死してなお、輝きを放ち続ける名士たち
時代は変わり、市場は進化し、時には支配者である大企業が土にまみれてしまうこともある。車輪が溝にはまり、抜け出せないまま朽ちてしまった自動車会社は少なくない。
【画像】忘れられない名車【サーブ、デ・トマソなどを写真で見る】 全52枚
しかし、彼らは素晴らしい技術やデザイン、文化を数多く残してくれた。今回は、消滅してしまった自動車メーカーやブランドが製造した名車の数々を紹介する。後編もお見逃しなく。
AMCイーグル(1980年)
今、AMCで最も注目すべきはイーグルである。イーグルは、本格的な四輪駆動システムと十分な地上高によって、厳しいトレイルや膝まで埋まるような雪に挑むファミリーカーであった。いわば、イーグルは現代のクロスオーバー車の前身といえるだろう。
最近、クーペSUVの人気が高まっているが、AMCはイーグルSX/4でそれを実現しており、クーペらしく2ドア仕様になっていた。
AMCはどうなったのか?
1979年にフランスのルノーに買収されたが、80年代に燃料価格が比較的安くなったため、小型車を中心としたAMCのラインナップは苦戦を強いられた。ルノーCEOのジョルジュ・ベッセが1986年にテロリストに殺害されると、AMCは1987年にクライスラーに売却され、消滅した。
オースチン・ヒーレー3000(1959年)
1959年にデビューしたオースチン・ヒーレー3000は、3.0Lエンジンとフロントのディスクブレーキが特徴的なモデルだった。欧州のラリーで威力を発揮したが、北米ではコンバーチブルに憧れる消費者に支えられた。ヒーレーは、1960年代を通じて改良が続けられた、当時の英国を代表するスポーツカーである。写真はオースチン・ヒーレー3000 Mk3。
オースチン・ヒーレーはどうなったのか?
オースチンとヒーレーの20年にわたる契約は、1972年に終了した。その後、オースチンの後継会社であるローバーをBMWが所有するなど、復活の話もあったが、何も形になっていない。社名自体は現在、中国の上海汽車(SAIC)が所有している。
アウトビアンキA112アバルト (1971年)
フォルクスワーゲンはホットハッチのパイオニアとして認められがちだが、なぜかアウトビアンキのA112アバルトは見落とされている。確かにA112はマッチ箱のようなサイズなので、視界に入らないのも無理はない。
1971年9月、まだゴルフの名が存在していなかった時期に、成功を収めたA112の高性能バージョンとして登場している。初期モデルは最高出力59psの4気筒エンジンを搭載していたが、生産が進むにつれて71psまでパワーアップした。
アウトビアンキはどうなったのか?
同社は、自転車メーカーのビアンキ、ピレリ、フィアットの3社による合弁会社であった。1968年にフィアットが全権を握り、ランチアに吸収合併された。アウトビアンキのバッジは1995年に消滅している。
ダイムラーSP250/ダート(1959年)
かつて王侯貴族にクルマを供給していたダイムラー(デイムラーとも呼ばれる)は、やがて市販車を製造するようになった。SP250のエンジンは、2.5LでありながらV8という面白い構成になっている。
エレガントでありながら見た目は面白く、最高時速193km/hと気合の入った走りで、重厚な先代モデルとは決定的に違う。英国初の高速道路M1でスピード違反の取り締まりに使われたのは有名な話だ。
ダイムラーはどうなったのか?
