マトラ:ランチョ(1977年)
マトラは、他のモデルから多くの部品を流用してランチョを作った。バンのVF2をベースに、1308GTから最高出力80psの1.4Lエンジン、1100TIからブレーキ、1307から4速マニュアル・トランスミッションを移植した。どこでも走れそうな見た目だが、コストとパッケージングの理由から四輪駆動は設定されなかった。
【画像】「ミニの先祖」はやっぱり魅力的だった!【モーリス・マイナーを写真で見る】 全17枚
クロスオーバーの先駆者ではあったが、登場するのがおそらく20年は早かった。奇妙な運命のいたずらで、ランチョの後継車となるはずだった初代ルノー・エスパスは、欧州初のピープル・キャリア(ミニバン)へと姿を変えた。
では、マトラはどうなったのか?
自動車分野でのマトラはルノーの委託製造業者となったが、この関係は2003年に終了し、他の資産の一部はピニンファリーナに買収された。マトラの防衛・航空宇宙部門は現在、エアバスの一部となっている。
マーキュリー:クーガー(1967年)
マーキュリーは、プラットフォームを共有するフォード・マスタングとフォード・サンダーバードの間を埋めるためにクーガーを発売した。クーガーは、パフォーマンスと高級感を併せ持つ人気モデルとなった。後のモデルでは、初代のスピリットを取り戻そうと試みたが、稚拙な取り組みと、怠惰と呼ぶにふさわしいパフォーマンスのために、ほとんど失敗した。
では、マーキュリーはどうなったのか?
金融危機後の合理化を経て、フォードは2010年にブランドの終了を発表し、2011年1月に最後の量産車となるグランドマーキーが出荷された。
モーリス:マイナー(1948年)
モーリスブランドのクルマに関しては、マイナーに勝るものはない。性能は当時の基準から見ても控えめだったが、ハンドリングは印象的で、第二次世界大戦後の英国における交通の発展を支えた。その後、バン、エステート(ステーションワゴン)、コンバーチブルなどの派生モデルが生まれ、パワフルなエンジンも追加された。1971年まで140万台が生産された。
では、モーリスはどうなったのか?
モーリスは1952年にライバルのオースチンと合併し、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)を設立した。他のさまざまな企業も合流し、1968年にブリティッシュ・レイランドが誕生した。最後のモーリス車、イタル(写真)は1984年に生産終了。オックスフォードにある旧モーリス工場の一部は現在、BMWミニを生産している。モーリスの名称自体は、中国の上海汽車が所有している。
オールズモビル:4-4-2(1964年)
4-4-2は当初、オールズモビル・カトラスにおけるパフォーマンス志向のオプション・パッケージとして誕生し、1968年には本格的なモデルラインに昇格するほどの人気を博した。オールズモビルは米国のチューナー、ハーストと協業して、最高出力390psのエンジン、アップグレードされたブレーキ、専用サスペンションを備えた、さらに速いモデルも開発した。
数年間、4-4-2というナンバーはハイパフォーマンスの代名詞だったが、1972年のモデルチェンジで再びオプション・パッケージに格下げされた。
では、オールズモビルに何が起こったのか?
オールズモビルの存在感は徐々に薄まり、他メーカーはおろか、親会社GMの他ブランドにも埋もれていくようになり、2004年に消滅した。
ナッシュ:メトロポリタン(1953年)
ナッシュは、欧州車のテイストを取り入れた小型米国車としてメトロポリタンを構想した。ピニンファリーナにデザインを依頼し、オースチンにA40のエンジンと余剰生産能力を求めた。すべてが衝撃的にうまくまとまり、米国で最も小さくスタイリッシュなクルマの1つが誕生した。
販売は1954年モデルイヤーから開始された。セカンドカーとして購入されることも多かったメトロポリタンは、1961年に生産が終了するまで、いくつかの進化を遂げた(ハドソンやランブラーなど、複数の名で販売された)。
では、ナッシュはどうなったのか。
1954年、ナッシュとハドソンは当時米国史上最大の企業合併によりアメリカン・モータース・コーポレーション(AMC)となり、国内第4位の自動車メーカーとなった。ナッシュの名前は1957年に使用されなくなり、AMCも1987年にクライスラーに買収された。
NSU:Ro80(1967年)
1967年のフランクフルト・モーターショーで発表されたNSU Ro80は、1960年代に発表された最も革新的な市販車の1つである。異例のプロポーション、高度なエアロダイナミクス・デザイン、ツインローターのヴァンケル(ワンケル)エンジンを備えた大型の高級モデルとして登場した。
多くの人が未来のファミリーカーとして称賛したが、ロータリーエンジンの初期トラブルにより評判を落とした。評判はなかなか回復せず、オイルショックがRo80の運命を決定づけた。NSUはロータリーエンジンの信頼性を高めるための対策を講じたが、燃費を抑えることはできなかった。Ro80は1977年、直接の後継車種がないまま引退した。
では、NSUに何が起こったのか?
