活動停止したメーカー、ブランドを振り返る
クルマ作りは難しい。利益を生むクルマ作りはもっと難しい。その証拠に、廃業した英国の自動車メーカーをここに紹介しよう。
【画像】四輪メーカーとして名を馳せたトライアンフの名車【トライアンフTR6を写真で見る】 全17枚
自動車の黎明期に自転車メーカーから転身した会社も多い。しかし、生易しい挑戦ではなかった。20世紀初頭のクルマ作りは、20世紀末のインターネットビジネスに似ている。挑戦者は多かったが、生き残ったのは適応力のある一部の会社だけだった。
今回は、生き残ることはできなかったものの、優れた製品やアイデアを世に送り出した英国の興味深い企業を紹介しよう。四輪事業から撤退したが、二輪メーカーとして名を残しているトライアンフのような会社も取り上げる。
アラード(Allard)
シドニー・アラード氏が設立したアラードは、1946年から1957年の間に約2000台のクルマを生産した。その多くは米国製V8エンジンを積んだスポーツカーであるが、セダンも数多く生産している。
しかし、さまざまなモデルを揃えていたにもかかわらず、自動車業界の方向性を読み誤ってしまった。同社最後のモデルである2人乗りの「パームビーチ」は、技術面や走行性能において競合他社より1年遅れていたと言われている。アラードは1957年に倒産した。
写真:アラードM1(1948年)
アルヴィス(Alvis)
全盛期には高品質のスポーツカーを生産していたアルヴィス。平凡なセダンも輩出したが、クーペやロードスターのTCからTFシリーズは見事な幕引きとなった。
1965年にローバーに買収され、2年後に自動車生産を終了したアルヴィスは、軍用車両メーカーに転身。2004年には英国の軍需企業BAEシステムズに買収された。
オースチン(Austin)
オースチンは83にわたる歴史のほとんどの期間、信頼性は高いが、退屈なファミリーカーも多く生産していた。しかし、2つの画期的なデザインも生み出している。1922年のオースチン・セブンは、多くの英国人が手にすることになった低価格車であり、1959年のオースチン・ミニは小型車のデザインに革命をもたらした。
ミニは、1100と1800という大型のモデルも販売されており、いずれもアレック・イシゴニス氏の優れた作品である。いずれも大ヒット商品となったが、1973年に発売された1100の後継車がオースチンの運命を決定づけた。欧州向けに設計されたはずのアレグロは、欧州で受け入れられず、英国でもそれほど売れなかった。
この時点で、オースチンはブリティッシュ・レイランド(BL)の量産車部門に組み込まれており、同社はなんとしても同部門を復活させようと必死だった。1980年に大成功を収めたメトロによって、その復活はほぼ実現したかに見えたが、後継車であるマエストロとモンテゴの不格好なデザインによって、せっかくの好印象は台無しになってしまった。オースチンという名称は1988年に廃止された。
写真:1930年代のオースチン・セブン
オースチン・ヒーレー
ドナルド・ヒーレー氏とオースチンの共同事業により、美しいオースチン・ヒーリー100とスプライトがBMCによって生産・販売された。しかし、スプライトはMGミジェットとなり、大型のヒーレーは最終的に米国の法律によって生産が禁止され、ブランド名は1971年に無駄に廃止された。
BMWは1990年代後半にZ3をベースに復活を検討したが、ローバーから手を引いたことで霧散した。
写真:オースチン・ヒーレー3000
ビーン・カーズ(Bean Cars)
ビーンという社名は、創業者ジョージ・ビーン氏に由来する。ビーンはバーミンガム近郊のダドリーに拠点を置き、第一次世界大戦中は英国軍向けに砲弾を製造していたが、平和が訪れると注文が途絶え、当時活況を呈していた乗用車および商用車市場への参入を決意した。1913年に開発されたペリー車の生産権を購入し、一時期はモーリスやオースチンに匹敵するほどのベストセラーとなった。生産台数は驚異の1万台。
その間、創業者の息子のジョン(ジャックという愛称で呼ばれていた)は、複雑な工業会社を設立したが、1920年に倒産した。1921年に父親が会社を再建し、しばらくは順調に業績を伸ばした。特にトラックの生産を開始してからは好調だった。しかし、再び問題に直面し、出資者であった鉄鋼メーカーのハドフィールド社に救済されることとなった。