1960年にジャガーに売却され、モデルは最終的にジャガーの派生車種となった。2007年にブランドは消滅したが、ジャガーは現在も多くの市場でダイムラーの名を使用する権利を持っている。しかし、現在はメルセデス・ベンツの親会社の名前でもあることから(複雑だ……)、いまさらジャガーが使う可能性は低いと思われる。
デ・トマソ・パンテーラ(1971年)
フェルッチオ・ランボルギーニ(1916~1993年)は、フェラーリを倒すために、クルマ全体をゼロから開発するという気の遠くなるような道を歩んだ。アレハンドロ・デ・トマソ(1928~2003年)はもっと単純に、息を呑むほどゴージャスな乗り物をデザインし、フォードからV8を買ってきてシートの後ろに積むという方法をとった。
パンテーラはデ・トマソに安定したキャッシュフローを提供したが、品質の問題を抱えていた。その信頼性の低さから、エルビス・プレスリーは何度もパンテーラを撃ってしまったという。銃弾が役に立ったかどうかは定かではない。フォードは1975年に米国への輸入を停止したが、他の市場(欧州など)向けには1992年まで生産が継続された。
デ・トマソはどうなったのか?
1975年にマセラティと合併。マセラティの方が多産であったが、デ・トマソの販売は2004年に消滅するまで少量ながら継続された。商標は売却され、2011年のジュネーブ・モーターショーにはデ・トマソのコンセプトカーが登場したが、それ以来、何の音沙汰もない。
ファセル・ヴェガ・エクセレンス(1958年)
現在買える最高級のフランス車は、BMW 5シリーズの低グレードと同程度の価格だ。しかし、昔はそうではなかった。ファセル・ヴェガ(世界で最もイメージに敏感で、自尊心の強いスターが愛用するブランド)は、ロールス・ロイスやドイツ車の最高級モデルに対抗するためにエクセレンスを製作した。
リアドアを逆向きにした観音開き、重厚なデザイン、手作業で作られたインテリアなど、エクセレンスはその名に恥じないものであった。ブランド、そしてフランスの自動車産業全体のフラッグシップとしての役割を担っていたのである。
ファセル・ヴェガはどうなったのか?
メルセデス・ベンツのようなライバルとの競争に敗れ、1964年に閉鎖された。
ハドソン・ホーネット(1951年)
1950年代の米国車はみんな同じに見えるという神話を払拭したのが、ハドソン・ホーネットだ。確かに、大きな丸いヘッドライトと宇宙から見えるほどのクロームメッキの装飾が施されていたが、同業者との類似点はそれだけだ。
ルーフラインは長く曲線を描き、ポンツーン型のリアエンドへと流れていく。今ならメルセデス・ベンツCLSのような4ドア・クーペに分類されるだろう。1950年代初頭、ホーネットはNASCARを席巻し、その速さは折り紙付きだった。
ハドソンはどうなったのか?
1954年にナッシュ・ケルビネーターと合併し、アメリカン・モーターズ(AMC)が誕生した。ハドソンの名は1957年まで存続している。AMCの残党(特にジープ)は、今日、ステランティスの傘下にある。
ジェンセン・インターセプター(1966年)
ジェンセン・インターセプターは、トライアンフやMGといった典型的な英国製スポーツカーに代わる選択肢を消費者に提供した。鋭いハンドリングや維持費の低さよりも、シルキーでスムーズな低速トルクを重視する層をターゲットにしている。しかし、ジェンセンは財政難から破綻し、後継車種がないまま消滅した。
ジェンセンはどうなったのか?
1976年、ジェンセンは操業を停止。2001年に新型車S-V8で復活したが、わずか20台が生産されただけで再び消滅した。
マトラ・ランチョ(1977年)
マトラは、ランチョを「残り物だけを使って最後に作る料理」に例えた。バンのVF2をベースに、1308GTから最高出力81psの1.4Lエンジン、1100TIからブレーキ、1307から4速MTを移植したのだ。
アウトドア志向の強いデザインで、どこにでも行けそうだが、コストやパッケージングの関係で四輪駆動は設定されなかった。クロスオーバー車の先駆けであったが、登場が数十年早すぎたと言わざるを得ない。運命のいたずらで、ランチョの後継車は欧州初のミニバン、ルノー・エスパスの原型となった。
マトラはどうなったのか?
