日米が太平洋で激突した戦争が激しさを増していた昭和18年、大学、専門学校に籍を置く多くの学生が陸海軍を志願して、戦場へと向かった。
その中の一人の青年は、零戦搭乗員となり、圧倒的な劣勢のなかで度重なる激戦を戦い、辛くも終戦まで生き抜いた。戦後は数学教師となり、90歳で天に召されるまで、終生愛し続けたのは、「エンジンのある乗り物」だった。
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中でも、運転をリタイアする直前まで20年間乗り続けた一台の車に対する愛情はひとしおだった。取材を通じて、この元零戦搭乗員と知り合い、彼の最後の車と深くかかわることになった男が、その人生の物語を紡ぐ。
写真/文 神立尚紀
画像ギャラリー……零戦パイロットが愛した「スカイラインR32」
安倍元総理も教えた数学教師
1台のクルマの物語を書こうと思う。
私がいま乗っている、白い日産スカイラインGTS-t TypeM(車名型式はニッサンE-HCR32。以下、「R32」と呼ぶ)のことだ。初年度登録は1990年だから、満31歳になる。この3月が通算15回めの車検だった。前オーナーが20年間大切に乗り、高齢となって運転にドクターストップがかかったことから、取材を通じて知り合った私の手元にきた。
受け継いだ日産スカイラインGTS-tTypeM(HCR32)
このクルマの前オーナーは、土方(ひじかた)敏夫さん(1922‐2012)。太平洋戦争中の1942年に豊島師範学校を卒業、小学校の教員をしながら東京物理学校(現・東京理科大学)の夜間部に在学していた
1943年10月、第十三期飛行専修予備学生として土浦海軍航空隊に入隊、戦闘機搭乗員となった。大戦末期、零戦を駆って沖縄戦で特攻隊直掩、敵機動部隊索敵攻撃、九州上空の邀撃戦など、度重なる激戦に参加、大分県の宇佐基地で終戦を迎えた人である。終戦時は海軍大尉。
1944年、九六式艦上戦闘機で訓練中の土方さん。当時22歳
4月12日発売。定価:1430円(税込)。講談社ビーシー/講談社。
真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた「大嘘」など全11章の、これまで語られることがなかった太平洋戦争秘話を収録。
戦後は教職に戻り、新制中学校の数学教科書を執筆。私立成蹊学園中学校・高等学校数学科教諭、さらに教頭をのべ39年間勤め、退職後は外務省人事課帰国子女相談室長を18年間勤めた。成蹊学園では安倍晋三前総理の恩師にもあたる。
土方さんは戦後、教職に戻り、成蹊学園中高校で数学教師、さらに教頭を勤めた
空戦は命をふり絞っての殴り合い
元零戦搭乗員・土方さんの戦いを、拙著『祖父たちの零戦』(講談社文庫)より引用する。
〈朝鮮の元山基地から笠之原基地に派遣された元山空零戦隊も、(昭和20年)4月14日、予備学生十三期出身の土方敏夫中尉以下13名が、乗ってきた零戦ともども二〇三空戦闘三〇三飛行隊に編入された。
昭和20年4月、沖縄戦が始まり、元山基地から九州・笠之原基地への進出が命じられる。整列する搭乗員の向かって左端が土方中尉
土方中尉の回想によると、このときの零戦は五二型丙で、座席の後ろに防弾板がつき、左右の主翼の20ミリ機銃の外側に1挺ずつ、機首の右側に1挺と、あわせて3挺の13ミリ機銃が装備されていた。
だが、これでは機体が重くなりすぎて機動が鈍重になり、敵戦闘機との空戦には向かないということで、防弾板と主翼の13ミリ機銃2挺をおろし、20ミリ機銃2挺と13ミリ機銃1挺という、五二型乙と同じ仕様に変更して戦闘に臨んだ。
機首の13ミリ機銃は、全長が長いので操縦席の搭乗員の右の胸元近くにまで突き出ているが、弾道直進性がよくそれなりに威力もあり、空戦では非常に使いやすいものであった。ただ、20ミリ機銃と13ミリ機銃では弾道が異なり、この両方の弾丸を同時に敵機に命中させるのは至難のわざである。
土方はこの零戦で、4月22日、沖縄上空でグラマンF6F一機を撃墜している。だが幾度も重ねた空戦では、敵機の数が多すぎて、追われて逃げることも多かった。
