村田鉄工所開設から、1924(大正13)年「目黒製作所」の誕生まで
目黒製作所創業者の村田延治は、1900(明治33)年4月1日、栃木県足利郡富田村(現在の栃木県足利市)で生を受けた。富田村の尋常小学校を卒業した村田は上京して一旗揚げたいという志を抱いており、そこで先に上京し友野鉄工所で働いていた同郷の知人を頼り1915(大正4)年に同所に勤めることとなった。友野鉄工所は、1911年(明治44)年に東京市麻布区広尾で創業した船舶用機関などを扱う実力のある会社だった。ここで機械工作の基礎やエンジン製造の経験を積んだ村田は次第に腕を上げたが、村田青年24歳の年に大きな転機が訪れる。
【画像13点】創業100周年を迎えた目黒製作所、JR目黒駅「目黒とメグロの回顧展」に展示された車両を写真で見る
それは社長の友野と親交があった勝 精(かつ・くわし)からの新工場開設の相談だった。勝 精は15代将軍徳川慶喜の十男であり、江戸の幕臣勝 海舟の養子となっていた人物で村田より12歳年上。養子ながら徳川家の実子であり、その身分は伯爵であった。勝は大正の初めからモーターサイクルを好み、エンジン付きの船舶なども乗り回すほどの好事家。その殿芸は次第に熱を増し、自分でエンジンや部品を作るまで没頭していた。
その相談が友野に入り、無口だが真面目で義理固いと評されていた村田延治が指名されたのである。こうして村田は友野鉄工所で7年間働いた後、1922(大正11)年に勝の赤坂氷川町にあった広大な屋敷内に村田鉄工所を開設する。ここでの村田は社長を務め工員を数名雇ったが、そのメンバーの中に、旧海軍の技師だった鈴木高治がいた。鈴木は後の目黒製作所設立に際し、村田と共にその経営を立ち上げる人物である。
そして1924(大正13)年には事実上鉄工所のオーナーである勝の要望により、ハーレーを模した1200ccのオートバイ「ジャイアント号」を完成させ3台ほどを組むが、製品として満足な性能を確保できず、販売には至らなかった。村田の仕事は順調だったが、しょせん雇われ社長の立場では肩身が狭く、自分の思うように出来ないことも多く、将来への不安が増していった。その考えは鈴木高治も同じで、この2人は意気投合して独立に向けた準備を開始。勝の元から独立するにはいくつかの紆余曲折はあったものの、村田と鈴木は1924(大正13)年の夏、村田鉄工所を閉鎖し「目黒製作所」を創業することに成功した。
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■目黒製作所創業社長の村田延治氏。1900(明治33)年に生まれ1961(昭和36)年没。村田は10代半ばで上京して機械工から身を起こし、戦後目黒製作所を繁栄させた立志伝中の人物であり、温情も深く取引先や業界からの人望も厚かったという。
■初代Z97型を小改良した1938(昭和13)年製Z98型のカタログ。モデル名の「Z」とは日本海軍の東郷平八郎大将の「奮起を促すZ旗」に由来し、「98」はこの年が皇紀2598年であることから名付けられている。
創業の地・目黒から始まった二輪車メーカーへの道
村田と鈴木の二人が工場を設立するにあたり場所を探したのは、東京府荏原郡桐ケ谷周辺だった。当時この地は、幹線だった東海道や品川から西に位置していた工場地帯。鈴木が見つけて来た場所は、荏原郡大崎町桐ケ谷の間口2間奥行4間(3.6m×7.3m)の4軒長屋の1室で、既に工場として使われていたものを買収し新工場とした。
この近くには808年に創建され現在「目黒不動尊」と呼ばれている瀧泉寺があり、寺は徳川3代将軍徳川家光に庇護され、その門前町と共に江戸時代から庶民に愛されていた。また家光は芝三田の火葬場だった長松寺を桐ケ谷村に移して霊源寺とし、現在でもその隣接地に桐ケ谷斎場として存続している。このように江戸から明治期のこの一帯はまだ郊外であり、大正から昭和初期にかけても土地の値段は安かったのだろう。
