トップインタビュー3人目は中嶋悟。ご存じ我が国で初めてF1グランプリにフル参戦したドライバーだ。小兵ながら大馬力のF1マシンを巧みに操り、粘り強い走りで玄人の目には職人のように映った。1987年からF1グランプリに参戦、91年までの5年間で80レースを戦った。最高位は87年イギリス、89年オーストラリアでの4位。我々は彼が世界に挑戦する姿に感銘を受け、勇気をもらった。今回のインタビューでは、現役時代には我々が知り得なかった彼の顔が見えてくる。
ーー引退の話から尋ねるというのもおかしな話ですが、中嶋さんのことをずっと見てきた私としては、ヘルメットを脱いだ時の気持ちというか、男のけじめの付け方が一番気になるので、そこからお聞きしたい。
「1991年限りで引退したんだけど、感覚としてはもう1年早く止めていてもよかった。でも、僕が所属していたティレル・チームが91年にはホンダ・エンジンを積むことになって、中嶋はやっぱりホンダ・エンジンで終わらせたいと言われたら、90年限りでやめますとは言えないよね」
■【トップインタビュー】高橋国光が海を渡り受けた“衝撃”「日本は全てにおいて遅れていた」
(編集注:1990年、ティレルはフォード・エンジンを搭載)
ーーですね。それでもう1年頑張った。
「モナコあたりまでは頑張ったんだけどね。でも、前半戦は開幕戦フェニックスで5位に入賞しただけで、ギヤボックスが壊れたりデフが壊れたり、本当にいろんなことがあって、モナコあたりで、もう引退するって言っていいよね、みたいな気持ちになっていた。それで、ドイツで引退を発表したんだ。引退発表するなら早い方がいいと思って。チームもドライバーも次の年のこと考えて、夏頃から動くでしょ。自分の気持ちも軽くなるしね」
ーー体力的に限界に来た感じはありましたか?
「うん、ティレルではジャン・アレジがチームメイトで、彼は燃えてたよね。若くてピンピンでしょ。僕にはティレルのハンドルが凄く重かったの。走り出して、『あれ、これじゃああの縁石越えられんぞ俺は』って。ハンドル支えきれないんだもん。でもアレジは軽々と運転するじゃない。それで、ボチボチ止め時かなと思った」
「シーズンはドンドン過ぎていき、(1991年)日本GPでは飛び出しちゃうし、その前にはコースアウトもあるシーズン、やっぱり心折れたりしたんだね。モチベーションが全然上がらなかった。だから、悪いなと思いながら余韻を楽しんでいたというか……」
(編集部注:1990年はアレジ、1991年はステファノ・モデナがチームメイト)
ーーでも、本当にこれで終わりだと思ったときには寂しかったでしょう。
「寂しいというか、辛いというか。自分はもうあきらめがついている。だけど、応援してくれた人がいっぱいいるわけでしょ。EPSONもPIAAもホンダも。この3本柱の人達に言うのが一番辛かった。もちろん大勢のファンもいるけど、やっぱり一番身近で応援してくれる人に話をする時が一番ね。悪いなあ、失礼かな、すみませんね、って凄く思った」
「気持ちの整理が出来たのは、本田宗一郎さんが、『なかなかいいランディングしたじゃねえか』と、一言伝えていてくれたからです。人間飛び立つのは簡単だけど、いい着地するのは難しいんだよ、と。いい着陸したねって伝えてくれたのよ。それですごく気持ちが楽になった。引退の発表したあとです。その年のシーズンが始まる前にお会いして『頑張って来ます』って言って、帰って来たら挨拶に伺いますということだったんだけど、帰って来たらお亡くなりになっていて、結局お会いできなかった。でも、あの言葉は本当に有り難かった。その言葉を聞いて、いい終わり方をしたんだって自分でも思えた」
ーーF1から降りたあと、自分のF1活動とは何だったんだろうと考えるようなことはありましたか?
「敢えて言うなら、自分が行ったことで、『あいつが出来るなら俺でも出来るだろう』って思った人が沢山いたんじゃないかな。現実に(片山)右京は直ぐに行ったしね。自分が行けたことで多くの人がF1を目指したということはよかったんじゃないかな。そういう意味では役に立ったんじゃないかな」
ーー最初に引退の話をしてもらって順序が逆になりましたが、F1グランプリに出たいと思った出来事はありますか?