零戦の操縦席に座る土方敏夫さん。土方さんは零戦搭乗員として、大戦末期の沖縄、九州上空で戦った
敵機の主翼前縁いっぱいに12.7ミリ機銃6挺の閃光が走ったかと思うと、翼の下に機銃弾の薬莢が、まるですだれのようにザーッと落ちるのが見える。同口径の機銃を6挺も備えたF6Fの射撃の威力は、まさに「弾幕」と呼べるほどすさまじかった。
体をひねり、首をいっぱいに回して後ろを見ながら、敵機の機銃が火を噴くと同時にフットバーを思い切り蹴とばし、フットバーとは逆方向に操縦桿を倒し、機体を滑らせて敵弾をかわす。
横すべりのGで、体が操縦席の片側に叩きつけられるが、そうやって回避しないと命がない。一瞬でも水平飛行をしようものならたちどころに敵機の標的にされるから、空戦中はつねにスローロールの連続である。
沖縄方面への制空戦でも、敵機を九州上空に迎えての邀撃戦でも、いつも無我夢中で、持てる力を出し切っての空戦であった。空戦は、互いが命をふり絞っての殴り合いの喧嘩だと、土方は悟った。
昭和20年5月頃。鹿児島基地の戦闘第三〇三飛行隊指揮所の土方中尉
この頃の零戦には、主翼内燃料タンクの自動消火装置が装備されている。炎を感知すると液化炭酸ガスを燃料タンク内に噴出して消火するもので、作動するのは一度きりだが、空戦で被弾した零戦が、機体の塗料が焼け、真白になった状態で帰ってくることもあった。それはまさに、燃え尽き灰になるまで戦い抜いたかのような姿だった。〉
零戦のエンジン技術者たちが作った名車
戦闘機乗りだった土方さんは、飛行機や自動車といった「エンジンのある乗り物」と、カメラ、オーディオが大好きで、80歳まで軽飛行機の操縦桿を握っていたし、車も、昭和30年代始めの日野ルノーに始まって、さまざまな車を乗り継いできたという。
『ベストカー』や『カーグラフィック』『NAVI』などの自動車雑誌も欠かさず読んでいた。成蹊学園を定年退職した1985年には、当時の若者の憧れだったホンダ・プレリュード、しかもDOHCエンジンを搭載した最上級グレードのSiを購入している。
「プレリュードもいいクルマだったけど、私はFR車のほうが馴染んでいて、ハイパワーでもFFというのがちょっと不満だった。
そこへ、スカイラインが7代目から8代目へモデルチェンジ(1989年)して、コンパクトなスポーツセダンとして甦ったという。自動車雑誌や『間違いだらけのクルマ選び』(徳大寺有恒著・草思社)を読んでも絶賛されている。それで、どうしても乗ってみたくなって買い替えたんです。
スカイラインといえば元はプリンス自動車で、プリンス自動車のエンジニアたちは零戦の『栄』エンジンを造っていた中島飛行機の技術者でしたから、そんなノスタルジーもありましたね」
と、土方さん。「超感覚スカイライン」と呼ばれた8代目R32スカイラインは、ラグジュアリー寄りになった7代目をサイズダウンして、そこに強力なエンジンと足回りを載せたモデルだった。
選んだのは、センセーショナルな話題になった4WDのGT-Rではなく、215馬力の2L直6ツインカムターボエンジン・RB20DETを積んだ2WD (FR)の最上級車種、4ドアスポーツセダン(ピラードハードトップ)のGTS-t TypeMだった。
富士山をバックに
これは、「見た目はふつうの4ドアセダンで、走らせたら速いっていうのがカッコいい」という、土方さん流のこだわりである。
当時のカタログによると、GTS-t TypeMには、16インチアルミホイール、本革巻スポーツステアリング、4輪操舵のスーパーハイキャスをはじめ、走りのためのありとあらゆる機能が標準装備されているが、土方さんはさらに、オプションの4WAS(アンチロックブレーキ)やGTオートスポイラー(速度感応式のフロントスポイラー)までつけている。
全長4580ミリ、全幅1695ミリ、全高1340ミリ、5ナンバーのコンパクトな4ドアボディにハイパワーエンジンという、まさにスカイライン本来の姿ともいえるグレードだった。
