「魔の森」
フィンランド出身のランチアのエース、マルク・アレンと、同じくフィンランド出身のコ・ドライバー、イルッカ・キビマキが乗り組む8バルブ・インテグラーレ8v。その車内を早くも重苦しい空気が覆った。
何台知ってる? 有名・無名ラリーマシン クワトロRS002/ランドローバー・ウルフ/実物大タミヤ
マルク・アレンは、WRCの草創期から1990年代初頭までを代表するラリードライバーであり、ドライバーズ・チャンピオンこそ獲得できなかったものの、出走123回、優勝19回、表彰台56回という戦歴は、ラリー界の「無冠の帝王」として、レース界のスターリング・モスと並び称されるにふさわしい。
自動車競技としてのラリーの歴史はかなり古く、第1回ラリー・モンテカルロがモナコで開催された1911年にさかのぼる。決まった道路区間を極力指定された速度・時間で走り、それから前後した分だけ減点され、総合得点で順位を争う自動車競技としてのラリーの原型も、モンテカルロで形成された。それから77年の歳月が流れた。
2人がインテグラーレ8vでウェールズと湖水地方を抜け、北を目指すにつれ、不安が頭をもたげてくる。勝敗を大きく左右する「魔の森」
その評判は誰もが知っている。だが、ランチアのエースドライバー、マルク・アレンほど「魔の森」の怖さを身に染みてわかっている者はいなかったかもしれない。
このフィンランド人チームが、ノーサンバーランドに入った時に首位に立っていながら、「魔の森」に足元をすくわれたのは1度や2度の話ではないからだ。
1988年のその日、インテグラーレ8vで後続集団を5分リードしていたアレンは、英国北西部にあるカーライルでルートマップを頼りに次のレグについて研究していた。そんなアレンが頭を悩ますのは当然だった。
「なんてこったい」。アレンがこうつぶやいた。
「こんな時にキールダーか……」。
「インテグラーレ」と「キールダー」
ロンドンから北へ400kmのイングランド最北・東側にあるノーサンバーランド。その海岸寄りの地域には、ノーサンバーランド公爵の居城アニック・カースルがある。そこからさらに西へ50km。
そこには、イングランド最大の森林地帯が広がる。かつて幾多のWRC名勝負が繰り広げられ、波乱を引き起こした難所、人呼んで「魔の森」キールダー・フォレストだ。
ラリーGB(旧RAC)がテレビ放映の都合や費用節減のために短縮され、今はルートから外れているが、当時は、この魔の森がRACラリーの重要な柱となっていた。
2012年のラリーGBは、ウェールズ内でのみ開催され、参加したクルマは残念ながら32台にとどまった。
これに対して、アレンが25年前に戦っていた戦場では、178台の強豪が第一ステージに挑むため、イングランド北東部にあるノース・ヨークシャーの温泉町ハロゲイトのラディングパークからスタートした。
北上してスコットランド国境を越え、ヨークシャーに南下した後、ウェールズ中部を抜けるコースであった。
ウェールズのペンマハノやクロカイノグ、イングランド北西部のグリズデール、またイングランド中部のダービーの人々は、寒さをものともせず、戸外でラリーを観戦した。また、全国の家庭では、人々がBBCの『ラリーレポート』にチャンネルを合わせた。
まず、スポーツ番組にぴったりのテーマ曲(1982年代に英国を中心に活躍したドイツ出身のニュー・ウェーブバンド、プロパガンダの「デュエル(対決)」)が流れ、曲がフェードアウトすると、キャスターのウィリアム・ウーランドによるその日の見所の解説が始まる。国民にとっては見逃すことのできない一大イベントだった。
当時のラリー・ファンなら、「インテグラーレ」と「キールダー」という2つの言葉に心臓の鼓動が大きくなるだろう。キールダーほど、ランチアが、デルタ、特にデルタ・インテグラーレを通じて自社の高度な技術力を見せつけるのに打ってつけの舞台はなかった。
イタリアの自動車メーカー、ランチア。1998年以降、日本では正規の輸入販売が行われていないため、ラリー以外にはあまりイメージがないかもしれない。