しかし、製品の信頼性が低かったことから評判を落とし、1929年に乗用車、1931年に商用車の生産を終了した。1933年に再び復活を遂げ、自動車部品やエンジンを作るようになった。1956年にスタンダード・トライアンフが買収し、1960年にはレイランド・モーターズの傘下となった。
ブリストル・カーズ(Bristol Cars)
同社は1945年にブリストル飛行機社によって設立された。同社は戦時中、「ボーファイター」などの有名な航空機を輩出し、繁栄を享受していたが、終戦とともに受注が激減したため、自動車会社を設立した。数十年にわたり、ブリストルは高価で奇抜な高級車を生産し、少数の富裕層の顧客を魅了した。
同社最後のモデルは、ダッジ・バイパーの8.0L V10エンジンを流用したスーパーカー、ファイター(写真)である。最高出力532ps、最大トルク72.5kg-mを発生し、最高速度は約338km/hを誇る。 ファイターは12台ほど生産されたが、2011年に同社は操業を停止した。2015年には、新型ロードスターのバレットとともに復活したが、2020年に再び頓挫した。
デイムラー(Daimler)
かつては王侯貴族に自動車を納めていたデイムラーは、ドイツのダイムラー(「Daimler」の綴りは同じだが、日本では英語読みとドイツ語読みで区別している)から派生し、すぐに独自のラインナップを構築した。戦後の経営不振により衰退し、ジャガーに買収されたことで、同社のモデルは最終的にバッジエンジニアリング車となった。2010年に消滅した。
ジャガーは多くの市場でデイムラーの名称を使用する権利を保持しているが、復活の可能性はますます低くなっているようだ。
写真:デイムラーDS240
ドーソン・カー・カンパニー(Dawson Car Company)
ドーソンは、ヒルマンで働いていたAJ・ドーソン氏によって1918年に設立された。コヴェントリーに拠点を置き、11-12hpという1つのモデルのみを生産していたが、その性能の割には価格が高すぎた。モーリスやオースチンといった競合他社には規模で太刀打ちできず、わずか65台を出荷しただけで1921年に閉鎖された。その後、同社の資産はトライアンフが取得している。
ギルバーン(Gilbern)
事実上、ウェールズ地方唯一の自動車メーカーであり、キットカーメーカーであったギルバーン。1959年に精肉店の裏でGTの販売を開始したが、高額な価格設定、税金、そして度重なるオーナー変更により、ジェニーの発売後に閉鎖に追い込まれた。1973年に倒産した。
ヒルマン(Hillman)
大衆向けファミリーカーのメーカーとして成功を収めていたヒルマンは、1963年にリアエンジン車のインプを発売し、他社と一線を画した。しかし、政府の干渉により、グラスゴー近郊のリンウッドに新工場を建設して生産することになった。この新工場での生産開始に伴う混乱、信頼性の問題、ストライキにより、インプの販売は低迷。ヒルマンを所有するルーツ・グループは経営難に陥った。
クライスラーが1967年にルーツを買収し、ヒルマンブランドは1976年に消滅した。
写真:ヒルマン・インプ
ジェンセン(Jensen)
ジェンセン初のモデルは1935年に登場した。米国製エンジンを搭載した美しいGTが特徴で、1966年のインターセプターとFFで頂点を極めた。FFは、アウディに先駆けて常時四輪駆動システムとアンチロック・ブレーキ・システムを組み合わせた技術的傑作である。
1976年に経営難に陥り、2001年に復活してS-V8と呼ばれる新型車を発表した。しかし、わずか40台ほどを生産しただけで再び閉鎖された。
写真:ジェンセンFF
ジョウェット(Jowett)
ジョウェットは1913年にフラットツインエンジン搭載車でデビューしたが、最もよく知られているのは先進的なセダンのジャベリンだ。ジョウェットは1954年に閉鎖された。
写真:ジョウェット・ジャベリン
ランチェスター・モーター・カンパニー(Lanchester Motor Company)
ランチェスターは、現在ではほぼ完全に忘れ去られた英国の高級車メーカーである。1901年にバーミンガムで創業したが、第一次世界大戦中は装甲車を生産していた。同社のモデルの1つ、ランチェスター・フォーティ(写真)は、ロールス・ロイス・シルバーゴーストよりも高価であった。