スカイラインのアイデンティティ、丸いテールランプ
5速マニュアルではなく、4速ATを選んだのは、当時68歳という土方さんの年齢によるものだ。車両本体価格は、243.7万円だが、エアコンやオーディオもふくめたオプションを合わせると、300万円はゆうに超えたはずである。
土方さんの妻・兼子さんは、
「よく夫婦でドライブしたり、釣り、ゴルフなどに出かけたりするんですが、主人は目的地にも、きれいな風景にも興味がないみたいで、エンジンの音ばかり気にしてるんです。運転そのものが好きだったんですね」
と回想する。土方さんは、運転するときには必ずドライビンググラブをつけていたという。
1992年、土方さん夫妻とR32スカイライン。土方さんはこのとき70歳
この距離で20ミリを撃てば必ず当たる
私が土方さんと初めて会ったのは、2005年1月のこと。当時83歳の土方さんは、その前年、光人社(現・潮書房光人社)から『海軍予備学生零戦空戦記』と題する本を出版したばかりだったが、たまたま私が同社から上梓していた零戦搭乗員の証言集『零戦最後の証言』を読み、この著者にぜひ会いたいと、共通の担当編集者である坂梨誠司氏を通じてコンタクトをとってくれたのだ。
2005年、筆者と初めて会った日の土方さん。当時83歳(撮影/神立尚紀)
「私の人生を要約すれば、海軍での2年間に集約される。それほど重要で密度の濃い期間でした。それから後は、お釣りの人生だと思うんですよ」
と、土方さんは言った。零戦搭乗員として戦った戦時中の体験から、学校教育の話、趣味のカメラやオーディオ、車の話まで、話題は尽きることがなく、それからもずっと、何人かの元零戦パイロットを交えたりしながら、毎月のように会って話す機会が続いた。
実は私も、1989年、R32スカイラインが発売されてすぐに、赤いGTS(ツインカムの自然吸気エンジン搭載)を買い、6年ほど乗っていたことがある。私のつたない車遍歴のなかでも、20代後半をともにしたスカイラインはもっとも運転して楽しく、好きなクルマだった。偶然だが、クルマの好みが一致していたのだ。
土方さんは、年に一度、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校に講演に行ったり、ときどき戦中を舞台にしたドラマや映画の演技指導に通ったりもしていたが、そんなときは必ず私を伴って、帰りの運転を任せてくれるようにもなった。
高齢運転手による悲惨な事故が相次いで報じられる昨今だが、土方さんは80歳を越えても運転がうまかった。常磐道を走る車中でのことだった。前を走る車に目を据えて、
「この距離で20ミリ(機銃)を撃てば必ず当たるんだよ」
と言う。
「いつもそんなこと考えながら運転なさってるんですか? 怖いなあ」
などと言いながら、楽しいドライブだった。
「でも、スピード違反で捕まったことはないんですか?」
「いや、戦闘機乗りは『見張り』が命。覆面パトカーに捕まるようならとっくにグラマン(F6F)に墜とされてるよ」
後を引き受けてくれませんか
だが、そんな土方さんにも、運転をあきらめざるを得なくなる日がやってくる。ヘビースモーカーだった土方さんは、私と会う前から肺気腫を患っていて、急いで歩いたり階段を昇ったりすると息切れがしていた。その症状が日毎に、目に見えて悪化していったのだ。やがて酸素吸入が欠かせない状態になったが、それでも、
「こうやって酸素マスクをつけていると、零戦の高高度飛行みたいで懐かしい」
と強がりを言いながら、酸素吸入の合間に煙草をふかしていた。
2010年5月、東京・原宿の水交会(旧海軍、海上自衛隊関係者の親睦施設)で、NPO法人「零戦の会」が主催した「土方敏夫さんを囲む会」で、「零戦vs.グラマンF6F」と題し、35名の聴衆を前に講演をしたのが、土方さんが公の場に出た最後になった。
その年、ついに車の運転にドクターストップがかかる。88歳になった土方さんは私に、
「無理にとは言わないけど、せっかくここまで20年、大事に乗ってきたから、廃車にするのはしのびない。後を引き受けてくれませんか」
