多作にして多才 自動車デザインの巨星
2024年3月13日、伝説的な自動車デザイナー、マルチェロ・ガンディーニ氏が85歳で逝去した。
【画像】マルチェロ・ガンディーニ氏の不朽の名作【ランボルギーニ・カウンタックとミウラを写真でじっくり見る】 全34枚
トリノ出身のガンディーニ氏は、1960年代半ばに著名なデザイン会社ベルトーネに在籍し、ランボルギーニ・ミウラ、ランチア・ストラトス、フェラーリ308/GT4などのデザインを担当し、名を馳せた。
独立後もさまざまなメーカーと協業し、数多くのコンセプトカーと市販車を世に送り出してきた。自動車デザインに与えた影響は計り知れない。
ここでは、ガンディーニ氏とその偉大な仕事に敬意を表し、彼の最高傑作を50台紹介する。
(マルチェロ・ガンディーニ、1938年8月26日トリノ生まれ、2024年3月13日リボリ没)
ランボルギーニ・ミウラ(1966年)
ガンディーニ氏がミウラをデザインしたのは、ジョルジェット・ジウジアーロ氏の後任としてデザイン会社ベルトーネで働いていたときだった。これが少々物議を醸しており、ジウジアーロ氏はミウラの開発の一部に関わっていると主張したが、ガンディーニ氏とランボルギーニはこれを否定している。
ポルシェ911ロードスター(1966年)
このクルマは、ポルシェのカリフォルニア州の販売代理店であるジョニー・フォン・ノイマンに依頼されたものだ。2シーター・コンバーチブルの需要に期待し、1966年のジュネーブ国際モーターショーでコンセプトカーが発表されたが、その反響は寂しいものだった。
ジャガーFT 3.8(1966年)
外観からは判断が難しいが、ジャガーFT 3.8のベースとなったのはSタイプである。
イタリアのジャガー輸入業者であるフェルッチオ・タルキーニ(車名の「FT」の由来)の依頼で、モダンなルックスを持つ高級4人乗りクーペを販売する計画だった。しかし、1966年のジュネーブ国際モーターショーで披露された後、今度はジャガー420のプラットフォームをベースに、もう1台だけ製作された。
BMW E3(1966年)
BMWは1960年代半ば、経営破綻を回避するために改革を余儀なくされていた。まず「ノイエ・クラッセ」というセダンが登場し、その上にコードネーム「E3」と呼ばれるニュー・シックスが置かれた。
当初の計画では、排気量1.8Lまたは2.0Lの4気筒エンジンを搭載することになっていたが、1968年の生産開始時には2.5Lから3.3Lの6気筒エンジンが採用された。
アルファ・ロメオ・モントリオール(1967年)
1967年、カナダのモントリオールで万国博覧会が開催され、これを記念してアルファ・ロメオはベルトーネに2台のコンセプトカーのデザインと製作を依頼した。その概要は、「自動車という分野において、人類の究極の願望を表現する」というものであった。
結果、1.6Lのジュリア・スプリントをベースにした無名のクーペが誕生した。万博へ出展されると来場者やメディアの間で大評判となり、量産化を熱望する声が上がった。そして1970年、2.6L V8エンジンを搭載する市販バージョンが登場。しかし、販売台数は4000台に満たず、1977年に生産終了した。
フィアット125エグゼクティブ(1967年)
ガンディーニは、ノーズからテールまでウエストラインを通す必要はないと考えた。伝統にとらわれず、トランクリッドを高くして積載性を高めたクルマを考案し、1967年にフィアット125エグゼクティブを発表した。そのスタイリングは当時としてはかなり過激なものだったが、一部の要素は後の市販車にも採用された。
ランボルギーニ・マルツァル(1967年)
シルエットは特に奇抜なものではなかったが、ディテールは間違いなくクレイジーだ。スラット付きのリアウインドウから、全面ガラス張りのガルウイングドア、ガラスルーフに至るまで、固定概念にとらわれない想像力豊かな作品である。
1967年に発表されたマルツァルは、ミウラの4.0L V12エンジンのハーフバージョン、2.0L直6エンジンを搭載している。
ジャガー・ピラーナ(1967年)