決して大きな会社ではなかったため、1930年の世界大恐慌の始まりとともに高級車の需要が崩壊すると、生き残りに苦労することとなった。バーミンガム・スモール・アームズ(BSA)に買収され、BSAのデイムラーと合併した。現在、ランチェスターの商標はインドのタタ・モーターズが所有している。
マルコス(Marcos)
マルコスは1959年に、奇妙な木製パーツを一部使用したクーペを発表した。1964年の1800はハンサムなクルマだった。1971年に消滅したが、1981年に復活。しかし、2007年に完全に消滅した。
写真:マルコス1800
モーリス(Morris)
モーリスは1913年にブルノーズを発売して大成功を収め、第一次世界大戦後の値下げ戦略により、英国の乗用車市場の51%を獲得した。1930年代初頭に一時的な低迷期を経験した後、実業家レナード・ロード氏が企画したモーリス・エイトで盛り返した。その後、1948年に英国初のミリオンセラーとなったモーリス・マイナーが発売された。
ロード氏はモーリスの創業者ウィリアム・モーリス氏と対立し、その後、宿敵オースチンの社長として再び現れ、1952年には2社が合併してブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が設立された。これが最終的にブリティッシュ・レイランドとなり、その未成熟のマリーナがモーリス最後の主力モデルとなった。モーリスは1983年にその歴史に幕を閉じた。現在は中国の上海汽車が所有している。
写真:モーリス・マイナー
パンサー・ウェストウィンズ(Panther Westwinds)
小さな会社ではあったが、ボブ・ジャンケル氏のパンサー・ウェストウィンズは1972年のJ72をはじめ、大きなインパクトを残した。ド・ヴィル(またはデ・ビル)はブガッティ・ロワイヤルからインスピレーションを得ており、六輪のシックスも大きな注目を集めた。野心的なソロもまた同様である。 しかし、実際に売れたのは1982年から1990年にかけて生産されたリマおよびカリスタのスポーツカーであった。同社は1990年に閉鎖された。
写真:パンサー・シックス
リライアント(Reliant)
両極端なクルマを作ったメーカーである。一方では三輪の穏やかでないクルマを生産し、他方ではハンサムで先駆的なスポーツワゴン、シミターGTE(写真)を生産した。
後期のシミターSS1は、醜いながらも驚くほど高性能なスポーツカーであった。リライアントの最後の1台は2002年に出荷された。
ライリー(Riley)
1920年代から1930年代にかけて、スポーツカーメーカーとして賞賛されていたライリーだが、1938年にモーリスに買収されて以来、その個性を失った。1960年代半ばには、すべてのモデルがオースチンのバッジエンジニアリング車となっていた。
1969年にブリティッシュ・レイランドの手により消滅したが、1990年代後半にBMWによって復活の一歩手前までこぎつけた。興味深いことに、BMWは現在もライリーという名称の権利を所有している。
ローバー(Rover)
ローバーは1904年に自転車から自動車へと転向し、1920年代までは好調を維持した。その後、一時的に低迷したが、ウィルクス兄弟によって再活性化され、高品質なクルマで高い評価を得た。第二次大戦後もP4、P5、P6と次々に新型を投じている。
1966年にレイランドに買収され、1968年のブリティッシュ・レイランドの鍋に放り込まれ、徐々に衰退し、低価格路線へとシフトした。1994年から2000年まではBMWの所有となり、2005年にはMGローバーとして悲惨な最期を遂げた。
その衰退の過程で特筆すべきは、1976年の素晴らしいが品質の悪いSD1、1989年のホンダベースの200シリーズ、そして同社史上最高のクルマである75など。しかし、その名はランドローバーとして、また中国では「Roewe」として現在も生き続けている。また、JLRのオーナーであるタタ・モーターズは、ローバーのブランド名を所有している。
写真:ローバー3500
シンガー(Singer)
シンガーは1905年に自転車から自動車へと転身し、戦前のル・マン・スポーツカーが同社の最高傑作となった。 1947年のSM1500セダンは鈍重で醜く、やがてルーツ社に身売りし、1970年までバッジエンジニアリングしながら生き延びた。
