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業界ニュース 2018.11.20

なぜイタリアにはスーパーカーメーカーが多いのか?その疑問に迫ってみた

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スーパーカーといえば、どのメーカーやクルマを連想するだろうか。

人によれば日産GT-RやホンダNSXかもしれないが、ボクにとってスーパーカーとは「フェラーリ」であり「ランボルギーニ」だ。

    1日いても飽きない。イタリア本国にあるフェラーリの聖地「ムゼオ・フェラーリ」訪問記

そして共通するのは、フェラーリもランボルギーニもイタリアのメーカーである、ということだ。さらに、マセラティ、かつてのデ・トマソもイタリアのメーカーである。

一方、ほかにイタリアで有名な自動車メーカーは「フィアット」だ。フィアットはご存知の通り大衆車メーカーだが、イタリアには世界に名だたるスーパーカーメーカーと、大衆車メーカーが同居している、ということになる。

自動車メーカーを有する国としては、ほかに我が日本、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどがあるが、イタリアほど「両極端」な国はないだろう。

今回はなぜイタリアはそういったスーパーカーを作りえたのか、について考えてみたい。

イタリアには高級ブランドがたくさんある

イタリアが有名なのはスーパーカーだけではない。ファッションブランドや食べ物も同様に有名だ。

ファッションブランドだと、アルマーニ、プラダ、ドルチェ&ガッバーナ、フェンディなど、その名を挙げるとキリがない。食べ物も同様で、ピザ、パスタからジェラートやティラミスといったデザート、カプチーノといった飲み物までもが世界中に知れ渡り、愛されている。

芸術にしてもそうだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど歴史に残る芸術家を多く輩出している。

つまり、イタリアは多くの分野において、古今東西「トップに立ってきた」ということだ。反面、ボクら日本人が抱くイタリア人に対するイメージは、失礼ながら世界のトップに登り詰めるほどの「勤勉」というものではないかもしれない。

イタリア人は目的達成のためには全てを捧げる覚悟ができている

よくいわれる。「日本人は真面目で働き者だ」と。

しかし外国の人々にとって、それはあくまでも「決められた範囲で」という但し書きがつくようだ。

反面、イタリアはどうだろう。とくに欧州の人はこういったイメージを持っているようだ。「イタリア人は、目的を達成するためにはすべての情熱を傾ける」と。

日本では個人の役割が決定されている場合が多く、個々はその役割をまっとうすることに全力を傾ける。よって、その個々は、自身の役割に集中するあまり、場合によっては全体像が見えていない場合がある。

よく大企業の社員を揶揄して「歯車」と表現することがあるが、この歯車は何のために回っているのか?回った先に何があるのか?そして最終的な生産物は何なのかが理解できていないかもしれない。

よって、自分が回る速度を変えるとどうなるのかがわからないし、速度を変えようとも思わないのだろう。

だが、イタリアはちょっと違うようだ。たとえばレースに出るとなると、全員が「勝つ」ことだけを考える、といわれる。そのチームのどんな末端の構成員であったとしても、だ。彼らは「勝つ」という最終の目的が理解できている。だから、目的を達成するためには「自分の働き方」を自分で変えることができるのかもしれない。そしてここが「歯車」との大きな違いだろう。

いいモノは理屈では作れない

もう一つ思うことがある。「理屈だけでいいモノは作れない」ということだ。

日本では、その手段や理論が重要視されがちだ。結果主義とは言いながらも、多くの企業では達成した結果が「適切な手段に則っていたか」が重要視され、つまり手段による評価になりがちだ。

だから、日本では「その行動が理にかなっているか」「その理論は正しいか」ということになり、ついつい最終の目的を忘れてしまい、手段そのものが目的にすり替わってしまうのかもしれない。

だが、イタリア人は多分そこが違うのだろう。人生を楽しむためには理屈は必要ないし、人生を楽しむために必要な食べ物や衣類、芸術、音楽、クルマには損得抜きで全情熱を掲げるのだと思う。

フェラーリの場合は「人生を楽しむ」道具としてではなく、「レースに勝つ」ためのクルマ作りが目標であったと思われるが、そこに妥協はなかったはずだ。レースに勝つことが存在意義であったために、「レースから撤退」という考え方もない。そして、レースに勝つことだけを考えて作ったクルマがフェラーリであり、その純粋さが多くの人の感情に訴えかけたのだろう。

フェラーリは「商業的に」いいクルマを作ろうとしたわけではなく、「レースに勝てる」クルマを作った結果、その性能が究極のレベルに達した、ということになる。

おそらくは、イタリアにおいて、食べ物にしても、服にしても、靴にしても、芸術にしても、「一流」とされるものは商業的に成功しようと考えたわけではなく、単に自分が納得できる高みを追求した結果、広く知られ、認められるようになったのではないだろうかと推察する。

日本とアメリカは共通する部分もある

そして、日本の場合は個人の情熱よりも、企業としての活動の方が優先される傾向にある。

企業の活動とは「利益を得ること」だと置き換えることができるかもしれないが、その利益を最大化するために「より広い範囲をターゲットにする」のが日本企業の特徴だ。面白いことに、この傾向はアメリカにも当てはまる。

日本にはトヨタやホンダ、日産といった「オールラインアップ」を持つ自動車メーカーばかりだが、アメリカもGMやフォードも同じように「すべての需要を拾う」傾向にある。一方でイタリアではフェラーリやランボルギーニのように「スーパーカーしか作らない」メーカーが存在する。

これを国民性のもたらした結果だと断じるのは性急だとは思うが、現実問題として「そうなって」いる。イタリアの自動車メーカーは「スーパーカー」と「大衆車」という両極端なものだが、一方で日本やアメリカの自動車メーカーのつくるクルマについて「普及車」もしくは中間価格帯のクルマが多い、というのは興味深い事実だ。

とにかくイタリアでは「やろうと決めたら」それがどんなジャンルであろうとも、妥協を許さず全身全霊を傾けて取り組む傾向があるようだ。その結果として生まれたのがスーパーカーだと考えられるが、日本とアメリカではそこにある程度の合理性が加味され、純粋さと情熱が殺がれてしまい、人の心を打つようなスーパーカーが誕生しにくいのかもしれない。

もちろん何事にも例外はあり、日本やアメリカからも世界に誇れるスーパーカーが誕生しているのも事実である、ということも付け加えておく。

[ライター・撮影/JUN MASUDA]

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(CL JUN MASUDA)

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