「78年にイギリスのF3に出たでしょ。ブランズハッチのイギリスGPの前座レース。スタートで僕がひっくり返ったやつ。(筆者も)一緒にいたじゃない。そこでF1観て、すげえなあ、ここに来たいって思った。で、翌週のドイツGPを観に行ったら、そしたらもうピケが走っとった。前の週のF3で同じレースに出てたのに」
ーーヨーロッパでF1グランプリを観た衝撃は大きかったですか。
「大きかったねえ。戦闘機は飛んでくるわ、人はいっぱいおるわ、爺さんも婆さんも子供もいるし、ロールスロイスはパドックにいっぱい止まっとるし、着飾った王室というかお金持ちの人もいっぱいいる。あの気配は日本にはない。それが僕には一番のショックだった。レースってこうなんだって。それを目の当たりにして、『俺たちは比べものにならないほど小さなことやってたんだな』って。だから、ドライバーとしてやりたい事っていうのは、まずはここに来て腕試しをやることだと。そう心に決めたよね。でも、まあ簡単じゃない。自分一人ではまず無理だし、日本の企業もそんなには目を向けてくれない。それで選んだのが、日本でこの野郎ってくらい速く走って、ヨーロッパのレースに繋げることだったんだ。それが生沢(徹)さんのi&iレーシングでのヨーロッパF2挑戦に繋がった」
ーー日本であれだけ速かったので、ヨーロッパに行っても直ぐに勝てると思っていました。
「1回2位には入ったけど、結局お金がなくなって日本に帰ってくる羽目になった」
ーーF1に行っても直ぐに勝てると思っていました。日本での走り見ていたら、勝てないはずがないと思いますから。
「僕もひょっとしてと思ったけどね。でも、やっぱり世界の壁は高いというか厚いというか……簡単じゃなかった。初年度にぼちぼち入賞したけど、これが僕のレベルかなって自覚したよ。ただ、せっかくここまで来られたんだからそう簡単には諦めないぞという気持ちはあった。だって、F1ってチームだったり、クルマだったり、エンジンだったりいろんな方法でライバルより速く走るのが可能じゃないかと、87年が1年終わって思ったんです。チームメイトのアイルトン(セナ)より全部遅かったけど。あいつが翌年チャンピオン獲ったのは良かった。あいつにはかなわなくても、俺はその直ぐ下でやれるのかもって思うじゃない。それで、2年目は心を入れ替えて、今度のチームメイトはピケだけど、あいつとはまあまあ対等に走れたときもあった」
「ピケはチャンピオン取った後でロータスに来たんだけど、チャンピオン後のドライバーって腑抜けだなって思ったよ。反対にチャンピオンを狙っているセナの様なドライバーは、全然違った。だから僕もピケと時折同じように走れた。鈴鹿のレース(1988年)では予選で同タイムだったしね。そういうのを経験すると、『よし、俺にも一回ぐらいチャンピオンの可能性あるかも』って思いながら走れた」
ーーでも、F1で勝つというのはドライバーの力だけではないですからね。
「うん、87年から2年間はホンダ・エンジンだったロータスも89年はジャッドになって、戦闘力落ちたしね。クルマも余りよくなかった。まあ、クルマだけのせいにするわけにはいかないんだけど。その後ティレルで2年でしょ。結局、いろんな意味でトップクラスには行けなくて終わったんだけど、本田宗一郎さんの言葉に助けられたな」
ーーさて、F1から降りて日本に帰って来るのですが、当時の正直な気持ちを。
「正直言うと、レースの世界から離れようかなとも思った。ドイツGPでやめると言ってからシーズンが終わるまでの間に、『俺はドライバーやめたら何をするのが一番だろう』って、『俺は何をする人ぞ』って、ずっとそういうのを考えながら残りシーズンを過ごしたね。で、最終戦オーストラリアGPを迎え、僕のF1人生も幕引きですよ。でも、これからの人生何しようかって、全然腹が決まってなかった」
(第2回に続く)
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みんなのコメント
各々のドライバーと私的にメッセージやり取りするなんて、その後の社長はやってないでしょう
普段から、意気込みというか、伝わる熱量が全然違うと思う。