ベース車がジャガーEタイプであることを、実にうまく隠している。ピラーナは、アールズコート・モーターショーのメインスポンサーでもあったデイリー・テレグラフ紙の依頼で製作されたもので、1967年に堂々と見出しを飾った。
ベルトーネに与えられた設計・製作期間はわずか5か月で、予算は2万ポンドだったという。モーターショーが終わると売却され、現在では米国の個人の手に渡っている。
ランボルギーニ・ミウラ・ロードスター(1968年)
1968年、ベルトーネがブリュッセル・モーターショーに初出展するとき、観衆をあっと言わせるような展示物を求めていた。ミウラのロードスター仕様については、1966年のミウラ発表当時から考えられていたという。
フロントガラスとリアルーフは低くなり、Cピラーのエアインテークスラットも拡大され、リアスポイラーとテールライトも再設計された。ワンオフのまま、量産化には至っていない。
アルファ・ロメオ・カラボ(1968年)
奇抜なコンセプトカーといえば、ベルトーネがアルファ・ロメオ・ティーポ33をベースに開発したカラボを紹介しないわけにはいかない。
シザーアクションドア、極端なウェッジプロファイル、ポップアップ式ヘッドライトなど、非常に未来的なスタイリングである。最高出力230psの2.0L V8をミドマウントしており、かなり速かったと予想される。
ランボルギーニ・エスパーダ(1968年)
ランボルギーニ誕生後わずか5年で、2シーター(ミウラ)、2+2(400GT)と並び、4人乗りのエスパーダが販売されていた。
前述のマルツァルから派生したエスパーダは、ビッザリーニ設計のV12エンジンをフロントに搭載し、最高出力325ps、5速MT、後輪駆動方式を採用。最高時速は250km/hで、当時の4人乗りとしては世界最速だった。1978年まで合計1217台が生産された。
フィアット128クーペ・ショッピング(1969年)
フィアット初のフロントエンジン・前輪駆動車である128は、同社にとって大きなターニングポイントとなった。
ガンディーニ氏はFF車のメリットを活かし、トランクの下に格納できるスライド式のショッピングカートやベビーカーを考案したが、このアイデアが世に出ることはなかった。
アウトビアンキ・ランナバウト(1969年)
フィアットは1965年に登場したリアエンジンの850スパイダーの後継車として、1969年のトリノ・モーターショーでミドエンジンのコンセプトカーを発表し、消費者の反応をテストした。
スピードボートの形状にインスパイアされたランナバウトには、買収後間もないアウトビアンキのバッジが付けられた。ランナバウトは大好評を受け、フィアットX1/9として量産化が決定したが、かなりの部分が変更されている。
ランチア・ストラトスHFゼロ(1970年)
あまりにも非現実的なウェッジシェイプは、遠い夢のような不思議な魅力を秘めている。どんな言葉をもってしても、このデザインを説明することは難しい。
ランチア・フルビアから流用した1.6L V4エンジンを搭載し、鋭いノーズには10個の超スリムなヘッドライトが並び、リアには84個のバルブが光のリングを作り出す。2011年に76万1600ユーロで売却され、現在は個人の手に渡っている。
ランボルギーニ・ハラマ(1970年)
よほどのランボルギーニ好きでない限り、イスレロの後を継いだハラマ(400GT 2+2の後継車でもある)を知る人はほとんどいないだろう。
ノーズには3929ccのV12が搭載され、部分的に隠れたヘッドライトからリアウィンドウ上の小さなスポイラーまで、端正なディテールが散りばめられている。1970年から1976年の間にわずか327台が販売された希少車である。
ランチア・ストラトス(1971年)
当時、ランチア・フルヴィアがラリーで好成績を収めていたが、ポルシェ911やアルピーヌA110といったライバルに苦戦を強いられるようになった。
そこで必要とされたのが、最初からラリーカーとして作られたストラトスである。フェラーリ246GT “ディーノ” と同じ2.4L V6を搭載したストラトスは、1972年11月にモータースポーツデビューを果たす。1974年までにロードレースとラリーを席巻し、1974年、1975年、1976年に世界ラリー選手権を制覇した。