マトラの自動車部門はルノーの委託製造業者となったが、この業務は2003年に終了し、他の資産の一部はピニンファリーナに買収された。マトラの防衛・航空宇宙部門は、現在エアバスの一部となっている。
マーキュリー・クーガー(1967年)
マーキュリーは、プラットフォームを共有するフォード・マスタングとフォード・サンダーバードの間を埋めるべく、クーガーを発売した。ポニーカーの性能に豪華さをプラスして、マーキュリーのヒーローとなったクルマだ。
その後のモデルは、オリジナルのスピリットを再現しようと試みたものの、その出来栄えの悪さと無気力な性能のために、ほぼ失敗に終わっている。
マーキュリーはどうなったのか?
金融危機後の合理化により、フォードは2010年にマーキュリーブランドの終了を発表する。2011年1月に最後のモデルであるグランドマーキスが製造された。
モーリス・マイナー(1948年)
モーリスといえば、第二次世界大戦後、欧米でライトウェイトスポーツカーの道を切り開いたMGの「M」として有名である。しかし、モーリスブランドのクルマという意味では、マイナーに勝るものはない。
性能は当時の水準から見ても落ち着いたものだったが、ステアリングとハンドリングは見事で、戦後の英国の発展を支える主要な交通手段であった。その後、バン、ワゴン、コンバーチブルなどのモデルが生まれ、後に登場した強力なエンジンも大いに活躍。1971年まで140万台が生産された。
モーリスはどうなったのか?
モーリスは1952年にライバルであるオースチンと合併し、ブリティッシュ・モーター・コーポレーションとなった。その後もさまざまな企業と合併し、1968年にブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーションを設立。モーリスブランド最後のクルマ、イタルは1984年に製造された。現在、オックスフォードにある旧モーリス工場の一部では、BMWのミニを生産している。
オールズモビル4-4-2(1964年)
4-4-2は、オールズモビル・カトラスの性能重視のオプションパッケージとして誕生すると、1968年に本格的なモデルラインに昇格するほどの人気を博した。オールズモビルは米国のチューナー、ハーストと共同で、最高出力395psのエンジン、強化ブレーキ、専用サスペンションを備えた高性能の4-4-2を開発した。
以後数年間、4-4-2という数字は、ハイセンスなパフォーマンスの代名詞となった。1972年のモデルチェンジで、4-4-2はオプションパッケージの位置づけに降格した。
オールズモビルはどうなったのか?
オールズモビルは、GM傘下の他のブランドはもとより、他社のクルマにも埋もれてしまうことが多くなった。2004年、GMはオールズモビルを閉鎖した。
パナール24 BT/CT(1964年)
パナールといえば、一般ドライバーなら6人乗りの大型セダン、レーサーなら超軽量スポーツカーを思い浮かべるのが当時の認識であった。この2つの要素を融合させたのが、24シリーズである。
ショートホイールベースとロングホイールベースが用意された24は、レーシングカーで通勤することを望まないドライバーに、パナール独自のスポーツ性を提供した。24BTは24CTより長く、後席のスペースが広くとられている。空冷フラットツインエンジンを搭載し、空力特性に優れた設計により高速道路での走行を可能にした。
パナールはどうなったのか?
1967年、同社の自動車部門はシトロエンに売却され、自動車メーカーとしてのパナールは消滅した。しかし、軍用車メーカーとしてその名を残し、最終的にはスウェーデンのトラックメーカー、ボルボ・グループの傘下に入った。
ポンティアック・ファイヤーバード(1967年)
GMは、シボレー・コルベットと直接競合することを恐れて、ポンティアックに2シーターのスポーツカーを製造することを許可しなかった。その代わりにポンティアックは、当時の新型車カマロと同じプラットフォームをベースにしたスポーツカーの発売許可を得た。
「スクリーミング・チキン」と呼ばれたファイアーバードは、カマロとともに4世代に渡って活躍し、2002年に屠殺場へと送られることになった。
ポンティアックはどうなったのか?