だが、実は、イタリアを代表するハイクオリティ・カー・メーカーなのだ。その証拠に、イタリアでは、ムッソリーニの時代から現在に至るまで、国家元首の公用車にはランチアの最上級車が使われてきた。
現在もランチアの最上級セダン、テージスのストレッチ・リムジンがジョルジォ・ナポリターノ大統領の大統領専用車として、またローマ法王フランシスコ1世の法王御料車(ただし、車名はランチア・ジュビレオ)として使われている。
さらに、ランチアは、モノコックボディ、独立懸架式サスペンション、V型エンジン、5速トランスミッション、風洞実験にもとづくボディデザインなどの最新技術を世界に先駆けて量産車に採用したメーカーとしても有名だ。
ランチアは、同社のラリーカー、デルタHF 4WDとデルタ・インテグラーレにより、1987年から1992年までに通算で46勝、6年連続してマニュファクチャラーズ部門のWRC世界チャンピオンに輝いた。
ドライバーズ部門でも1987-1989年、そして1991年の4回にわたって世界チャンピオンを生み出している。これは、決して偶然ではなかった。
「F1カーさえ凌ぐ」
既に1980年代半ばには、ラリー界において揺るぎない実績を積み上げていたからだ。1970年代にも、ランチア・ストラトスが1974-6年のWRC 3連覇という偉業を達成している。
また、1983年には、ミッドシップの傑作、ランチア・ラリー037が、全盛期を迎える前の四駆勢を見事に押さえて優勝を飾った。ラリー037は、タイトルを獲得した最後の後輪駆動車となった。
同じ頃、「公道を走るF1」とも呼ばれるグループBカテゴリーのラリーが盛んになっていた。そうした動きに合わせ、ランチアも獰猛なデルタS4の開発を急いだ。
1985年にRACラリーでデビューしたS4。エンジンは直列4気筒DOHCミッドシップだが、ターボチャージャーとスーパーチャージャーのツインチャージャーを装備し、徹底したレースチューンを施すことにより、排気量は1759ccながら、最高出力は568ps、当時1000psと言われたF1カーさえ凌ぐ加速性能を誇る怪物四駆マシンだった。
アレンと同様にフィンランド出身で「伝説のラリードライバー」「夭折の天才」とまで言われたヘンリ・トイヴォネンがいる。
1986年のことだが、F1モナコGPが開催されるモンテカルロ市街地コースをS4でエキシビジョン走行し、当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを叩き出したという逸話がある。S4はたいへんなじゃじゃ馬だったため、乗りこなすことができるのはトイヴォネンだけだとまで言われた。
だが、そのトイヴォネンさえ、S4を手なずけることはできなかった。同年5月にフランスのコルシカ島で開催されたツール・ド・コルスで惨事は起きた。
この競技は1956年から開催されている伝統のあるラリーであり、最初から最後までコーナーが連続するステージとして知られる。
5月2日、ヘンリ・トイヴォネンとコドライバーのセルジオ・クレスが乗るランチア・ワークスのS4がコースオフし、崖からの転落して炎上、二人は死亡した。トイヴォネンは、レース前に「この危険なコースにこのクルマはあまりにも速すぎる」と語っていた。
どのようにして、伝説の主役は生まれたか
この事故により、事故から2日後の5月4日、かねてから危険性の指摘されていたグループBの廃止が決まった。そして1987年以降は、グループBよりも制限が多く、その分安全なグループAで選手権を開催することになった。
グループB専用車は、他のカテゴリーよりも量産モデルとの結びつきがはるかに強いため、この決定により深刻な打撃を受けた。これも、WRCによる突然の規定変更により、メーカーが振り回された一例かもしれない。
