2018年にMotoGPクラスへ昇格した中上貴晶は、2024年シーズンを最後にフル参戦を終了する。日本人ライダーとして7年間MotoGPクラスで戦ってきた中上に、ついに参戦を終えるに当たっての気持ちや、これまでのキャリアにおける分岐点など、様々なトピックについて訊いた。
──今週末はフル参戦締めくくりのレースということで、いろんな人々から「最後のレースを前にどんな気分ですか?」と訊ねられていますね。そのような同じ質問をたくさんされて、どんな気持ちになりますか?
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「それだけ多くの方々が気にしてくださっているということなので、それがうれしい、というのが正直な気持ちです」
──先ほどの囲み取材では、「いつもどおりの平静な気持ちで臨めている」と話していましたね。
「今のところ、そうですね。なぜだか理由は分からないけど、簡単に言うと、最後だという感じがしない、という表現が今の自分の気持ちにピッタリあっているのかなと思います。これが最後なのかと思うことも全然ないし、いつもどおり変わりなく通常の気持ちの状態です」
■MotoGPクラス唯一の日本人として戦った7年間
──2018年からMotoGPを戦ってきた7年間は、中上選手自身の成績はもちろん、中上選手を取り巻く環境や世界の状況・情勢という意味でも、いろいろなことがあった時期でもあります。
「そうですね。簡単にまとめるのは難しいけれども、成績という面では2020年がこの7年間の中で一番輝けたシーズンだと思いますが、ちょうどその時期は新型コロナウイルス感染症のパンデミックで世界的にはマイナスなシーズンでもありました。それ以降は成績を上げてゆくことができず、苦戦し続けた状態で終えることになるので、正直なところ、自分が思い描いていたベストな形でMotoGPを去ることはできないんですが、でもそれはしょうがないというか、自分ひとりだけの問題はないし、様々な理由もあることなので、まあしょうがないかなとは思っています」
──自分が思い描いていたベストの形ではない、ということですが、みんなが「これは最高の引き際だね」という形で終わることのできる選手は、どの競技でも現実にはなかなかいないと思います。
「そうですね。それはたぶん、本当に極限の理想で、それができる人はなかなかいないと思うんです。自分の成績について言えば、落ちたところで辞めることになるのですが、2024年シーズンでフル参戦を一区切りして別の仕事をするのは 自分としてはベストなタイミングだと思います。レース結果はもうちょっといい成績を出して終わりたかったとも思うものの、いろんな環境や自分の気持ちを含めると、すっきりとしたタイミングで良い判断をできたと納得しています」
──中上選手がMotoGPで過ごした7年間は、グランプリの頂点に君臨していたホンダが、過去に例を見ない苦戦状況へ転落していく時期でもありました。中上選手は、それをホンダ陣営の内側から見てきた唯一のライダーです。この7年間を身をもって経験し内側からつぶさに見ながら、その変遷をどんなふうに感じていたのですか。
「やっぱり、大変でしたよ。特にモチベーションは、一番大変でした。 自分の成績でいえば、1年目は当然のように苦労をして、2年目ではしっかりと成績を上げていいレースをして、トップ10にも常に入るような状態になってきました。世界の中でも限られた20数人が競う頂点で自分もちゃんと戦える、という自信もついてきました。2020年にはさらに成績が向上して、表彰台争いをしてポールポジションも獲得しました。いい感じでステップアップをしていたところから、少しずつ下りはじめて、2022年、23年はもう一気に落ちていった、という状態ですね。
ホンダのバイクがすごく良かった時も知っているし、他のどの陣営よりも一番苦戦をしている時期も経験しました。それだけの変化を身をもって経験した選手は、他にはなかなかいないかもしれませんね。でも、その大きな変動もレースの一部だと思うようになりました」
──そういう経験は、来年以降のテストライダーとしての活動に有効に活かせる蓄積になるのでしょうね。
「たとえばエンジニアの方々にも分からないであろう感覚も自分は伝えることができるし、自分にしかできない仕事はたくさんあるだろうと感じているので、だからこそこれからの仕事が楽しみですね」
■ホンダ苦戦の分岐点
──あれだけ強かったホンダが苦戦を強いられるようになった転機や節目のようなものを、その期間ずっと走っていたライダーとして何か感じたことはありましたか?
「自分が感じているのは2022年からですね。そこでホンダのバイクはコンセプトがガラッと変わったんですよ。そこが分岐点だったのかな、と思いますね」
──そのコンセプトとは、簡単に言うとどういうバイクからどういう方向性になったんですか?
「もともとホンダはブレーキングに特化したバイクで、フロントに荷重をかけて曲がる、止まるという特性が強みだったのですが、どんどんエアロやデバイスが進化してきて時代とともに流れが変わりました。もともとフロント荷重だったのがウィングが付いたことによって、これ以上は無理ですというくらいにフロントが過荷重になり、走りましょう、止めましょう、曲げましょう、加速させましょう、グリップを上げましょう、という狙いが、極端に言えばフロントからリヤに頼るバイクになったので、あの大きな違いは同じホンダでも全く別のメーカーに乗ったような感覚でした」
──つまり、セットアップ面でも、たとえばバイクがもっと長くなっていった等の違いがあるわけですか?