と言った。私はこのとき、同じ1990年式のいすゞピアッツァ ハンドリング・バイ・ロータスに乗っていて、こちらにも愛着があったが、土方さんの愛車を引き継ぐとなれば異存はなく、ピアッツァを廃車にして、土方さんのスカイラインを迎え入れることにした。
土方さんから引き継いだのちのR32スカイライン
妻・兼子さんによると、土方さんはクルマへの思いが断ちがたく、私が受け取りにくる前の日はずっと運転席に座り、エンジンを空吹かししたりして別れを惜しんでいたという。
名義変更にあたって、土方さんが購入した日産プリンス浜田山店で点検整備を行った。ディーラーの整備士・高橋和愛さんは土方さんのファンで、
「そういうことなら、うちで最後まで面倒を見させてください。現存のR32のなかでいちばん調子よく保ちますから」
と言ってくれた。
土方さんの容態は、日毎に悪化していった。自宅の階段も昇れなくなり、エレベーターを設置した。2011年夏、自宅を訪ねたときには、もはやかつての精気は失われているようだった。そしてそれが、私が土方さんと会った最後の機会になった。
2012年11月28日、死去。享年90。法名は覚寿院翔誉敏教居士。
高円寺の斎場で営まれた通夜、告別式に、私は土方さんのかつての愛車・R32スカイラインに乗って参列した。両日とも、式場に人が入りきれないほどの盛会だった。
告別式では、海軍時代の同期生・蒲生忠敏さんが、
「悔いなき人生、大往生が羨ましい。俺も近々行くから、同期を集めて迎えてくれ」
と弔辞を読んだ。棺の蓋を閉めるとき、小柄な兼子さんが、背伸びをするように土方さんに口づけをした。
R32の物語は続く
――不思議な縁で、土方さんが20年乗ったR32スカイラインが私のもとへきて11年。今年3月、15回めの車検を迎えた。土方さんの頃からこのクルマの整備を担当してきた高橋さんは、荻窪店の工場長を数年間務めたのち、2020年から浜田山店の店長になっている。車検整備の受け渡しのとき、高橋さんと、土方さんの思い出をしみじみと語り合った。
2021年3月、15回めの車検整備を終えたR32スカイライン。土方さんが購入し、新車当時から整備をしている日産プリンス浜田山店にて
旧いクルマだから、維持するにはそれなりに手間もコストもかかる。30年以上前のツインカムターボエンジンは、昨今のエコカーと比べると燃費もきわめて悪い。けれども、私はまだまだ、このスカイラインを諦める気にはなれない。
ステアリングを握るたびに土方さんや、土方さんにまつわる多くの人々の思い出が甦るし、ディーラーに行けばこの車を我が子のように見てくれる人がいる。そんな「物語」を大事にしていきたいと思うからだ。
神立尚紀 Naoki Koudachi
1963年、大阪府生まれ。日本大学藝術学部写真学科卒業。1986年より講談社「FRIDAY」専属カメラマンを務め、主に事件、政治、経済、スポーツ等の取材に従事する。1997年からフリーランスに。1995年、日本の大空を零戦が飛ぶというイベントの取材をきっかけに、零戦搭乗員150人以上、家族等関係者500人以上の貴重な証言を記録している。著書に『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』『証言 零戦 大空で戦った最後のサムライたち』『証言 零戦 真珠湾攻撃、激戦地ラバウル、そして特攻の真実』(いずれも講談社+α文庫)、『祖父たちの零戦』(講談社文庫)、『零戦 最後の証言彜I/II』『撮るライカI/II』『零戦隊長 ニ〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(いずれも潮書房光人新社)、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)などがある。NPO法人「零戦の会」会長
4月12日発売。定価:1430円(税込)。講談社ビーシー/講談社。
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