1985年、1986年とWRCマニュファクチャラーズ・タイトルを2連覇していたプジョーは、グループBの廃止を受け、パリ・ダカなどのラリーレイドに転身した。1982と1984年に優勝したアウディ、そして1979年のフォードは、それぞれ200セダンとシエラをグループAに適合させるために四苦八苦していた。
そんな状況の中、ランチアにだけは、グループAに比較的適した新開発のデルタHF 4WDが手元にあった。こうしてランチアの怒濤の快進撃に幕が切って落とされた。
オリジナルのハッチバック、ランチア・デルタは、当初「小さな高級車」を目指して開発され、競技用自動車のベースカーにすることなど想定していなかったという。
デザインを手がけたのは、直線とエッジの利いたデザインで1970年代に一世を風靡し、5代目トヨタ・カローラ、レクサスGS、スバル・アルシオーネSVX、ダイハツ・ムーヴのデザインも手がけ、2002年には米国自動車殿堂入りしたジョルジェット・ジウジアーロだった。1979年に発表されると、翌1980年にはヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
グループBの廃止に伴い、グループAのラリー用車両と、その出場権獲得のための市販ホモロゲーション・モデルであるデルタHF 4WDの開発が加速した。
手がけたのは競技用自動車メーカーとして実績のあったアバルトだった。しかしながら、与えられた期間はわずか7カ月。
規定を厳密に解釈すれば、1987年のラリーに参加するためには、1986年5月4日から年末までに5000台生産しなければならない。
しかし、WRCを主催する国際自動車連盟(FIA)の対応は、急な規定変更による過酷なタイムリミットに配慮し、クリスマスまでに3800台程度を生産することで済むことになった。
1987年1月、デルタHF 4WDは、ラリー・モンテカルロで早々と1勝目を上げた。ランチアは、ラリーでの利用を想定していなかったHF 4WDの欠点を克服するため、早くもその直後にデルタHFインテグラーレ8vの開発に着手していた。
8バルブ・インテグラーレ8vは、1987年9月に開催されたフランクフルト・モーターショーで発表され、1988年3月1日にホモロゲーションを完了した。
過密なエンジンルームの犠牲になりがちな冷却システムを改良し、大き目のタイヤを装着できるようホイールアーチを広げた。ターボチャージャーとインタークーラーを大型化することで、最高出力を(167psから)188psまで引き上げることに成功した。
また、フロントのブレーキディスクを大型化し、スプリング、ショックアブゾーバー、マクファーソンストラットの耐久性を高めた。
ラリー仕様車の競争力を維持するため、そのベース車の改良に絶えず取り組んだ結果、1989年5月に最高出力203ps、16バルブのHFインテグラーレ16vが設定された。そして、1991年に最初のエヴォリューション・モデルであり、最後のホモロゲーション・モデルとなったランチア・デルタHFインテグラーレ・エヴォルツィオーネ(「エヴォ1」)の開発が進められた。
だが、同年の末、ワークスとしてのランチアは、ラリーからの撤退を表明する。1991年9月に行われたエヴォ1の初公開からわずか3カ月後のことだった。
1992年のラリー・モンテカルロでデビュー戦を飾ったエヴォ1(愛称「デルトーナ(大きなデルタ)」)の大きな特徴は、ハンドリングを改善するためにインテグラーレ16vよりも2インチ幅広のタイヤを装着できるよう、さらに広がったホイールアーチだ。
また、ボンネットの設計も変更された。さらに、バンパーの形状が変更され、ブレーキが強化され、サスペンションも大幅にアップグレードされている。エヴォ1は、既に極めて完成度の高い車輌だった。
しかし、それから2年後の1993年6月、完成度を極限まで追求した最高出力218psのランチア・デルタHFインテグラーレ・エヴォルツィオーネII(「エヴォ2」)が発表される。
「魔の森」の虎口へ