「それもあります。特にフロントは、正確な数値は言えないのですが、フロントタイヤの位置がすごく前に出る傾向になりました。その分、今まですべてコントロール内にあったものがコントロール外になってしまい、リヤのグリップは良くなったもののフロントがすごく厄介で分かりづらくなってしまいました。今まで常に把握できていたものが、なんだか変なところで切れ込んだり荷重が抜けてしまう、そういう今までになかった感覚面での変化はすごく感じました」
──そこから袋小路というか、迷路に入ってしまったような状態になった、と。
「やっぱりそこは、エアロが極端に複雑なんですよ。バイクの旋回性、曲がる・曲がらないというところも、今までならエンジンの特性や車体の剛性がメインだったものがエアロで風の抵抗を利用して曲がる・曲がらない、という風になってきているので、ライダー側の感じ方や伝え方も違うし、(バイクを)作るほうもより複雑になっているので大変だろうなと思います」
■125cc参戦&日本出戻り……世界選手権復帰への道を歩いたキャリア
──今までLCRにはいろんなライダーが在籍してきましたが、おそらく中上選手の7年が最長なのではないかと思います。どういうチームでしたか?
「2017年にバレンシア最終戦後の事後テストで最初に合流して、18年からスタートしたときも、すごくアットホームで温かく迎え入れてくれました。仕事に関しては一貫してプロフェッショナルですが、その一方でレースやこちらからの要望に対してはルーチョ(チェッキネロ/チーム代表)さんはすごく熱心に聞いてくれます。常に皆がウェルカムで、温かい心を持っている人たちの集まりだという印象で、それは今もずっと変わりません。
このチームで良かった、と心から思いますね。レースは成績がすべてで厳しい世界ですが、成績が良いときも悪いときも、常に同じ目線で問題解決に時間を費やしてくれたことはとても心強かったし、成績が悪くても突き放されることは一度もなかったので、そこはすごく感謝をしています。ホントに、ルーチョさんの人柄がこのチームを支えているんだな、とつくづく思います」
──中上選手のレーシングライダーとしてのキャリアを振り返ると、14歳で全日本125ccクラスの最年少チャンピオン記録を更新し、MotoGPアカデミーに参加して2007年の最終戦にワイルドカードで初めてグランプリに参戦しましたよね。その時のことは覚えていますか?
「よく覚えています。40人くらい選手がいる中で予選が20番目くらいで、決勝は転んでしまったのですが、正直なことをいえば、じつはあのときワイルドカードで出たくなかったんですよ。簡単に言うと、自分の準備がまだできてなくて、ただ出て走る結果に終わるだけということが自分的に許せなかったんですね」
──気後れしていた、ということではない?
「うーん、なんだろう……。例えばポイント圏内を狙えるとか、そういったところがまだ見えなかったんですよね。その当時の自分のスピードでは、グランプリライダーたちに対して勝負してやろうという水準ではなかったので、しっかりと戦える状態でフル参戦の1戦目を迎えたかった、と当時は思っていました。もっと速くなってから出たい、と考えていたんでしょうね。それも今思うと、いい思い出なんですけれども」
──ただ、中上選手の周囲の人々の思惑としては、グランプリライダーとの実力差を経験させたうえで、しっかり準備をして翌年のフル参戦に備えさせよう、ということだったようにも思います。
「きっとそうだったんでしょうね。開幕戦でいきなり差を見せつけられて気持ち的に折れるよりも、あらかじめグランプリライダーたちとの実力差を体験してからオフシーズンにしっかり準備をしてフル参戦に備えましょう、という狙いだったのでしょうから、それはそれで正解だったと思います」
──125ccクラスで2年間走ってから、一度日本に戻って全日本で2年間走り、Moto2クラスに戻ってきて、Italtransで走ってIDEMITSU Honda Team Asiaアジアに移籍しますね。特にTeam Asiaに移籍した直後の数年は、かなりもがき苦しんでいたようにも見えましたが、この当時を振り返ると、自分ではどんな時期でしたか?
「長かったですね。Italtransで2年間過ごした後に、じつはMarcVDSからも話をいただいていたんですよ。チャンピオンチームだし魅力的なオファーだったので悩みはしたんですが、自分はTeam Asiaに移籍することを選びました。初戦のカタールGPでは幸先良く表彰台を獲得できたのですが、マシンのレギュレーション違反(純正品ではないエアフィルターを使用したために、レース後に失格処分を通告された)で幻の表彰台になってしまい、そこから歯車が一気に狂ったような状態になって、もがく時期がけっこう長く続きました。あれだけ苦しい時期が続いたのは、自分でも本当に謎でしたね」
──全日本時代も含めて現在に至る長いレース活動の時間を振り返ったときに、自分のライダー人生で一番大きな転機になったレースや年、出来事などはありますか?