村田鉄工所を改め新工場の名称を決めるにあたり、二人は次のように考えた。地名からとる桐ケ谷は火葬場を連想するので避けたい。荏原の名前を使いたいが、荏原郡品川町南品川には、大正元年創業の水ポンプ製造の大手「荏原製作所」があるので使えない。そこで彼らはこの周辺が目黒村に因んだことから「目黒」と呼ばれており、工場の北西約1kmには「目黒競馬場」(1907~1933年)などもあったことから「目黒製作所」と名付けることに決めた。
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■当時の目黒製作所本社及び本社工場の北東150m程の場所に流れる目黒川。上は東急目黒線の高架線路で、創業の前年春に開通。初期の社屋では目黒川から大水が出ると浸水して足元に「どじょう」が泳ぐほどで、その度に機械類を避難させるなどの苦労があったようだ。
■元の目黒製作所本社及び工場跡は現在、東京日産西五反田ビル等になっている。手前は都道317号の山手通り。創業時の所在地は東京府荏原郡大崎町桐ケ谷575番地、その後品川区大崎本町575から大崎本町3-575を経て、現在は西五反田4-32-1と変遷している。
■目黒製作所は8坪弱ほどの長屋で創業し、会社の発展と共に周辺の土地を買収して拡大。最終的にはこの図と同形状の敷地で1000坪超の広さとなったが、近隣にも昭和機械製作所を筆頭に数社の直資子会社を設立し、業務分担を図りながら生産拡大を実行した。
創業期の業務は、自動車修理や二輪車や自動車の補修部品製造などだったが、徐々に業務を拡大すると、エンジン内部品の製作や小型車用ギヤボックスの製造へ拡大していった。これらは村田と鈴木の血のにじむような努力と、事業拡大に向けた熱意によるもので、幾度の困難や危機を乗り越えながらも会社は着実に成長していく。そして1932(昭和7)年には小型自動車(三輪車)用498ccエンジンの生産を開始し、村田の実弟である村田浅吉が代表を務めるエンジン製造部門の「昭和機械製作所」を創立した。この昭和機械製作所が、戦後もメグロ製エンジンの製造を担っていくことになる。
その後目黒製作所はエンジンの性能向上や村田自身がレース好きだったことから、複数の二輪競技車を製作して好成績を収めていく。創業から約10年後には小型自動車用ギヤボックスではトップメーカーに成長し、兵庫県神戸市の兵庫モータース製作所に対し、複数の専用エンジンからデファレンシャルまでを一括供給できる規模になっていた。
そして村田と鈴木は、さらなる飛躍「完成車メーカーになること」を目指し、約2年の研究試作期間の末、1937(昭和12)年には「メグロ号Z97」を完成させ、地元の目黒雅叙園にて200人ほどの招待客を招いて盛大な発表祝賀会を行った。このメグロ号は徐々に売れ始めたが、日本が戦争に入ると民間会社も軍需工場への業務転換を余儀なくされ、目黒製作所が二輪車を世に出せた期間は2~3年ほどだった。
1945(昭和20)年に戦争が集結、荒廃した東京の町で生産を再開するには大きな困難を伴ったが、戦時中に工場設備を疎開させていた自衛策が功を奏し、1946(昭和21)年からはギヤボックスの生産を再開。1948(昭和23)年からはメグロ号の生産再開にこぎ着けた。
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■戦前の目黒製作所はギヤボックスのメーカーで、1931年(昭和6)年の広告でも各種製品が紹介されている。中でも350cc用はバックギヤ装備の小型自動車用。当時は業界のトップメーカーとして信頼も厚く、その模造品が市場に出るほどだった。
■戦前期の大手取引先だった兵庫モータース製作所のH.M.C号には、V型750ccエンジン・ギヤボックス・デファレンシャル等を供給していたが、軍需産業への企業再編策によって同社の自動車製造は休止となり、戦後に再開されることはなかった。
目黒製作所創業から100周年を記念した特別なイベント