北部イングランド最大の都市、ニューカッスルを早朝に出発し、スコットランド国境に向かって北上する。荒涼とした景色の中、幹線道路を走るが、行き交う車はほとんどない。
オーターバンでA696号線から外れると、少し変化が出てくる。A696号線を左に折れ、B6320に沿ってリディ川を横切る方角へ向かうと、A68号線を越えるまで上り坂だ。
A68号線を越えても全体としては上り坂が続くものの、それまでとは異なり、アップダウンが多い。見渡す限り荒野が広がり、この辺りの最高地点である海抜330メートルのハーショーヘッドの眺望は特に壮観だ。眼下にはキールダーの森が広がる。
この広大かつ鬱蒼とした森は、大昔から存在していたわけではない。
1920年代に植林事業が始まるまではただの荒野であり、植林のおかげで650平方km、森林としてはイングランド最大、人工林としてなら欧州最大の大森林地帯が形成された。RACラリーにまつわる数々の伝説が生まれるのにも十分な期間だった。
いつしかB6320も外れ、グリーンホー、その先にあるレーンヘッドを目指す。しばらくは緩やかな勾配だったが、小川や水路を縫って走るワインディングを下っていく。
C200に入り、ノースタイン川を渡り、川に沿ってキールダー・ウォーターとキールダーの森の中心部を目指す。ホットから湖畔のヤーロームーアまでの道は比較的平坦だが、ブラインドやタイトコーナーもある。エヴォ2なら、コーナリングとその間のストレートを安心して楽める。
パワステは、アシストがかなり弱めなので、スローダウンしないと気がつかないほどだが、その分、レスポンスに優れている。ステアリングホイールは、ごついMOMOで、フィーリングは完璧だ。
わずかな操作で、速度を落とすことなく、ワイドなノーズを的確にコーナーの入り口に向け、瞬時にコーナーを抜けていく。アルカンターラを使ったレカロシートの座り心地が素晴らしい。コーナーを果敢に攻める間も上半身を十分にサポートしてくれる。
ダッシュボードについては、所狭しと並ぶメーターとライトが印象的なものの、質感がいかにもプラスチックっぽく、角張っていて高級感に欠ける。
速度計はかなり左側に寄っており、目盛りは9時の位置から時計回りだ。タコメーターも時計回りだが、速度計とは違って3時の位置から始まり、6000rpmからレッドゾーンだ。
速度計とタコメーターの間には、バッテリーメーター、燃料計、水温計、そしてターボのブースト計が並ぶ。右側の少し離れた位置に油圧計と温度計もある。控え目に言っても「雑然」とした印象だ。
早くも進行方向左前方から「魔の森」が迫ってくる。広大なキールダー・フォレスト南東部の一角にパンダーショウ・ステージがあり、往年のRACラリーで中心的な役割を果たしていた。
1988年のRACラリーに話を戻そう。魔の森に神経をとがらせていたマルク・アレンは、雪に閉ざされた森の中をスタートする時点で後続を5分リードし、首位に立っていた。
だが、キールダー・ウォーターの東側にある最初のブルーミリン・ステージでサードギアが破壊された。オートスポーツ誌のラリー担当編集者、キース・オスウィンによれば、われわれが今、走っている幹線道路も雪で「やっと1台が通れるかどうか」だったという。
そんな状況の中、ランチアのメカニックは渋滞を何とか切り抜け、故障したクルマを木立の中に入れ、ギアボックスを30分以内に交換したという。
ブルーミリンで1分ロスしたアレンは、キールダー・ウォーターの南東にあるホワイトヒル・ステージでもさらに2分遅れた。パンダーショウ・ステージが終わると、無念にも、ハンヌ・ミッコラ(マツダ323 4WD)とユハ・カンクネン(セリカST165)に首位の座を明け渡していた。
アレンと同じフィンランド出身のミッコラは、1983年世界ラリー選手権ドライバーズ・チャンピオンであり、RACラリーに4回優勝した超ベテラン・ドライバーだった。やはりフィンランド出身のカンクネンは、前年と前々年、そして1991、1993年の4回、ドライバーズ・チャンピオンに輝いた「ラリー界の帝王」だ。