「そうですね……。今、パッと思い浮かんだのは、一度日本に戻って全日本を走っているとき、2011年の日本グランプリでItaltransから代役参戦の話をいただいたこと、でしょうか。
そのウィークに初めてMoto2のバイクに跨がってポジション合わせからはじめて、予選で転倒して怪我をしたために決勝レースは走れなかったのですが、そのときの走りをチームの人たちが評価してくれて、オフシーズンのテストに参加しないか、というオファーをいただきました。たぶんチーム側からすれば、もてぎは知り尽くしているから速いのは当たり前だけど、他のサーキットではどうなんだろう、ということを知りたかったのだと思います。そういう意味では向こうも『本当にこいつ大丈夫なのかな』と半信半疑だったと思うんですよ。
もてぎの医務室で横になっているときにチームマネージャーが様子を見に来てくれて、『オフシーズンのテストに興味はあるか』と誘っていただきました。医務室で痛みに耐えてベッドに寝転びながら、『ぜひお願いします。出たいです』と言ったことをとてもよく憶えています。要するに、オーディションですよね。それに受かってフル参戦のシートをもらえたことが、やっぱり自分のキャリアの中では一番の分岐点だったと思います。
グランプリで125ccを2年間戦った後に日本に戻ってきて、このままでは終われない、と歯を食いしばりながら戦っていた時期でした。絶対にもう一度GPに復帰すると自分では思っていたけれども、過去にはそういう前例がないこともあってマイナスなことも言われ、とても悔しい思いをしていた時期です。その悔しさが自分の原点になって頑張ることもできたし、いろいろな巡り合わせでItaltransからいただいたチャンスをものにできたことには、難しいことを成し遂げた達成感もおぼえました」
──Italtrans時代は、オーナーの家族の家に住んでいたと思うのですが、その後、バルセロナに住むようになりますね。バルセロナでは何年暮らしたことになりますか?
「ItaltransからTeam Asiaに移籍して、最初の2年くらいは日本とヨーロッパを行ったり来たりする時期がありました。その後、バルセロナで暮らし始めたので、おそらく8年くらいここで住んでいたことになると思います」
──では、日本に生活の拠点を移すのはかなり久しぶりですね。
「ちょっと、ヘンな感じですね。でも、とても楽しみです。レースがなければスペインや海外に住もうという気持ちにはきっとならなかったでしょうから、やっぱり自分は日本が好きなんだと思います」
■MotoGPの経験を次世代に
──来年からはテストライダーとして活動することになりますが、ステファン・ブラドル選手、アレイシ・エスパルガロ選手と3人で欧州と日本に分かれてそれぞれ分担する、ということでしょうか。
「そうですね。ヨーロッパに行くこともあると思いますが、自分は主に日本アジア担当になる予定です」
──テストチームの体制なども、かなり煮詰まってきているのでしょうか。
「クルーチーフが誰になるとか、そういうところはまだ情報がなくて、12月上旬に日本に帰ってからHRCに行くんですが、そこで今後の予定やプログラムについて話を聞くことになると思います」
──来年からはテストライダーの活動を始めていくことになるわけですが、それと平行するような形で、たとえば若いライダーを育成するチームやプログラムを立ち上げるというビジョンやプランのようなものはありますか?
「今はまだ現役ライダーとして生活をしているので、現実的にそこまで考えることはできていない、というのが正直なところです。来年以降はテストライダーとして活動をしていくことで今よりも時間は少しできると思うので、そこを利用して自分に何ができるのか考える時間にあてながら、いろんなアイディアも出して実現したいと思っています。
自分で言うのはおこがましいのですが、世界の頂点で長く戦うという経験を積ませてもらってきたので、その経験を生かして次の世代に継承できるものはしていきたいし、自分がずっとお世話になってきたスポーツの世界に恩返しはしたいですよね。だから、なにかそういったことを将来的にしたいとは考えています」
──かつてグランプリの世界で活躍した日本の元選手たちは、様々な形で日本やアジアの若手ライダーを育成する活動をしていますね。
「僕も日本GPの際には、ポケバイをやっている子たちを10人ほど招待してMotoGPパドックのツアーを組む、ということを毎年やっています。自分自身も9歳のときに『モトチャンプ』誌の企画でパドックに入れてもらってライダーと話をし、グッズをもらったことがとても楽しい記憶として残っています。
今年の日本GPでも招待した9歳や10歳の子たちを見ていると、自分もこうだったんだなあと思い、感慨を覚えました。子供のときにライダーに会って話をして感動していた自分が、今度は子供たちに話をする立場になれたこともうれしいと実感しました。このような活動は今後も続けていきたいし、そういう機会を増やしていきたいと思います」
──そのような活動は今後に検討していくとしても、今の中上選手は現役ライダーなので、このウィークの自分の走りがやはり最優先事項になりますね。
「そうですね。今はどうしてもそこが第一になっちゃいますね。今週末は結果がどうこうということよりも、まずは自分のベストを尽くして、フル参戦ライダーとして最後のグランプリを楽しんでいきたいです。チェッカーフラッグを受けて笑顔でレースを終える、ということが、今はなにより一番の目標ですね」
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