わずか10年で消えたファセルの歴史
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。今回はクルマ好きでも、知っている人が少ない自動車ブランド、ファセル・ヴェガについて、同社の「ファセリア」の希少なクーペを所有しているという氏に振り返ってもらいます。
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高級車を作り始めたファセル社
皆さんはファセル・ヴェガという自動車ブランドをご存じだろうか。正式な会社名としてはFacel S.A.といい、ブランド名がVega(ヴェガ)である。創業は1939年。そして自動車の生産に乗り出したのは1954年だ。会社が終焉を迎えるのが1964年のことだからわずか10年が自動車の生産期間ということになる。
そもそも成り立ちは、ジャン・ダニノという野心的なエンジニアにして実業家が創業した会社である。はじめのうちは他メーカーのボディデザインや製作を請け負っていた。やがて、戦禍をくぐり抜けた会社は本格的に自動車の生産を目指した。しかも開発したのはいわゆる高級車であった。
なぜそこを狙ったのかというと、戦禍で疲弊したフランスは高級車市場が実質的に消滅し、ブガッティやドライエといった戦前の高級車メーカーはほとんど生産を止めていたために、フランス社交界は高級車の登場をある意味では望んでいたのかもしれない。
2年間で46台しか生産されなかったFV
最初に誕生した「FV」というモデルは、オリジナルデザインの洒落たボディにクライスラー製のV8エンジンを搭載していた。とはいえそのクルマがファセル社に成功をもたらしたかというと、じつはそうでもなく、1955年までの2年間でわずか46台しか生産されていなかった。その劣勢を跳ね返してファセルを一躍有名にしたのが、「HK500」と呼ばれたモデルである。
HK500は基本的にFVシリーズのブラッシュアップバーションとして1958年に誕生した。1960年10月26日には、ベルギーロイヤルオートモビルクラブによって、HK500の速度記録237.154km/hが公認された。その時のドライバーは、日本でも馴染みのあるレーシングドライバーにしてジャーナリストだった、ポール・フレール氏である。ファセルが隆盛を誇ったのは、じつは1960年までのことであった。
当時のアストンマーティンに匹敵するパフォーマンスだったファセルII
1961年には後継車「ファセルII」が誕生するが、時すでに遅し。ファセルIIの生産はおよそ180台で、1964年にはファセルは終焉を迎えるのである。とはいえ最後のフルサイズ・ファセルともいえるファセルIIの性能は大幅に引き上げられており、ダンロップ製の4輪ディスクを装備し、ステアリングはパワーアシストを持つ。さらにイギリス向けのモデルはリアにアームストロング製の4ウェイアジャスタブルダンパーが装備されていた。
このダンパーは電子制御でインパネからショックの硬さを調節できたというから、随分と進歩的であった。イギリスの『オートカー』誌のテストによれば、トップスピードは214.1km/h。メーカーの言う247km/hには届かなかったが、当時のジャガー「XK150」やアストンマーティン「DB4」に匹敵するパフォーマンスを備えたモデルだったという。一度このクルマに同乗走行する機会に恵まれたが、その圧倒的な加速感は当時のモデルとしては驚異的と感じられた。
ではなぜファセルが1960年当時下降線をたどり始めたのか。それはダニノの野望を打ち砕く大きなミスがあったからである。それが、小型スポーツカー「ファセリア」の開発であった。
1957年、ジャン・ダニノはアルファ ロメオやMGといったスポーツカーに対抗するモデルの開発を決断した。大型車で培った技術を使い、流麗なボディと高性能なエンジンを組み合わせた。そのエンジンというのが、自社開発をした1.6L DOHC 4気筒である。しかしそれがいけなかった……。
購入したユーザーは悲惨な目にあっていた
1958年8月にはファセリアのプロトタイプが完成し、公道上のテストに持ち出された。そして1959年9月28日、ファセリアはプレス発表され、その後パリ・サロンでワールドプレミアを果たすことになる。 数週間のうちに1000台を超えるオーダーがあり、ファセリアの滑り出しは絶好調だった。
シリアルナンバーA101、タイプFAと呼ばれた2台目のプロトタイプが1960年3月15日に完成。市販バージョンもその年の6月にはラインオフする予定だった。市販版はツインキャブからシングルのソレックスに変えられていた。1960年のジュネーブショーでは、ダニノによって、2+2クーペと、4シータークーペが追加されることが発表される。しかし、1960年の秋までにリリースされたモデルはすべてカブリオレであった。
プロトタイプ完成直後の1960年3月17日にはダニノ自身のドライブで、再び1600cc GTクラスの速度記録を達成する。スピードは193.340km/hであった。さらに1961年のモンテカルロラリーでは、Maurice Gatsonidès/van Noordwijk組の2+2クーペが、見事にクラスウィンを達成した。ところがである。こうした輝かしい事実の裏で、購入したユーザーは悲惨な目にあっていた。それはオーバーヒートによるピストン破損というトラブルだった。
ファセル社はすぐさまそのトラブルに対処して修理を受け付けた。しかし、信用の失墜は大きく、ファセルは一気に経営危機を迎えてしまう。そして、このDOHCエンジンを諦めて、ボルボ製を搭載した「ファセルIII」を投入するも焼け石に水。こうしてわずか10年でファセルの歴史は閉じてしまうのである。
ファセルのオーナーには有名人が多かった
ファセルのオーナーには有名人が多い。レーシングドライバーのスターリング・モスは同社のアンバサダーとして、ファセリアのプレスローンチに出席しているほか、自身もHK500のオーナーだった。このほか、俳優のトニー・カーチスや映画『ファントマ』でおなじみのジャン・マレー、コメディアンのダニー・ケイ、さらにはビートルズのリンゴ・スターもオーナーとして名を連ねていた。1955年のル・マン24時間の大事故のきっかけとなってしまったオースティンのドライバー、ランス・マクリンは、事故後にファセルのエクスポート・ディビジョンで働いていた。
じつは我が家にこの信用失墜の元になったファセリアがある。手元に来た時点でエンジンはすでに1気筒が死んでいた。美しい4シータークーペのボディは、わずか46台しか作られなかった貴重なもの。デビュー当初に輸入元だった山田輪盛館が輸入した1台である。驚くことに美しいウッド(に見える)のインパネは、じつはフェイクで、しかもハンドペイントされたものだという。つまり鉄板に絵を描いたものだ。
エンジンはイギリスに送られて完全復活したはずだった。しかし、日本に帰って預けておいたショップが倒産し、エンジンはどこへやら。以来30数年、我が家のファセルはエンジンレスで眠ったままである。
余談ながらファセルが作ったクルマの総数は3033台であった。
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