写真:シンガー・ナイン・ル・マン1935
スタンダード(Standard)
スタンダードは1906年から安価で目立たないクルマを作っており、よく知られるのは戦後の奇妙なアメリカンスタイルのヴァンガード(写真)だ。1945年にトライアンフを買収し、1963年にレイランドに買収された後、スタンダードの名称は消滅した。
写真:スタンダード・ヴァンガード
サンビーム(Sunbeam)
サンビームは1923年にグランプリで優勝した最初の英国車である。1935年にルーツが買収したサンビーム・タルボット・ダラックの集合体の一部となり、その後1953年まで休眠状態が続いた。
サンビームはルーツの軽量スポーツブランドとなり、美しいアルパインは傑作だ。1981年に悲惨なクライスラー・サンビームで最後を迎えた。
写真:サンビーム・アルパイン
スイフト・モーター・カンパニー(Swift Motor Company)
この会社は1901年にコヴェントリー・ミシン・カンパニーから発展し、非常にゆっくりとしたペースで成長した。第一次世界大戦後にようやく本格的に動き出したが、他の多くの企業と同様に、オースチン、モーリス、フォードが享受していた規模の経済性に対抗するのは困難であった。同社の最後のモデルは1930年のカデットである。
写真:1926年型スイフト
タルボット(Talbot)
タルボットは20世紀初頭の英仏合弁企業で、さまざまな企業と提携し、所有されることとなった。1960年に一度休眠状態となったが、1978年にプジョーにより復活し、かつてのクライスラーUKやシムカの幅広いモデルが作られた。タルボットの名称が最後に使用されたのは、1992年のバンであった。
写真:タルボット・サンバ
トライアンフ(Triumph)
1950年代と1960年代には、非常に美しいスポーツカーやセダンを数多く発表し、一定の成功を収めたトライアンフであったが、その後のオーナーであるブリティッシュ・レイランドの手で経営が悪化。最後の社内開発車であるTR7を最後に、その歴史に幕を下ろした。
その後、1981年にホンダをベースにしたトライアンフ・アクレイムが登場したが、これはトライアンフファンの反感を買うものであった。その代償として、頻繁に故障するという問題を抱えていない最初で最後のトライアンフとなったのである。トライアンフ・カーズの商標は、現在もBMWが所有している。
写真:トライアンフTR6
TVR
1947年に設立されたTVRは、不安定な経営状態を考慮すると、驚くほど長く存続している。1981年から2004年まではピーター・ウィーラー氏の指揮下で輝かしい創造性を発揮したが、その後、ニコライ・スモレンスキー氏が新オーナーに就任すると急速に衰退し、2007年には生産活動が停止した。
TVRは現在、実業家のレス・エドガー氏によって復活している。その最初の成果が2017年に発表された新型グリフィスだが、市販車の登場には長い時間がかかっている。
写真:TVRサガリス
ウーズレー(Wolseley)
ウーズレーは英国で最も古い自動車メーカーの1つであった。1927年にモーリスに吸収され、モーリス車の高級版となった。1975年にブリティッシュ・レイランドによって消滅したが、1920年代に建てられた壮大なピカデリー・ショールームは、現在ではロンドンのファッショナブルなレストラン「ウーズレー」として残っている。
写真:1948~1954年に生産されたウーズレー6/80
(翻訳者あとがき:英国の自動車史を辿ると、しばしばメーカーの「製造品質」と「信頼性」の問題が指摘されています。英国人も昔の英国車の作りの甘さを認識している様子ですが、そんな駄目なところも含めて、彼らは自分たちの作ったクルマが大好きなようです。100年近く前のクラシックカーが驚くほど良い状態で現存しているのも、そうした愛ゆえなのでしょう。AUTOCARもマニアックな旧車のレビューを数多く出しており、今回紹介したいくつかのメーカーのモデルも、愛情たっぷりの皮肉とともに取り上げられています。気になるメーカーがあれば、ぜひレビューを探してみてください)
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みんなのコメント
しかも外車だからスピードリミッターもついてなかったし、凄く楽しかったな。