ヤマハ発動機が最初に組んだ相手は日産だった
TOYOTA 2000GTのバルクヘッドに取り付けられたヤマハ発動機のメーカーズプレート。これを見ると、トヨタが当時からヤマハを下請けではなく大切なパートナーとして認識していたことがわかる。「YAMAHA」は、世界的な楽器とオートバイのブランドとして知られるが、その源となる日本楽器製造(現・ヤマハ)は日本で初めてオルガンを製造した楽器メーカーだった。日本楽器製造は、その優れた木工技術が認められ、大正10年(1921年)から日本陸軍の依頼を受け、航空機用木製プロペラの製造を開始した。
トヨタ2000GTの「X型バックボーンフレーム構造」採用は必然だった【TOYOTA 2000GT物語Vol.11】
その木製プロペラから金属製プロペラ製造に移行し、戦後に金属プロペラを製造していた工作機械を使ってオートバイのエンジンを試作した。それが現在のヤマハ発動機の始まりとなった。
ヤマハ発動機は、日本楽器製造から分離独立する形で、オートバイの製造・販売会社として昭和30年(1955年)に設立された。会社設立直後に「YA-1」が第3回富士登山レースの125ccクラスで優勝。これが評判を呼び、「YA-1」は市販車としてもヒット商品となった。
オートバイの製造で力をつけたヤマハ発動機は、ホンダやスズキのように四輪車の開発を考えるようになる。そのために、新しい商品を開発するヤマハ技術研究所を1959年に設立。乗用車用エンジンとして日本で初めてアルミ製シリンダーブロックとシリンダーヘッドを持った直列4気筒DOHCエンジンを試作する。
それを搭載したFRPボディの2座席スポーツカーの試作車「YX30」が1960年末に完成。開発テストが続けられるも、トップの判断もあり「YAMAHA」ブランドの乗用車が発売されるまでには至らなかった。
そこで、ヤマハ発動機は日産自動車と手を組むことになる。「フェアレディ1500」(SP310型)のハシゴ型シャシーに2座席クーペのボディを架装した「ダットサン・クーペ1500」、のちの初代「シルビア」となるショーモデルの製作をヤマハ発動機が担当することになったのだ。オートバイの車体とエンジンの製造で経験を積んできたヤマハ発動機だったが、自動車の製造は初めて。
そこで、ボディ製造の技術を伝えるために日産自動車から板金のエキスパートが送り込まれた。しかし、ショーモデルが完成したところで、ヤマハ発動機と日産自動車の関係が複雑になる。日産自動車は、「シルビア」の試作と量産を途中から系列の車体メーカーに委託したのだ。
「ダットサン・クーペ1500」試作の完成後、ヤマハ発動機では「A550X」というモノコックボディの2座席クーペを試作している。2000ccエンジンとリトラクタブルヘッドライトという組み合わせは後の「TOYOTA 2000GT」と同じだが、ボディのデザインの方向性はまったく異なったものだった。
「A550X」は日産自動車に対するプレゼンテーションという意味合いの強い試作車だったが、その後、ヤマハ発動機と日産自動車の提携は解消され、幻の「日産2000GT」となってしまった。
日産自動車と縁が切れたヤマハ発動機の初代社長・川上源一は、新たな事業展開を模索し、1964年の年末にトヨタを訪れた。
60年代の美しい国産クーペとして称賛される初代シルビアのプロトタイプ「ダットサン・クーペ1500」は、1964年の第11回東京モーターショーに展示された。開発チームは浜松のヤマハ発動機に駐在
その頃、河野二郎が率いるTOYOTA 2000GTの開発チームは、11月に基本計画を策定し、12月の初めには1/5スケールの全体図を描き上げていた。初期の線図には、X型バックボーンフレームとリトラクタブルヘッドライトがすでに描かれていた。
しかし、サイドウインドウには三角窓があり、リアはハッチバックではなく小さなトランクリッドあることが、実際のTOYOTA 2000GTと異なる点だ。また、エンジン本体はまったく描かれていないが、3連装のSUキャブレターらしきものが見えることから、直列6気筒エンジンを搭載することがすでに決まっていたようだ。
次の段階は、生産設計と試作車の製造である。しかし、トヨタ社内は新型クラウンやコロナの開発で手一杯で、スポーツカーの試作をしている場合ではない。開発チームはTOYOTA 2000GTの試作に頭を悩ませていた。
そんなところに、ヤマハ発動機の川上社長がトヨタに現れたのである。しかも、スポーツカーの試作車をヤマハ発動機でも作ったという土産話とともに。当時の豊田章一郎常務をはじめとするトヨタ首脳陣に、ヤマハ発動機が試作車を見せたところ、非常に驚いたという。そこでトヨタとヤマハ発動機の提携話が一気に進んだ。
TOYOTA 2000GT開発チームにとって、トヨタとヤマハ発動機の提携はまったくの想定外の出来事であった。全体計画図が終了したときに、突如として提携話が持ち上がり、生産設計からヤマハ発動機に委託することになった。偶然なのか、必然なのか。少数精鋭だったTOYOTA 2000GT開発チームに思いがけない強力な助っ人が現れたのだ。
年が明けた1965年1月。提携がまとまり、トヨタから河野二郎、高木英匡、山崎進一、野崎喩の4人が浜松のヤマハ発動機に駐在することになった。トヨタ側がレイアウトなどの全体設計とボディデザイン、ヤマハ発動機側が細部の設計とエンジンという分担になった。
この時、すでに同年10月の東京モーターショーにTOYOTA 2000GTのプロトタイプを出品することが決まっていたという。トヨタとヤマハ発動機の精鋭が結集した開発チームに与えられた時間はわずか。しかし、彼らは日本の自動車産業史に残る驚異的なスピードで開発ストーリーを作り始めた。
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みんなのコメント
そこ行くとトヨタはクラウンがUSで失敗してたり当時はロクでもない車しかなかった
ヤマハが乗用車を作りたい以上にトヨタはスポーツカーを作りたかったんだな
そこに日産と離れたヤマハが話を持って来てトヨタにとって棚ぼただw