だが、その年のアレンは、致命的なダメージを受けることなく、「魔の森」の虎口を脱することに成功する。
「やっぱり最悪の場所だ!」
スコットランド・ステージでいったんは首位に返り咲いたものの、ドライブシャフトを壊し、さらにタイムをロスした。
最終日の朝、アレンは、首位に立つカンクネンとミッコラを、アレンの好きなフレーズ「今こそ全力でアタックだ!」とばかりに全力で追撃していた。その時、運命の女神はアレンに微笑んだ。
カンクネンがクラッシュし、朝日に眩惑されたミッコラもそのすぐ後を追ったからだ。そんな中でアレンだけが無事だった。アレンのインテグラーレ8vは快進撃を続け、RACに優勝することで、HF 4WDでは果たせなかった夢をかなえた。
それから3年後の1991年。今回は魔の森の牙から逃れることができなかった。ランチアからスバルに移籍していたアレンは、ターボの出火により、また、若いチームメイトのコリン・マクレーは横転事故により、パンダーショウ・ステージにおいてリタイアに追い込まれた。
レガシーを横転させたスコットランド出身の「壊し屋」マクレーは、豪快なドリフト走行で知られ、それから4年後の1995年にスバル・インプレッサ555で史上最年少のドライバーズ・チャンピオンに輝くことになる。
リタイアした時、マクレーのコ・ドライバーであった同じくスコットランド出身のデレク・リンガーは、アレンに無線で話しかけ、魔の森を怖れる理由がよくわかったと伝えた。
「そうか。そうなんだよ」と答えるアレン。
「やっぱり最悪の場所だ!」
■いつしか視界が開け、比較的まっすぐな道を走り続ける。どこまで行ってもキールダー・ウォーターの湖水が右舷に広がっている。
湖の東側はダムで区切られ、ジェームズ・ボンドの敵役のアジトにでもぴったりな禍々しい外見の監視塔が湖面に浮かぶようにそびえる。
開放感は長くは続かず、やはりノーサンバーランド公爵が狩りのために築いた城キールダー・カッスルに向かう道を急ぐにつれ、森が再び迫ってくる。
道はまっすぐで、車の流れも申し分ないため、距離を稼ぐことができる。エヴォ2は、低速での乗り心地がとても硬く、ごつごつと当たる感じがあり、人によっては第一印象があまり良くないかもしれない。
だが、このような道を走ると、本当に生き生きとしている。決して野山を散策するために開発されたマシンではない。あのV6ストラトスのエンジン音とは異なり、背中がゾクゾクするような魅力はないものの、パワーは十二分にある。
アイドリング時は、少し妙な感じの音がするものの、3000rpmを超えたあたりからはスムーズそのものであり、ターボが効き始め、針が急激にレッドゾーンを目指す。
エヴォ2は、いわゆるドッカンターボではなく、加速は、むしろノンターボ車のエンジン回転数がツボにはまった時の感じに近い。
一般的には、初期のターボ車ほどターボラグが大きく、その分、タービンの回転数が上がった時の加速も急な傾向にあるのだが……。ターボが効いていれば驚異的な速度で走り、一時も安定感を失わない。
あの日、あの時
キールダー・ビレッジに近づくと、S字コーナーがあり、近づいてみると遠目で見ていたよりもはるかにきつい。最初のコーナーではスピードが出すぎていたものの、エヴォ2は、コーナーの中間まで機敏にかつ安定して回り込み、右から左へのステアリングの切り換えも容易だ。
さらに先に行くと、右にタイトターンするダウンヒルを下って太鼓橋を越え、更に左にターンするアップヒルに繋がる。路面が荒れているにもかかわらず素晴らしい安定感を見せ、早々とトラクションを回復し、ダッシュすることができた。エヴォ2を運転していると、事ある毎に痛感させられることがある。
それは、エヴォ2の性能があまりにも高く、筆者の技倆では、その性能を限界まで引き出すことなど到底できそうにもないことだ。
アレンが魔の森に復讐された1991年は、ランチア・デルタがRACで最後に優勝した年でもあった。やはり「魔の森」で明暗が分かれた。
