ブリュッセル近郊のニヴェル・サーキット。このあまり有名でないサーキットは、1972年と74年にF1ベルギーGPの舞台となった。いずれのレースもエマーソン・フィッティパルディが勝利を収めている。
それほど有名ではないサーキットではあるが、同地で2回目のベルギーGPとなった1974年のレースは、F1の歴史において重要だがあまり知られていない役割を果たし、今のF1を形作る礎ともなった。
■リバティCEO、元F1会長バーニー・エクレストンの開催国への“搾取”を批判
ニヴェル・サーキットは、スパ・フランコルシャンの危険性が問題視されたことにより、代替開催の候補地として名が挙がった。GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエイション)は、特に雨天のスパにおける危険性について、長いこと危惧していた。
その結果1969年のベルギーGPはキャンセルされ、安全対策が施された後、1970年に復活。ただ1971年にジュネーブで開催された会議で再度議論がなされ、GPDAのチームの投票の結果、同年の開催も再びキャンセルとなった。
それまでのスパ・フランコルシャンは、現在のコースとは異なり、公道も使った1周14kmにもなる長いコースだった。これを使い続ける限り、安全性の問題が解決されることはないとされたのだ。そのため常設部分を含め、コースの全長を約半分にする計画が始動。ただそのプロジェクトには数年かかることが予想された。
1971年にグランプリを代替開催するサーキットは存在しなかった。同国内にはゾルダー・サーキットがあったが、大勢の観客を受け入れるための設備が整っておらず、F1を開催するには不適切だとみなされたのだ。しかしベルギー自動車クラブは、2年間同国内でグランプリを開催しなかった場合、開催を再申請する権利を自動的に失うことになっていた。そのためスパの改修が完了するのを待つのではなく、なんとしてでも1972年にグランプリを開催する必要があったのだ。
当時は、イギリスのオールトンパークやブランズハッチで、ベルギーGPを開催するという案も浮上していたが、より現実的な新しいサーキットがすでに建設中だったのだ。
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