Ro80で発生した莫大な保証請求によってNSUは経営難に陥り、フォルクスワーゲンが同社を買収した。フォルクスワーゲンはNSUの製品よりも工場に関心があり、1969年にNSUとアウトウニオンを合併させ、NSUが開発していたK70をしぶしぶ吸収した。これが同社初の水冷フロントエンジン車となった。
NSUは1977年に最期のRo80を出荷したが、同社の遺産は今も静かに息づいている。アウディ50(1974年)はプリンツに代わるモデルとしてNSUが開発したもので、初代フォルクスワーゲン・ポロもそこから生まれた。
パナール:24 BT/CT(1964年)
パナールと聞いて、ミリタリーファンならフランスの軍用車両を真っ先に思い浮かべるかもしれない。その昔、一般的な自動車愛好家は、6人乗りの大型セダンや超軽量スポーツカーのメーカーとしてパナールを認知していた。24シリーズは、この2つのアイデンティティを融合させる試みであった。ショートホイールベースとロングホイールベースが用意され、乗用車でありながらパナール独自のスポーティさを反映していた。
24 BTは24 CTよりも全長が長く、後部座席が広くなっている。どちらのモデルにも空冷フラットツインエンジンが搭載され、優れたエアロダイナミクス設計のおかげで高速走行も比較的得意だった。
では、パナールはどうなったのか?
パナールの自動車部門は1967年にシトロエンに売却され、自動車メーカーとしてのブランドは消滅した。最終的にはスウェーデンのトラックメーカー、ボルボ・グループの傘下に入り、軍用車メーカーとしてその名は生き続けている。
ポンティアック:ファイヤーバード(1967年)
ゼネラルモーターズ(GM)は、シボレーのコルベットと直接競合することを恐れて、ポンティアックに2シーター・スポーツカーの生産を許可しなかった。その代わりにポンティアックは、当時の新型カマロと同じプラットフォームをベースにしたスポーツカーの発売許可を得た。
「スクリーミング・チキン(叫ぶ鶏)」という愛称で呼ばれるファイヤーバードは、2002年に廃止されるまで4世代にわたってカマロとともに走り続けた。
では、ポンティアックに何が起こったのか?
GMの中で次第に忘れ去られつつあったポンティアック。2008年から2009年にかけての世界金融危機で瀕死の状態に陥ったGMはブランドを整理することになり、ポンティアックは2010年に廃止された。
プリムス:ロードランナー(1968年)
マッスルカーは、パワフルで高価になるにつれて、段々と一般消費者の手の届かないものになっていった。ロードランナーは初心に帰り、ありふれたボディに非常にパワフルなエンジンを搭載するという、基本的な方程式に回帰したモデルであった。手頃な価格のマッスルカーが求められていた時期と重なり、発売初年度にはプリムスの予想をはるかに上回る成功を収めた。
では、プリムスはどうなったのか?
クライスラーのプリムスブランドは2001年に消滅し、モデルは生産中止となるか、クライスラーとしてリブランドされた。
ローバー:SD1(1976年)
SD1は、ローバーがホンダと提携して技術とコストを共有する前に、単独で真のフラッグシップモデルを作ろうとした最後の試みだった。前衛的なデザインとV8エンジン(オプション)により、ローバーの頂点に君臨し、BMWやメルセデス・ベンツの高級セダンと同じ土俵に立った。SD1の仕上がりは素晴らしいものだが、製造品質と信頼性の低さから、しばしば評価を落としてしまっている。
では、ローバーはどうなったのか?