2008年から2009年にかけての世界的金融危機で瀕死の状態に陥ったGMは、ブランドの合理化を図るため、2010年にポンティアックブランドを廃止した。
プリムス・ロードランナー(1968年)
マッスルカーは、よりパワフルかつ高価になるにつれて、一般消費者の手の届かない存在になっていった。ロードランナーは、ありふれたクルマのボディに強力なエンジンを搭載するという、マニアが認める基本的な方式に立ち返ったものだった。
ロードランナーは発売初年度にプリムスの予想を大きく上回る成功を収めた。手頃な価格のマッスルカーが必要とされた時期だったのである。
プリムス・プロウラー(1997年)
成長しすぎたホットウィールのおもちゃがあるとすれば、それはプリムス・プロウラーである。1950年代に米国の道路を走っていたクラシックなホットロッドを現代風にアレンジしたもので、ブランドにスタミナをつけるための冒険だった。
このクルマは大ヒットしたわけでも、プリムスを復活させたわけでもないが、2000年代初頭の一連のレトロスタイルの米国車にインスピレーションを与えた。
プリムスはどうなったのか?
クライスラーのプリムスブランドは2001年に消滅し、各モデルは生産中止かクライスラーにブランド変更された。
ローバーSD1(1976年)
ローバーは中国で生まれ変わり、「ロエベ」と名乗るようになっている。SD1は、ローバーがホンダと組んで技術とコストを共有する前に、単独でフラッグシップモデルを作ろうとした最後の挑戦であった。前衛的なデザインとV8エンジンを採用し、BMWやメルセデス・ベンツの高級セダンと同じ土俵、かつローバーの頂点に立つモデルである。
ローバーはどうなったのか?
ローバーはオースチン・ローバー・グループの一員となり、1987年から1991年にかけて、ホンダ・レジェンドをベースにスターリングブランドのモデルを米国で販売した。その後、1994年にBMWに売却されている。2000年にフォードにランドローバーを売却した後、現在のMGローバーをわずか10ポンドで経営コンソーシアムに売却した。
しかし、MGローバーは2005年に廃業する。ローバーブランドは2006年にBMWからフォードに約1000万ポンドで売却され、フォードは2008年にランドローバーとジャガーと共にインドのタタ・モーターズに売却した。
サーブ99(1968年)
サーブの歴史に新たな1ページを刻んだのがこの99だ。それまでの92に影響されたデザインを捨て、ラップアラウンド型フロントガラスを特徴とする、より現代的なデザインを採用したのである。また、トライアンフ製4気筒エンジンは、96のDKW製2サイクルエンジンを過去のものとした。
1978年のターボモデルは、99の進化形として最もよく知られており、以後の高性能サーブの道を切り開くことになった。
サーブ900エアロ/SPG(1984年)
900エアロ(北米ではSPGと呼ばれる)で、サーブは競争相手のドイツ車と肩を並べる能力を証明し、さらに競争に打ち勝つことを目指した。初期のモデルは既存の900ターボをベースに最高出力162psのターボ4気筒が搭載されたが、1980年代にはパワーアップが図られた。
3本スポークのホイールやボディ下部の樹脂製クラッディングは、見る者に普通の900とは違うことを告げていた。今にして思えば、ボディサイドの樹脂パーツはW201やW124を改良する際にメルセデス・ベンツにインスピレーションを与えたのかもしれない。
サーブはどうなったのか?
2000年、サーブはGMに完全買収された。2010年にスパイカーに売却されたが、2011年に生産を終了。その後、中国のNEVSという企業がサーブの権利を買い取ったが、どのクルマにも使われないようだ。サーブの名は、今も軍用機メーカーとして残っており、1990年まで自動車部門と航空機部門は同じ所有権下にあったため、このあたりは複雑で論争があるところだ。
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