プレリュードが1本式を選んだ背景
レーシングドライバーであり自動車評論家でもある木下隆之氏が、いま気になる「key word」から徒然なるままに語る「Key’s note」。今回のお題は「ワイパー」。どれだけ自動車が進化しても、ワイパーは「ゴムのヘラとアーム」という仕組みのまま。かつては刷新を目指して1本式や複雑機構も登場しましたが、今も主流は“あの形”です。変わらないものにこそ、完成された美しさが宿っているのかもしれません。
EVが“緑の地獄”を駆け抜ける日は近い?木下隆之が語るサーキットと電気自動車の進化【Key’s note】
技術革新のなかで“変わらない”ものとは
自動車という存在は、まさに技術革新の権化のようなものです。エンジンはモーターに、スピードメーターは液晶に、ドライバーはAIに。日々の進化は目覚ましく、遠からぬ未来には「空飛ぶクルマ」すら現実になるというのですから、まさに驚くべき変貌ぶりです。
ところがそんななかにあって、古くからその姿をほとんど変えることなく、しれっと時代に寄り添い続けている部品があります。
たとえばタイヤ。どれだけハイテクなクルマであっても、タイヤは変わらず「黒くて、丸い」。ガラスもそう。今どきのガラスはUVカットはもちろん、遮音性や断熱性にも優れているのですが、見た目は相変わらず「無色透明」。その無口さが、かえって心を打つのです。
そしてもうひとつ。ワイパーです。
ワイパーはなぜ1本にならなかったのか
雨が降れば、ゴムのヘラがアームに抱かれてキコキコとガラスを拭う。この所作もまた、昔から何も変わっていません。テクノロジーの最先端を走るクルマのフロントに鎮座しながら、その存在は限りなく原始的です。
たしかに撥水ガラスの登場や、レーダーを通す特殊なコーティングなどの進化はありました。ですが、結局は「ワイパー」という仕組みに勝るものは現れず、今もキコキコと揺れながら、ドライバーの視界を守り続けています。
じつはかつて、開発者たちはこのワイパーを「1本」にしようと、何度もチャレンジしてきました。
スバル「360」、日産「ガゼール」、いすゞ「ピアッツァ」、ホンダ「プレリュード」。これらのクルマは、それぞれの時代にワンアーム式ワイパーを採用し、一筋の風を吹き込もうとしたのです。
しかし結局、主流にはなれませんでした。
その理由はいくつかあります。ひとつは、2本式と同等の拭き取り面積を確保しようとすると、モーターの負荷が大きくなるという点。加えて、拭き始めの勢いで左右に水滴が飛び散るため、隣のクルマや歩行者に迷惑がかかる、という副作用もありました。
メルセデス・ベンツの「夢のワイパー」が消えた理由
メルセデス・ベンツは「パノラマワイパー」という先進的な仕組みを導入したこともありました。アームが複雑な動きでガラス全体をなめらかに掃く、という夢のようなアイデアです。しかし、樹脂製のリンク機構が耐久性に乏しく、やがて故障が多発。静かに市場から姿を消しました。
技術的な問題だけでなく、デザイン上の挑戦でもありました。プレリュードに1本アーム式を採用したホンダの思惑も、単なる先進性アピールではなかったようです。
当時の日本ではフェンダーミラーが法的に義務付けられていました。プレリュードの低く構えたボンネットに、ニョキっと突き出すフェンダーミラーがどうにも野暮ったかったのです。ホンダのデザイナーたちは、スタイリングの美学を守るため、苦肉の策としてワンアーム式を選択しました。1本であれば、より広い拭き取り面積が確保でき、ミラーの位置にも自由度が生まれる。技術と美意識のせめぎ合いの中で、生まれた解決策でした。
けれど、どれだけ理由があろうとも、今も主流は2本アーム式です。静かに、でも確かに左右で呼吸を合わせ、雨粒を払う。その姿はまるで、楽団の指揮に合わせて動くパートナーたちのようでもあり、なんとも微笑ましく、そして頼もしいのです。
不変の美しさが、そこにある
クルマが空を飛び、ステアリングが操縦桿に変わろうとも、ワイパーは変わりません。おそらく、これからもずっと。そこにあるのは、技術の限界ではなく、たぶん“ちょうどいい”という完成形なのです。
変わらないということは、時に進化よりも価値があります。
それでも、どこか誇らしげにガラスを拭うあのワイパーは、私たちが忘れかけた「不変の美」をそっと語りかけているのかもしれません。
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