エリック・プラットフォードの軌跡
ロールス・ロイスは創業120周年を迎えた2024年から、ブランドを語るうえで重要な人物やモデルにスポットライトを当てて紹介しています。今回紹介するのはロールス・ロイスに「世界最高のクルマ」としての地位を確立させたエリック・プラットフォードです。同社から非常に尊敬され、チーフ・テスターという正式な称号を初めて手にしたこの人物とは?
14年の開発期間を経てようやく登場したロールス・ロイス! ロングセラーにはならなくとも新旧を結ぶ技術的架け橋となった「シルバーセラフ」とは
エンジンテストからレースの舞台へ
エリック・プラットフォードは1883年2月25日、マンチェスターで4人兄弟のひとりとして生まれた。わずか1歳余りで父親を亡くしたが、充実した教育を受け、17歳で学校を卒業。ゼネラル・エレクトリック社で見習いとして働いた後、1900年にロイス・リミテッドへと移った。プラットフォードはこの新たな職場で生涯を過ごすことになる。
1903年、ヘンリー・ロイスが最初の自動車製造を開始すると、プラットフォードはエンジンのテストを任された。また、シャシーの路上テストのために弟子に運転技術を教える役割も担った。彼はこの仕事に情熱を注ぎ、初期モデルの開発に大きく貢献することになる。有能なテストドライバーとしての実績を積んだプラットフォードは、ロールス・ロイスのレース活動にも関わるようになった。彼の競技デビューは、1905年のマン島ツーリスト・トロフィー・レースで、チャールズ・ロールスの同乗メカニックを務めたときである。
同1905年6月には6気筒30psのマシンを用意し、スコットランド・モーター・トライアルでクロード・ジョンソンを勝利に導いた。翌年5月には2000マイル・トライアル、さらに1カ月後のスコットランド・リライアビリティ・トライアルでは、圧倒的なパフォーマンスを発揮する「シルバーゴースト」を準備した。
こうした勝利の直後、「CJ」の愛称で親しまれるクロード・ジョンソンは、自身の宣伝プロジェクトとして、プラットフォードとともにシルバーゴーストで1万5000マイルのノンストップ走行を記録した。この偉業によって、プラットフォードはロールス・ロイスにおける優れたテスター兼ドライバーとしての評価を確立した。そして1908年、新設されたチーフ・テスターの地位に正式に昇進。その後の4年間、彼は会社の実験部門の監督も務めることになった。
敗北を乗り越え、栄光へと導く
しかし、1912年のアルパイン・トライアルでロールス・ロイスはまれに見る敗北を喫し、クロード・ジョンソンにとっては許しがたい屈辱となった。この失敗を二度と繰り返さないため、プラットフォードはオーストリアへ派遣され、現地のコンディションを評価し、車両改良の提案を行った。
プラットフォードの助言に基づき、1913年のレースに投入された4台のシルバーゴーストには、新しい4速ギアボックスや改良された燃料・冷却システムが採用された。プラットフォードはそのうちの1台を自ら運転し、さらにイベント期間中、全車両の準備を監督。結果、ロールス・ロイスはヨーロッパで最も過酷なモータースポーツ・チャレンジにおいて、上位4位を独占する快挙を成し遂げた。
この成功は、プラットフォードがロールス・ロイスの2台のうち1台を駆り、第1回スペインGPに出場したわずか1週間後のことだった。レース終盤、プラットフォードは圧倒的なリードを築き、優勝は確実と思われた。しかし、モータースポーツにおける「チームオーダー」の初期の例として、彼はチームメイトであり、スペインのロールス・ロイス代理店に任命されたばかりのドン・カルロス・デ・サラマンカに先行させるよう指示を受けた。プラットフォードはこの指示に従い、結果としてドン・カルロスが母国のレースでチェッカーフラッグを受けた。このような活躍と彼のたゆまぬ忠誠心と無私の精神により、プラットフォードは会社全体から尊敬を集め、雇い主から金の懐中時計を贈られた。
プラットフォードが支えた大西洋横断初飛行
第一次世界大戦中、プラットフォードはロールス・ロイスのV12イーグル航空エンジンのテストを担当した。1919年、4つのチームが大西洋横断初飛行の準備を進めており、そのすべてが同社のエンジンを使用していた。ロイスはプラットフォードを出発地点に派遣し、ナビゲーターのアーサー・ウィッテン・ブラウン中尉を従えたジョン・アルコック大尉が操縦するヴィッカース・ヴィミーに2基のイーグルエンジンを取り付ける作業の監督を任せた。
そして、6月14日午後1時45分頃、アルコックとブラウンは離陸し、東へ向かった。悪天候に見舞われ、無線機、インターホン、暖房を失うなど、困難な旅を経て、彼らは翌日午前8時40分にアイルランドのゴールウェイ州に上陸した。彼らは英雄として讃えられ、ロールス・ロイスのエンジンはその後「世界最高」と称されるようになった。
機内には、プラットフォードからクロード・ジョンソンに宛てたエンジンの仕事に関する手紙があった。この手紙は、米国郵政公社が配達した最初の大西洋横断航空便となり、現在もサー・ヘンリー・ロイス・メモリアル財団のアーカイブに、フランク付きの封筒とともに保管されている。プラットフォードはその後何度も大西洋を渡り、マサチューセッツ州スプリングフィールドにある製造工場での試験工程を監督した。
プラットフォードの卓越した貢献と最後の瞬間
1920年代から1930年代にかけて、プラットフォードはダービーにあるロールス・ロイスの主要工場で、自動車と航空エンジンの両方の生産に関するテストと品質管理を担当した。社内で最も尊敬され、信頼されるメンバーのひとりとして、彼はしばしば、各国の王族を含む来賓を工場見学に案内した。
プラットフォードは1938年11月20日、航空省での会議を終えた直後に急死した。享年55歳だった。ロールス・ロイスの社内誌『The Spanner』に掲載された彼の追悼記事には、生来の人柄の良さと優れた技術力、そして共に働くすべての人々から得た忠誠心と尊敬の念に対する賛辞が記されている。プラットフォードは、その卓越したドライビングスキル、テストおよび開発の専門知識、そして時代を決定づけたレースでの功績を通じて、ロールス・ロイスの初期の成功に、上級管理職以外の誰よりも貢献した人物であった。
AMWノミカタ
ロールス・ロイスの歴史の中ではチャールズとヘンリーに注目が行きがちだが、彼らの仕事を支えたプラットフォードのような実直に仕事をこなす人物がいたからこそ今日の名声が得られたと言っても良いであろう。
ロイスとプラットフォードの関係は、信頼関係を超えて真の友情にまで及んだという。20歳年上のロイスは、プラットフォードが知らない父親の役割を果たし、プラットフォードはロイスの知らない息子の役割を果たした。プラットフォードがミニー・ホーキンスと結婚した際、ロイスは2人の新婚旅行に自家用車を提供したというエピソードが残っているくらいに信頼された従業員であったことが伺える。
ヘンリー・ロイスの名言「あらゆることにおいて完璧を目指せ。最高のものを選び、それをさらに良くせよ。もし存在しないなら、設計せよ」の最も矢面にたったのがプラットフォードであり、彼の果たした役割は大きい。
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