ロータス・エリートを輸入した本田宗一郎氏
自動車の進化に大きな貢献を果たした技術者の1人、コーリン・チャップマン。ロンドン北部、ホーンジーの小さな納屋から始まり、チェスハントへ小さな工場を建設。ロータス・カーズとして独自性の高い自動車を生み出した。
【画像】ロータス・エリート・タイプ14同時期の初代エランと2代目エリートも 全55枚
ちょうど同じ頃、東アジアの日本にも、偉大なエンジニアが自らのアイデアをカタチにしようとしていた。1946年に現在の本田技研工業を創業した、本田宗一郎氏だ。
その頃の東京は、都市再建の真っ最中。大きなアメリカ車と、マツダK360やダイハツ・ミゼットといった、小さな三輪トラックで溢れていた。
バイクの製造でホンダが急成長していた1962年、宗一郎は自らのビジョンを描くきっかけの1台となる、小さなスポーツカーを輸入する。ポピー・レッドに塗られた、シャシー番号EB1837のロータス・エリート・タイプ14だ。
宗一郎は、MGAやジャガーMk2といった欧州車を何台か所有していた。そのなかでもガラス繊維、FRPで成形されたモノコック構造に、ホンダの若き技術者たちは強く感心を寄せたようだ。公道用モデルとしては、画期的な設計だったといえる。
日本の経済成長に向けて、ホンダもバイクから自動車の製造へ一歩を踏み出そうかというタイミング。オースチンA30をノックダウン生産した日産など、既存モデルを足掛かりとするメーカーもあったが、ホンダはゼロからの開発という手段を選んだ。
S600の車内に見えるエリートの影響
ライトウエイト・スポーツのロータス・エリートからも、着想を得たようだ。「エリートは世界初の、卵のようなクルマでした」。と話すのは本田博俊氏。宗一郎の長男で、ワークス部門の無限、現M-TEC社を立ち上げた人物だ。
「フレームも独立シャシーもなく、当時はUFOのような存在でした。父は、新しいものへ常に関心を寄せていましたね」。そう話す博俊も、自宅のガレージにこもりエリートを分解。FRPシェルの構造を理解しようとしたという。
ホンダ初のスポーツカー、S600にもその影響は及んだ。「父はコピー製品を嫌っていました。でもS600のダッシュボードや、スピードメーターとタコメーターのデザインは、エリートにとても似ているとわたしは思います」。と博俊が振り返る。
創業者の長男でありながら、その頃に父から与えられた自社製品はスクーターのスーパーカブだけだったという。父のMGAへは当初、真夜中に引き出しから鍵を取り、こっそり手押しで道まで運び、エンジン始動と同時に走り去るように乗っていたそうだ。
しばらくしてMGAに対する宗一郎の関心が薄れると、博俊は自由に乗ることが許された。ところが、デート目的で貸した友人に事故で壊されてしまう。「父は、わたしの外出を禁止しました。修理代金の支払いなどには触れられませんでしたが」
MGAと同様に、博俊はロータス・エリートも運転できるようになった。「父はコーリン・チャップマンを嫌っていて、エリートを借りていいかどうか、それまでは聞く機会もありませんでした」
鈴鹿サーキットでの横転事故
小さなエリートは魅力の塊だったという。時折のドライブが、素晴らしい楽しみになった。なかでも、東京から400kmほど離れたホンダのテストコース、鈴鹿サーキットへのクルマ旅は、当時としては大冒険だったに違いない。
高速道路はおろか、都市部から外れればアスファルト舗装の道すらなかった時代だ。後にF1が開催される国際サーキットで初めてクラッシュしたのが博俊だという、笑えない逸話も生まれた。
博俊が振り返る。「1962年の事件でした。一緒に向かったレーシングドライバーの生沢徹さんは、日本で最高のドライバー。プロですので、彼は何の問題もなく2・3周ほど運転しました」
「わたしが初めてサーキットに出ると、スプーン・コーナーでアクシデント。クルマが横転してしまったんです。燃料が漏れて、死ぬんじゃないかと思いました。慌てて窓を蹴って脱出し、助けが来るまでしばらくそこで待ちましたね」
「エリートはフェンダーのヘッドライト付近と、ルーフにひどいダメージを受けました。ルーフで10mから15mくらい滑りましたが、FRP製モノコックが非常に頑丈なことには驚きました。地面に引っ掻いた跡が残っていましたよ」
彼はエリートの修理を考えるが、新技術のFRPを手掛けてくれる場所は見つからなかった。「その頃、日本へ輸入されたロータス・エリートは2台だけ。誰も直せませんでした。なんとかして、東京に修理を請けてくれる小さなガレージを見つけましたが」
レストアのために2018年に渡英
その修理で、ロータスはジェット・ブラックに塗装された。だが、都心での運転は事故のリスクと隣り合わせにあったという。「50年以上前の東京は街灯も少なく、夜は真っ暗。低くて小さい黒いクルマは、危険だったんです」
「しかも、エリートは速い。夜道を沢山の人が歩いていて、事故を起こしそうな場面もありました。父と話をして、ボディを白く塗り直したんです」
白くなったボディを見届けた博俊は、日本を脱出し海外へ旅に出た。2年半後に戻ると、エリートはホンダの自動車大学校の所有物になっていた。クルマを学ぶ教材として、1980年まで学生の手で分解と組み立てが繰り返された。
人材育成の役目を終えたエリートはカーコレクター、馬場ナオキ氏が譲り受け、静岡と埼玉との移動に活躍。その後は分解しガレージで保管されていたが、2018年に本格的なレストアが施されることになる。
馬場が依頼したのが、英国南東部のケント州に拠点を構えるブシェル・ビークル・レストアレーションズ社。1960年代後半のスポーツカー、コスティン・ネイサン・プロトタイプのレストア事例が決め手になったようだ。
「バラバラの状態で届きました。40年ほど、その状態で保管されていたようです」。ボディシェルを担当した、同社を営むデリル・ブシェル氏が説明する。
「残念なことに、一部の部品は消失していました。クオーターガラスとフレームは、北米から調達しています」。モノコックは日本でも多少手が施されていたものの、理想的な状態へ復元するには、多大な努力が必要なことは明らかだったらしい。
この続きは後編にて。
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みんなのコメント
破断してしまったエリートの応急処置として、なんと滞在先の旅館の浴衣を
千切って、それに接着剤を染み込ませてフェンダーのウラから張り子細工の
ように何重かに貼り合わせて、本番のレースに臨んだという逸話もありますね。