オースチン・ローバー・グループの一員となり、SD1の後続車としてホンダ・レジェンドの兄弟車である800(写真)を開発した。その後、ローバーは1994年にBMWに売却された。2000年にランドローバーをフォードに売却した後、現在のMGローバーを経営コンソーシアムに端金で売却した。しかし、MGローバーは2005年に廃業。2006年、ローバーの名称は約1000万ポンドでBMWからフォードに売却され、フォードは2008年、ランドローバー、ジャガーとともに同ブランドをインドのタタ・モーターズに売却した。
サーブ:99(1968年)
99はサーブの歴史における新たな章の幕開けとなった。スウェーデンのサーブは、以前の92に影響されたデザインを捨て、曲線的なフロントガラスを特徴とする、より現代的な外観を採用した。また、トライアンフから供給された4気筒エンジンは、96のDKW由来の2ストロークエンジンを歴史の教科書に追いやった。
1978年のターボは、99の最も有名な進化形であり、それ以降の高性能車の道を切り開いた。
では、サーブはどうなったのか?
サーブは2000年にゼネラルモーターズに完全買収された。次いで2010年にスパイカーに売却されたが、2011年に生産を終了。その後、NEVSという中国企業がサーブの自動車資産を買い取ったが、復活が実現しないまま2023年にカナダ企業の手に渡り、現在に至る。サーブの名称は軍用機メーカーが現在も使用しているため、このあたりの権利事情は複雑だ。サーブの自動車と航空機は1990年まで同じ所有権下にあった。
サターン:SL(1990年)
サターンは1990年に初の市販車としてSLを発表し、これまでとは異なるタイプの自動車会社として活動する計画を示した。このモデルは、グリルのないフロントエンドのおかげもあって、ゼネラルモーターズ(GM)のポートフォリオの中では他の車種とは似ても似つかぬものであった。構造も独特で、ブランド固有のプラットフォームで作られ、テネシー州スプリングヒルにある新しい組立工場で生産された。
SLでさらに奇妙だったのはプラスチック製ボディパネルで、スチール製部品よりも軽量で耐久性があり、安価であるという理由で選ばれた。日本の自動車メーカーに対抗するためのユニークなアプローチで、当初は成功を収め、1993年9月には累計50万台を達成した。
では、サターンはどうなったのか?
問題は文字通り2日目から始まったと言っていい。 GMのロジャー・スミス最高経営責任者(CEO)はサターンを支持したが、ブランドを正式に立ち上げた翌日に引退した。その後の経営陣はサターンへの関心をあまり示さず、他ブランドの兄弟車となるなど次第にアイデンティティを失っていった。2010年初頭、他のいくつかのGMブランドとともに閉鎖された。
シムカ:1000ラリー(1970年)
アバルトはシムカ1000に魔法をかけたが、ルノーやNSUに代わってリア偏重のドライビングのスリルを求めるエンスージアストの心を捉えたのは、3種類のラリーバージョンだった。1000は、比較的裕福な層をターゲットにした高性能セダンの理想的なベースだった。ラリーの最初の2つのバージョンも高性能であったが、最高出力103psのラリー3は、ホモロゲーション目的でリリースされた本格的な公道レーシングカーであった。3モデルとも、今日でもヒルクライムイベントなどで広く使用されている。
では、シムカはどうなったのか?
シムカは1970年にクライスラーに買収され、1979年にはPSAプジョー・シトロエンに買収された。その後、タルボに置き換えられている。
スチュードベーカー:アバンティ(1962年)
シボレー・コルベットに対抗して開発されたアヴァンティは、デザイナーのレイモンド・ローウィ氏が設計したグラスファイバー製ボディを、スチュードベーカー・ラークのシャシーに載せたものだ。スチュードベーカーは約5800台のアバンティを生産したが、スチュードベーカーの廃業後は2006年まで5人の実業家が代わる代わるアバンティを生産した。
では、スチュードベーカーはどうなったのか?
デトロイトの大手企業との競争がますます困難になり、1963年にサウスベンドの主要工場の稼働を停止したが、カナダ工場での生産は1966年まで続けられた。その名は現在、自動車部品会社のフェデラル・モーグルが所有している。
サンビーム:タイガー(1964年)
1901年に設立されたサンビームは、1935年以降姿を消したが、1953年に復活してアルパインを投入した。1950年代の米国におけるオープントップ・スポーツカーブームに完璧にタイミングが合うものだった。
さらなる高出力化を模索していたサンビームは、キャロル・シェルビー氏の協力を得て、最高出力164psのフォード製4.3L V8エンジンを搭載したタイガーを開発。アルパインの2倍のパワーを持ちながら、車重はわずかに重くなっただけで、3年で7000台以上を販売する大ヒットとなった。
では、サンビームに何が起こったのか?