シトロエン・カマルグ(1972年)
シトロエンGSをベースとするカマルグは、ベルトーネとシトロエンの初の協業によって生まれたモデルである。基本的にはGSの2+2版という提案であり、実用性にはあまりこだわらないスタイル重視の若いバイヤーをターゲットに、1972年のジュネーブ・モーターショーで初公開された。
しかし、直後にシトロエンの経営が傾くと、1974年にプジョーが株式を取得。1976年に両社が合併してPSAが誕生した。
BMW 5シリーズ(E12、1972年)
初登場から46年を経た今もBMWの定番である5シリーズ。その血統はここから始まった。1960年代にBMWを窮地から救ったノイエ・クラッセに代わる次世代車である。
4気筒と6気筒のガソリンエンジンを搭載し、セダンボディのみ導入された。後に、現代のM5の原型となる高性能モデル、M535iも登場した。
アウディ50(1972年)
1960年代後半から1970年代初頭にかけて、欧州中の自動車メーカーは猛烈な勢いでハッチバックに力を入れていた。前輪駆動の人気はますます高まる一方で、フォルクスワーゲンとアウディはこのトレンドに乗り遅れないよう、家族向けのFFハッチバックを開発しようとしていた。
その手始めとして、イタルデザインがフォルクスワーゲン・ゴルフを、ベルトーネがアウディ50の製作を依頼された。アウディ50は、まもなくフォルクスワーゲン・ポロとしても販売されることになる。
フィアット X1/9(1972年)
前述のアウトビアンキA112ランナバウトから派生したX1/9は、フィアット初の手頃なミドエンジン・スポーツカーとして新風を巻き起こした。当初は1.3Lエンジンを搭載し、後に1.5Lが追加された。総生産台数は約16万台に達する。
NSUトラピーズ(1973年)
NSUトラピーズは、1968年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したNSU Ro80をベースにしている。ロータリーエンジンと前輪駆動を特徴とし、鋭く突き出たフロントガラスと顕著なウェッジシェイプなどはランチア・ストラトスから流用した。しかし、ストラトスとは異なり、トラピーズはエンジンをリアアクスル上に搭載している。
フロントシートを車体中央に置き、小型エンジンを挟むようにリアシートをオフセット配置することで、広大なレッグルームを確保した。しかし、この奇抜なアイデアは流行らなかった。
ランボルギーニ・ウラッコ(1973年)
1970年のトリノ・モーターショーで公開されたウラッコは、3年かけて発売にこぎつけた。しかし、最高出力220psのミドシップ2.5L V8エンジンの性能と信頼性は期待外れであった。
250psを発揮するウラッコP300も導入されたが、低品質に悩まされ、消費者が離れてしまった。ウラッコは1973年から1979年の間にわずか791台しか生産されていない。
ランボルギーニ・エスパーダ4ドア(1973年)
エスパーダの後継車開発の必要性に迫られたランボルギーニだが、一から新規開発する余裕はなかった。そこで、ガンディーニ氏はエスパーダの進化版を考案することにした。
その結果、ホイールベースを4インチ延長し、ポップアップ式のヘッドランプを備えた4ドア・クーペが誕生した。しかし、残念なことに、図面の域を出ることはなかった。
フェラーリ・ディーノ308 GT4(1973年)
エンツォ・フェラーリがフロント以外の場所にエンジンを載せることに反対したのは有名な話だ。しかし、ミウラがミドシップ・スポーツカー革命を起こすと、さずがに目を向けざるを得なくなった。
1968年に206 GT “ディーノ” が誕生し、1973年にはフェラーリ初のミドシップV8である308 GT4が登場した。その後複数のモデルが続いたが、1993年のモンディアルの終焉とともにミドシップ4シーターに見切りをつけた。
(記事は後編へ続きます)
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