戦後の国内は運搬需要が年ごとに増えていく復興期に入り、その後10年間ほどは二輪車のラインナップ拡大と共にメグロ製オートバイの全盛期を迎えた。機種の展開も、戦後はまず500ccの戦前モデルの再生産から始まったが、1951(昭和26)年に250ccのジュニア号が発売されると大ヒットし、その年だけでも総出荷数が2.6倍に拡大。その後もラインナップを増やしながら昭和30年頃までは業績の拡大が続いた。
しかし昭和30年代に入りホンダ、ヤマハ、スズキといったメーカーが、徐々に新機軸の小型モーターサイクルを発売した結果、国内市場の勢力図は激変。戦前に独自で作り上げた二輪車を原型に、新型車を加えてラインナップを作り上げてきた目黒製作所はその流れに乗れず、下降線をたどり始める。その結果、1960(昭和35)年末には、川崎航空機工業との業務提携を行い、1964(昭和39)年末には、40年続いた目黒製作所が幕を下ろすこととなった。
しかし、2021年にはカワサキが発表したカワサキMEGURO K3によってメグロのブランドが復活。そして第2弾として250cc版のカワサキMEGURO S1が間もなく発売予定となっている。さらに2024年は目黒製作所誕生から100年の節目を迎えて大きな盛り上がりを見せており、JR東日本とコラボレーションしたJR目黒駅での「目黒とメグロの回顧展」も開催。その模様と目黒製作所があった現在の同地の様子は写真をご覧いただきたいが、今年は日本の二輪車史に大きな足跡を残した目黒製作所と「メグロ」のブランドを改めて評価し、末永く大切にしてゆくことを考える新たな機会になるだろう。
(写真説明:画像ギャラリーと連携)
■JR目黒駅催事スペースで9月1日から同月30日まで開催中の「目黒とメグロの回顧展」を取材のためJR山手線目黒駅に着くと、改札には大きなバナーが! 駅のコンコースにもポスターが張られていた。JRと二輪車のコラボイベントというのは新鮮だ。
■「目黒とメグロの回顧展」の様子。初日は熱心なメグロファンが数多く来場し、遠くは山梨県の甲府からJRで駆け付けた60年代のメグロに乗る女性ライダーの姿も! 写真右側は、会場限定のメグログッズを買う人の列で大盛況だった。
■美しく作られた回顧展の内部。段上には新旧4台のメグロ製の二輪車と興味深い歴史パネルが設置され、ちょっとしたミニ博物館のよう。今回の展示では、特に若い観覧者が興味を持って見ている姿が散見され印象的だった。
■メグロの戦後モデルは生産再開と共に、皇紀を示す二桁の数字をなくし、「Z型」と名前を変え生産された。この展示車のプレートには戦前型の「Z97型」と書かれているものの、実車は1950(昭和25)年に目黒製作所本社工場から出荷されたメグロ500Z型。戦前型と同仕様であることから、メグロ初の完成市販車の代表として展示された。手前のナンバープレートは、この実車が昨年公開の映画「ゴジラ-1.0」の劇中で登場した際に取付けられていた物。
■目黒製作所初の二輪完成車は、当時スイスのモトサコシ製を模した単気筒エンジンをイギリスのベロセットを参考にしたフレームに搭載したもので、ボア・ストローク82×94mmの498ccに自社製3速ギヤボックスを装備。排気は2ポートで車体左右にマフラーを配しているのも特徴。こうした最旧型メグロの実動現存車は歴史的にも極めて貴重。
■会場には市販予定となっているカワサキMEGURO S1が展示され注目を集めていた。これはカワサキMEGURO K3に次ぐブランド復活の2機種目だが、歴史的に見れば1964(昭和35)年発売のカワサキ250メグロSGから60年振りの250ccクラスのメグロとなる。伝統のメグロ風デザインが現在のユーザーにどう受け入れられるか期待も大きい。
レポート&写真●上屋 博 取材協力●村田昭男氏、佐藤典子氏
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みんなのコメント
その目黒のテストドライバーをしていた
その後
自動車部品の金属特殊加工の町工場の社長
ずーっと
バイク乗ってたな