ベンツ×ポルシェの最強タッグが生んだ「羊の皮をかぶった狼」
1980年代の終わり、ダイムラー・ベンツ(当時)は、ポルシェの門戸を叩き1台のクルマの設計を依頼した。「速いツーリングサルーンを作って欲しい」 ──当時のポルシェは輸出事業の収益が落ち込み生産量も減少、業績不振の状態に陥っていた。またとないタイミングで差し出された“手”を、ポルシェが握り返したことで始まった異例の共同プロジェクト。シュトゥットガルトとヴァイザッハのタッグが生んだのは、のちに伝説となるメルセデス・ベンツ 500 Eであった。
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ベース車より56mmワイドで、23mm低いボディを与えられた500 Eは、まさしく「羊の皮をかぶった狼」を体現したようなクルマだった。目指したのは、一見するとW124でありながら、同時に“これまでになかった高性能サルーン”という新基準を打ち立てること。ポルシェはこの仕事を「プロジェクト 2758」と呼んだ。
1990年のパリ モーターショーで多くの人に称賛を浴びた500 Eは、1991年の春にいよいよ販売を開始した。強豪同士がタッグを組み、スポーツカーとサルーンの最高のマリアージュを具現してみせた1台は、いまも別格の存在として支持され、語り継がれている。
心臓部には500 SLのV8を搭載
1988年、シュトゥットガルト近郊のウンターテュルクハイム。ポルシェAGはダイムラー・ベンツAGからの開発契約書を受託した。技術仕様書に規定されていたのは、W124をベースにした実験車の開発。車両には、500 SLに搭載していた5.0リッターV8 4バルブエンジンが搭載されることとなった。
そして500 Eは1995年4月までに、累計1万479台を生産。ちなみにそのすべてが4シーターだったのは、ディファレンシャルが大きすぎて、リヤ中央部にシートサスペンション用のスペースが確保できなかったためであるという。
溢れるパワーを“控えめ”なボディに秘める
500 Eのプロジェクトマネージャーを務めたミハエル・ヘルシャー、そしてプロトタイプ開発のマネジメントを担当したミハエル・メーニグは当時の様子を振り返る。いずれも30年以上にわたりポルシェに勤めてきたプロフェッショナルだ。ヘルシャーは言う。
「30年前、私は3人の同僚と一緒にコンスタンツ湖までそのクルマを走らせました。道中、仲間のひとりがスピードメーターを見て、針が250km/hを指しているのを見てひどく驚いたんです。我々が徹底的にチューンしたシャシーやブレーキ、そしてエンジンが、素晴らしいドライビング体験として具現されたのです」
最高出力326ps/最大トルク480Nmを発するV8エンジンに4速ATを組み合わせた500 Eは、0-100km/h加速5.9秒を実現。最高速度は250km/hでリミッター制御された。実際の最高速度はそれを上回るものであったに違いないが、真実は伏せられたままだ。
「溢れるほどのパワーがありながら、これ見よがしな演出は一切ありませんでした。ダイナミックで、かつ同時にラグジュアリーである500 Eは、決して目立つクルマではありません。まさしく純粋なるアンダーステートメント(控えめ)を体現したクルマでした」とメーニグは述懐する。
最初の14台は手作業で試作
ヘルシャーやメーニグらの開発陣は、まずヴァイザッハの開発拠点で14台の試作車を製作。ベース車両の改修は手作業で行われた。15台目以降のアッセンブリーは、当時のプロトタイプ製作用建屋であったビルディング1で実施。ここから改良された量産パーツや新たに設計されたボディシェル部品が投入された。
「私たちはここ(ヴァイザッハ)で500 Eの開発計画を講じました。比較的小さな車両に大きなエンジンをうまく組み入れるべく、一所懸命取り組んだのです」とヘルシャーは語る。重量配分を整えるために、バッテリーをエンジンコンパートメントからリヤの荷室部へ移動。ブレーキやエキゾースト周りには大幅な変更を施し、ボディの前後へ改良型ウイングやバンパーも装着、V8エンジンは2つのヘッドライトを囲む隙間からも空気を取り入れる設計とするなど、あらゆる部分に手が加えられた。500 E開発の90%を手掛けたポルシェは、駆動系や車両コンポーネントの組み付けに必要な業務を実質的にほぼ丸ごと担当していたといえる。
メーニグやプロトタイプ部門のスタッフは、いくつもの週末をジンデルフィンゲンで過ごした。「メルセデス・ベンツの仲間たちとの共同作業は、とても素晴らしいものでした。成功をひたすらに望む想いに基づいて集中し、対等にプロジェクトを従事しました」と言うメーニグにとって、とりわけ記憶に残っているのが初日のワンシーン。同僚と、たくさんのプロトタイプ用部品を載せてジンデルフィンゲンへ向かってクルマを走らせたのは「とても特別な」瞬間だったという。
2つの生産拠点を忙しく往復した500 E
1990年より、500 Eのボディはツッフェンハウゼンにある旧ロイターの第2工場で生産された。当時その建物は空っぽで、500 Eのアッセンブリーラインを配備するためのスペースは充分に確保できたのだ。
手順は明確に定められていた。メルセデス・ベンツがジンデルフィンゲンからツッフェンハウゼンへボディ部品を納品。第2工場でポルシェチームがそれらのコンポーネントに、フロントウイングをはじめとした内製パーツを組み合わせてボディをアッセンブル。それからボディはジンデルフィンゲンへ送り返され、塗装を実施。さらに車両はツッフェンハウゼンのレッスル バウでエンジンを搭載しファイナルアッセンブリーされる、という順序である。ジンデルフィンゲンとツッフェンハウゼンを忙しく行き来する500 Eの生産には、じつに18日を費やしたそうだ。
「ロジスティックという観点でみれば、車両や部品を行き来させるというのは大きなチャレンジでしたね。しかるべきタイミングにしかるべき場所に正しいパーツが揃っている必要がありました」 ヘルシャーは振り返って語る。しかし、曰く「大変な状況下で取り組んだあのプロジェクトが授けてくれた教訓のひとつは、人はあらゆる挑戦に立ち向かうべきだ、ということです」 当初、ポルシェは1日10台のペースで量産をスタートしたが、すぐに20台まで増産した。500 Eの当初の価格は13万4510ドイツマルク。じつに180hpの300 Eの2倍以上ものプライスタグを掲げていたにも関わらず、多くの人々に受け入れられたのである。
1993年6月に実施されたモデル名変更により「E 500」となったスーパーセダンは、1995年、W124の生産終了にともない姿を消した。累計200万台超が生産された124シリーズの中で500 Eが占めた台数は、E 500及びE 60 AMGを含めて1万479台。販売された数こそ少なかったが、その存在感は圧倒的であり、いまだにアフターマーケットで圧倒的な支持を集めている。絶版名車の中でも特に人気の高い“ゴヒャクイー”の神話は、これからもずっと語り継がれていくはずだ。
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