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ヨーロッパで、いや世界で最も成功したクルマ、フォルクスワーゲン・ゴルフは、2019年で45周年を迎えた。その初代ゴルフは1974年3月29日ドイツ・ヴォルフスブルクにあるフォルクスワーゲンの工場で、後にベストセラーとなる初代ゴルフの生産が開始された。
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その当時、フォルクスワーゲン社の誰もが、このゴルフが世界中で3500万台以上も売れるクルマになるとは考えていなかった。そして、当時のフォルクスワーゲンは危機的な状況にあり、もしゴルフがヒットしなかったら、その後の運命はどうなっていたか想像できない。
ビートルの奇跡
フォルクスワーゲン・ビートル(タイプ1)は、1930年代初頭にフェルディナント・ポルシェが設計し、1938年に量産用プロトタイプが完成した。このビートルタイプIは、ポルシェが1920年代から構想していた「誰もが購入できるローコストの高性能コンパクトカー」に端を発している。
つまりビートルのコンセプト作りや設計は第2時世界大戦が始まる前であったが、そのコンセプトは高価な乗用車を遥かに上回る高速性能と耐久信頼性、燃費、パッケージングを備えた革新的なクルマだったのだ。
不幸なことに第2次世界大戦が勃発し、せっかく専用の生産工場を建設したにもかかわらず、ビートルの生産は行なわれず工場は破壊された。ドイツの敗戦後、ドイツ国内の工場設備などは戦勝国が接収し、ビートルの技術を自国に持ち帰ることも許されたが、アメリカもイギリスも、ビートルの高性能さや革新性に気づかず無視をした。
この時、アメリカから派遣されたヘンリー・フォード二世も工場やビートルを調査していたが、このクルマには価値がないと断定したのだ。そんな事情があって、フォルクスワーゲンは戦争終結後、いち早く生産開始の準備をすることができたという皮肉な幸運もあった。
ビートルの生産が行なわれたのは1945年後半となったが、46年には1万台の生産レベルに達している。ヨーロッパの自動車メーカーは大なり小なり、戦争の影響を受け、新たなモデルの開発は行なわれず、戦後復興したメルセデス・ベンツも生産を再開したのは戦前からあった1936年型モデルの170V(W136)からで、総合的な性能ではビートルが上回っていたのだ。
ビートルの製造が軌道に乗ると爆発的なヒットとなり、1949年からはアメリカにも輸出され、輸出先でも販売は成功した。
この結果フォルクスワーゲンは自動車メーカーとして確固としたポジションを築き、外貨を稼ぐことでドイツを経済破綻から救う役割も担うことになった。ビートルは2003年にメキシコでの最後の生産が終了するまで、累計2105万台も販売された。フォルクスワーゲンはこの1車種だけで巨大な自動車メーカーに成長したのも特異な点である。
ゴルフ誕生前の苦悩
1960年代に入ると、多くの自動車メーカーが戦後設計のモデルを開発し発売を始めた。フォルクスワーゲンはビートルが依然として好調ではあるものの、次期型モデルを構想する必要も感じ始めたのは当然だろう。
次世代モデルの構想は1950年代終盤には着手されていたが、ビートルを上回る次世代モデルのコンセプト作りは迷走を繰り返した。多くのプロトタイプが作られたが、空冷エンジンの搭載、デザイン的な迷いなどもあり、開発予算を注ぎ込んだ割には方向性が定まらなかった。
60年代後半には、フォルクスワーゲンの生みの親ともいえるポルシェ社に開発を依頼し、リヤシート下にエンジンを押し込んだミッドシップの2ボックス・ハッチバック「EA266」なども試作されたが、これも量産前提のコスト見積もりを行なうと実現不可能と判明した。
ドルショックとオイルショック
またこの時期には、欧州フォード、オペルなどから競合車が多く出現し、1960年フォルクスワーゲンは、ドイツで45%のシェアを占めていたが、その後は次第に販売にブレーキが掛かり、1972年には26%にまで低下していた。その後はオペルにシェア・トップの座を奪われている。
