリタイアしている現場に差し掛かったら、いったん止まってトラブルの原因を聴いて回った」と回想していましたが、本来の目的でもあった耐久性確認テストでも、パーツにメートル規格とインチ規格が混在している不合理さを痛感。以後の日産車のパーツを、メートル規格に統一することに大きく役立つ結果になりました。
肝心の競技成績ですが、2台ともに完走し、難波/奥山一明/G.ウィルキンソン組がドライブした富士号が総合24位で1000cc以下のAクラスではクラス優勝を飾り、大家義胤/三縄米吉組の桜号もクラス4位に入り、「技術の日産」をアピールすることになりました。
サザンクロス・ラリーで三菱は大躍進
1958年で豪州一周モービルガス・ラリーの開催が終了になりましたが、60年代も中盤に入るとオーストラリアでは、よりスポーツ性の高まった新たなラリーが誕生しました。それがサザンクロス・ラリーです。
日本からも数多くのプライベートチームが参戦することになりましたが、メーカーとして力が入っていたのは三菱でした。戦後、3つの会社に分割された旧・三菱重工業が、再び3社が合併して新しい三菱重工業としてスタートした3年後、1967年のことでした。使用されたモデルはコルト1000F。3社のうちで神戸市に本拠を構えて小型乗用車を担当していた新三菱重工業(元の中日本重工業)の水島製作所で開発されたコルト800に、やはり新三菱重工業の名古屋製作所で開発されたコルト1000用のエンジンを搭載したモデルで、新しい三菱重工業の自動車部門が一本化されるマイルストーンとなったモデルでもありました。
そもそもは、1965年に発売したコルト800をオーストラリアに輸出しようと考えていた三菱は、1966年に現地での走行テストを実施しましたが、その取りまとめを担当したダグ・スチュワートから、同年に第1回大会が開催されたサザンクロス・ラリーに出てみたらどうだ? との提案を受け、1967年の第2回大会に出場することになったという経緯がありました。
2台のコルト1000が、スチュワートとコリン・ボンドに託されて出場したのですが、ボンド組が総合4位で1000cc以下のAクラスでクラス優勝。スチュワート組もクラス3位入賞を果たすという、上々の結果を残しています。
翌1968年にはコルト1100F、1969年にはコルト1500SS/コルト11F SS、71年にはギャランAII GSと、よりハイパフォーマンスなクルマを次々に投入していった三菱は1972年、後にラリーアート・ヨーロッパを率いてWRCで活躍することになるアンドリュー・コーワンをエースに迎え、2台ずつのギャラン16L GSとギャランGTO 17Xを投入。
コーワンが駆るギャラン16Lは、クラッチやブレーキにトラブルを抱えて満身創痍となりながらもフェアレディ240Zとのバトルに勝ち、三菱として初の総合優勝を飾ることになりました。
翌73年には真打ともいうべきランサー1600GSRを送り込んで、コーワンが2連覇を果たすとともに総合で1-2-3-4を独占しています。
さらに、1975年にも総合優勝を飾り、1972~1975年の4年間で3勝を挙げ、サザンクロス・マイスターとして「ラリーの三菱」をアピールすることになりました。
海外で鎬を削り始める日本メーカー
一方、1958年の豪州一周モービルガス・ラリーで初参戦ながらクラス優勝を飾った日産も、このサザンクロス・ラリーに挑戦しています。70年代初頭からはフェアレディ240Z(ダットサン240Z)も投入するなど、メーカーとしての威信をかけた戦いを展開することになりました。そして1977年には、ブルーバードがブルーバードUに移行したことで、現実的な後継車として1973年に登場していたバイオレット(輸出名はダットサン710)を投入。
名手、ラウノ・アルトーネンがドライブして悲願の優勝を飾っています。 さらに翌1978年からサザンクロス・ラリーの最終年度となった1980年まで、ダットサン710の後継となるスタンザ(型式名はA10)で3連勝。都合4連勝を飾ってサザンクロス・ラリーの歴史に幕を閉じることになりました。
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