すでにルーツ・グループの一員であったルーツは、クライスラーに吸収され、さらにプジョーに買収された。サンビームの名前は1981年に消滅した。
タトラ:613(1974年)
ポルシェの911と同様、タトラ613は、リアエンジンというすでに廃れた構造を維持していた。先代の603と共通の構成だが、スタイリングは白紙の状態で生まれた。チェコスロバキアに本拠を置くタトラは、イタリアのヴィニャーレの協力を得て、より時代にマッチした新しいデザイン・アイデンティティを作り上げたのだ。
タトラ613は、ソビエト時代の東欧から生まれた最も格調高いクルマの1つとして記憶されている。KGBやワルシャワ条約機構に属する組織のお気に入りだったため、夜中に自宅の前に停まっているのを見たくはなかっただろう。
では、タトラはどうなったのか?
タトラという会社自体は1850年に設立され、はじめは馬車を生産していた。1999年に乗用車の生産を終了したが、小規模ながらトラックメーカーとして存続しており、プジョーに次いで欧州で2番目に古い自動車メーカーとなっている。
タルボ:サンバ・カブリオレ(1982年)
タルボ・サンバ・カブリオレは、欧州最廉価クラスのサンバをベースとするオープントップモデルであり、主に若いドライバーをターゲットとした。また、プラットフォームを共有するプジョー104やシトロエンLNAから距離を置くことで、タルボブランドに独自のイメージを与えようとした。
では、タルボはどうなったのか?
1979年にPSAがクライスラー・ヨーロッパを買収した際、クライスラーとシムカのモデルにタルボのバッジを使用した。タルボの名は1987年まで乗用車に、1994年まで商用車に使用された。
トライアンフ:スタッグ(1970年)
トライアンフの代表作として、1950年代と1960年代に活躍した美しいTRを選ぶ人もいるだろうが、AUTOCARはメルセデス・ベンツSLに対する英国のV8スポーツカーの回答として、スタッグがもっと評価されるべきだと考えている。信頼性の問題には悩まされたものの、ムードたっぷりのハンサムなクルマで、壊れていないときのドライブは最高だった。
では、トライアンフはどうなったのか?
トライアンフはブリティッシュ・レイランド傘下で経営が悪化し、変わり種のTR7が最後の自社開発車となった。その後、1981年にホンダ・バラードをベースにしたトライアンフ・アクレイム(写真)が発売され、1984年にトライアンフの名前は消滅した。
興味深いことに、トライアンフ・カーズの名前は現在BMWに属している。これはローバー社所有の名残で、BMWがローバーを売却した際にも取り置かれたのだ。トライアンフとBMWは1970年代、欧州の小型スポーツセダン市場で真っ向勝負を繰り広げていた。
ベスパ:400(1957年)
スクーターで世界的に知られるイタリアンブランドであるベスパは、欧州市場最小クラスの乗用車である400を発表し、四輪業界に足を踏み入れた。ライバルは、ほぼ同時期に登場したゴッゴモビルやフィアット500だった。ベスパ400(排気量393ccのエンジンにちなんで命名)はフランスで生産されたが、ベスパはそれ以降、四輪車を生産することはなかった。
では、ベスパはどうなったのか?
一言で言えば、何も起こっていない。ベスパは引き続きスクーターを生産している。親会社であるピアッジオは、アプリリアやモト・グッツィを含むさまざまな二輪車ブランドを展開しており、2023年には43万6000台の二輪車を販売した。
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
愛車管理はマイカーページで!
登録してお得なクーポンを獲得しよう
給油所で「レギュラー“なみなみ”で!」って言ったら店員にバカにされました。私が悪いんですか?怒りの投稿に回答殺到!?「なにそれ」「普通は通じない」の声も…悪いのは結局誰なのか
運営ブチギレ!? 一般車が「検問突破」何があった? 国際イベントでありえない"蛮行"発生! ラリージャパン3日目の出来事とは
ホンダ新型「プレリュード」まもなく登場? 22年ぶり復活で噂の「MT」搭載は? 「2ドアクーペ」に反響多数!海外では“テストカー”目撃も!? 予想価格はいくら?
レクサス新型「小型スポーツカー」がスゴい! “テンロクターボ”×初の6速MTを搭載! 最小SUV「LBX MORIZO RR」どんなモデル?
「タイヤの摩耗が早い」「買い取り価格は期待できない」EVにまつわる巷のウワサ6つの真実
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
店舗に行かずにお家でカンタン新車見積り。まずはネットで地域や希望車種を入力!
みんなのコメント