さらに1971年に米国・ニクソン大統領によるドル・ショックが発生。固定為替レートの廃止、輸入関税の導入、ヨーロッパ諸国の対ドルレートの切り上げなどが発生。ドイツマルクは対ドルで40%も上昇した。同時にアメリカの輸入車に10%の関税がかかるようになり、ビートルの販売は絶望的となったのだ。
さらに1973年に石油危機が発生し世界的な景気後退を引き起こし、ドイツ政府は特定の曜日の自家用車使用禁止という緊急措置とアウトバーンの速度制限の導入など、自動車メーカー、特にフォルクスワーゲンには大打撃となった。
もし、ビートルの後継車を生み出せなかったり、後継車を造ったとしても、売れなければフォルクスワーゲンに未来はない、という瀬戸際まで追い込まれたのだ。
二つの幸運
こうした危機的な状況の中で、フォルクスワーゲンは2つの幸運と出会うことができた。ひとつは1964年にアウディを買収してフォルクスワーゲン・グループになり、1969年にはNSUも買収。最終的にアウディと合併する形になるが、NSUの革新的なエンジニアがフォルクスワーゲンに合流したことがある。
もうひとつは、イタリアのカロツッェリアであるイタルデザイン社のデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロがフォルクスワーゲンの勧誘に応じて新型車開発に加わったことだ。ジウジアーロは、クルマのパッケージングも習熟しており、2ボックス・ハッチバックで、日本の折り紙から着想を得たエッジを効かせたデザインを産み出し、また一方で、装飾をできる限り抑えたデザインを提案した。
そしてメカニズムでは、NSUから来たエンジニア、ハンス・ゲルトベデロス、ヴェルナー・ホルストらがエンジンとトランスミッションを横置きにして直線的な配置にするFFレイアウト「ジアコーサ方式」や、全長を短く抑えながら効率的なパッケージングを提案したプロトタイプ「EA337」が生まれる。当初、経営首脳部はEA337に否定的だったが、結局これが初代ゴルフと決定したのだ。
初代ゴルフの誕生
全長は3705mm、全幅1610mm、全高1400mm、ホイールベース2400mm、車両重量750kg~805kgというボディ諸元だ。搭載エンジンは、Lグレードが1.1Lの4気筒ガソリンエンジンで出力は50ps。S、LSグレードは1.5L・4気筒ガソリンエンジンで70psを発生した。なお1.1Lエンジンは当時のアウディ50と、そして1.5Lエンジンはアウディ80と共通だった。
トランスミッションは4速MT、オプションとして3速ATが設定されていた。 最高速度は1.1Lエンジンで140km/h、1.5Lエンジンで160km/hだった。この性能は当時のコンパクトカーとしてはトップレベルで、スポーティな走りと燃費の良さで高い評価を得た。
初代ゴルフは、1974年3月29日にラインオフし、7月8日にショールームに展示され、8月5日から発売が開始された。初代ゴルフのボディは3ドア、5ドアの2種類のハッチバックで、トランク容量300L、折り畳み式リヤシートを備えていた。
ゴルフは発売直後から大きな反響を呼び、販売は好調に立ち上がった。当時、石油危機という時代背景もあり、燃費の良いコンパクト・ハッチバックは急激に販売を伸ばしていった。この初代ゴルフは、日本ではヤナセが輸入元で、1975年3月から発売した。
この初代ゴルフの大成功により、フォルクスワーゲンは危機から脱し、ヨーロッパ最大の自動車メーカーという地位を確保した。近年では生産・販売台数で世界ナンバーワンの座にまで上り詰めている。もちろんかつてのフォルクスワーゲンとは違って、ゴルフだけではなく多くの車種をラインアップしているが、それでもゴルフが大黒柱であることに変わりはない。
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フォルクスワーゲン 公式サイト
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