この年、WRCのタイトル争いに絡んでいたのは、インテグラーレ16vに乗るユハ・カンクネンと、トヨタ・セリカに乗るスペイン出身のカルロス・サインツだった。
1988年のRACでマルク・アレンと最終日まで首位の座を争ったカンクネンは、スバルに移籍したアレンと入れ替わるような形で1990年にランチアに移籍し、ランチアのマニュファクチャラーズ・タイトル6連覇達成に貢献した。
対するサインツは、前年に、日本車に乗った初の世界チャンピオンとなり、翌年にも2度目のタイトルを獲得している。
タイムトライアルが行われるスペシャルステージ(SS)。その年は、キールダー内にあるSSが、距離にしてSS全体の実に30%を占めていた。戦いの場をキールダーに移した頃、首位に立っていたのは、カンクネンのチームメイトで、やはりインテグラーレ16vに乗るディディエ・オリオールだった。
オリオールは、3年後の1994年にトヨタ・セリカ・ターボ4WDでフランス人初のWRCドライバーズ・チャンピオンに輝く。
いずれにしても、その日のスタート時点において、オリオールがトップに立ち、29秒差でサインツが追い、カンクネンはさらに21秒遅れていた。
ところが、魔の森を抜けた時、カンクネンが2位のケネス・エリクソンを3分1秒も引き離して首位に立ち、エンジン・オーバーヒートに苦しんだサインツは、2位のエリクソンよりも2分21秒遅れの3位に後退していた。
トップだったオリオールはクラッシュしたせいで順位を大きく落とし、13位だった。さらに、30台が魔の森に捕まり、立ち往生していた。
「キールダーが何もかも変えてしまったんだ」。カンクネンは、やや上機嫌に語った。
「キールダーさえ無事に抜けられれば、まあ、上位は固いからね」
キールダー復活、あり得る?
その年のRACラリー終盤、サービスエリアで気をもんでいたフォードのモータースポーツ部長、ピーター・アシュクロフトがランチア・チームについて評し、やや不吉な予言を残している。
「ランチアティームは鼻息が荒くて、ごうまんに見えるほどだ。好きな時に、好きな場所で、好きなだけ速いタイムを叩き出すことができると信じているのではないか。それでも、時代の流れは誰にも止められない」。事実そうだった。
ランチアが1991年末の公式撤退表明後も、エヴォリューション・モデルがランチアの戦闘力を支えていた。
ランチアは、撤退後の1992年、マルティーニとともにイタリアのジョリー・クラブをサポートする一方、インテグラーレとしては5回目、HF 4WDを含めたデルタとしては6回目のWRCマニュファクチャラーズ・チャンピオンに輝いた。
また、ドライバーズ部門では、前述のようにカンクネンが1987年(HF 4WD)と1991年(インテグラーレ16v)、また唯一のイタリア人世界チャンピオンであるミキ・ビアシオンが1988年(HF 4WD/インテグラーレ8v)と1989年(インテグラーレ8/16v)、計4回タイトルに輝いている。
だが、それ以降は、最初はトヨタに、次にスバルと三菱に押され、ランチアは精彩を失っていく。
■
それにしても、なんという走り!なんというクルマだろうか!!
スコットランド国境までの最後の4、5kmの道のりは、周囲がそれまでよりも開けている。
国境を越え、スコットランド側を爆走していると、1991年のRACに関するオートスポーツ誌の記事の書き出しが頭をよぎった。「キールダー……。それは、世界で最も苛酷なラリー・コースだ」。
空気の湿った11月の夜。挑戦者たちの夢と野心を容赦なく喰らい、引き裂いた魔の森。
予算をめぐってウェールズ政府との軋轢が続くラリーGB。2014年以降、名乗りを上げているイングランド北東部のヨークシャーにステージの一部またはすべてが移れば、ラリーGBにおけるキールダー復活も大いにあり得る話だ。そして、魔の森が現代に蘇る……。
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