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ニューモデル 2018.8.26

発表前に開発中止になった21台のクルマ 前編

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1950年代の“小ベンツ”(1953年)

W201、すなわち1982年12月発売の190まで、メルセデス・ベンツはエントリーモデルの導入で失敗を続けていた。1953年、経営陣は170Vよりコストを15~20%削減したモデルの開発を承認する。しかし、ダイムラーが1958年にアウトウニオンを傘下に収めると、このプロジェクトはキャンセルされた。当時のとある重役は、この小さなメルセデスがDKWの大型モデルと競合するため、不要なオーバーラップを避けたいのだと語っている。

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フォルクスワーゲンEA-48(1953年)

今日のシティカーの基礎となるレイアウトは、1959年に登場したオースチン・ミニにあると見なされるのは当然のことだ。しかし、この英国の小さな巨人を、フォルクスワーゲンが打倒していた可能性があった。1953年、ビートルの売れ行きが停滞していたのを受けて、このドイツの新興メーカーは600との仮称を与えたコンパクトモデルに着手した。それはランニングコストを抑え、小さなボディサイズながら室内を広く取る必要がある。プロトタイプのテストは1954年に始まった。

社内コードEA-48こと600(仮)は、ビートルとの共用パーツが極めて少なかった。モノコック構造で、フロントサスペンションはマクファーソン式。エンジンはフロントに積まれ、前輪を駆動する。エンジンは600cc水平対向2気筒・18psだが、これだけはビートル由来で、基本的にそのフラット4を半分に切ったものだ。

ハインツ・ノルトホフ社長がエンジニアに開発中止を命じたのは、1956年のこと。ビートルのセールスがいよいよ好調に転じ、今後を左右する大切な時期に、第2のモデルが水を差すことを恐れたためだ。

アルファ・ロメオ・ティーポ103(1959年)

アルファ・ロメオは、1958年にルノー・ドーフィンのライセンス生産を開始。しかし一方で、自社開発のエントリーモデル導入によるラインナップ拡大も検討していた。1960年に製作された前輪駆動のボクシーなティーポ103は、ラインナップ的にはジュリアのすぐ下にあたるモデルだ。

アルファの前輪駆動へのシフトは、ミニに着想を得たものらしい。ティーポ103は50psの直4ツインカムをフロントに横置きし、4段MTを組み合わせる。それなら成功間違いなしと思えたが、首脳陣はルノー車の生産継続し、自社モデルについては既存車種の改良に注力することを決める。FFアルファのアイデアが具現化するのは、1971年のアルファスッドまで待つこととなった。

メルセデス・ベンツ600クーペ(1965年)

メルセデスの600は、通常版もロングホイールベース版もショーファードリブンが一般的だった。しかしシュトゥットガルトでは、個人向け高級車のトップエンドとして、このリムジンの2ドア仕様導入を計画。その姿はほぼサルーン仕様と変わらず、明確な違いはドアの数と、前輪後方に追加されたエアベントくらいだ。

ところがメルセデスは、600クーペはプロトタイプ段階で打ち切り、そのリソースをこのクルマではないプロジェクトに投入することとした。現在、たった一台のみ製作された試作車は個人のコレクションに収まっているが、その価値は計り知れない。

シトロエン2CVシュペール(1974年)

1974年、2CVは26周年を迎えた。シトロエンが、さらなるモデル追加を図ろうとしたのは当然のことと言えるだろう。しかし、2CVをベースに、トラクシオン・アヴァンのデザイン要素を大幅に採り入れたレトロデザインのモデルを、新型車として投入しようとしたのはいかがなものか。2CVシュペールと銘打ったそれは、ルーフを金属パネルの固定式とし、伸ばしたノーズにGS譲りのフラット4を積んだ。プロジェクトは着々と進行したが、シトロエンがこれをキャンセルしたのは賢明な判断だっただろう。

フォルクスワーゲン・パサートGTI(1977年)

1977年、フォルクスワーゲンはアウディ80GTEの112psを発生する1.6ℓ直4を、パサートのエンジンルームに押し込んだ。さらに、前後ともブレーキを大型化し、ワイドなタイヤを履かせ、ゴルフGTIとのビジュアル的な関連性を感じさせるスポーティなボディキットを装着した。パサートGTIと銘打たれた2ドアのプロトタイプは、ウォルフスブルグ周辺の一般道でもテストドライブが行われ、満足のいく結果を収めた。

ところが、時のCEOであるトニ・シュマッカーはプロジェクト中止を決定する。彼には、パサートがパフォーマンスカーへ姿を変えるとは、どうしても信じられなかったのだ。

ポルシェ984(1984年)

もし市販化されていたら、時系列的に914とボクスターをつなぐこととなっただろうミッシングリンクが、この984だ。ミドシップのロードスターで、プロトタイプに積まれたのは、137psの2.0ℓフラット4だ。

開発の目的は、ポルシェのショールームに若い顧客を呼び寄せることと、特にアメリカでのセールスとイメージを大きく引き上げることだった。そのため、1987年にアメリカの新車市場が急激な落ち込みを見せたのを受けて、突如として中止されてしまった。

BMW 767iL(1987年)

1980年代終盤、BMWは7シリーズより上位に位置するモデルの導入機会をうかがっていた。目指したのは、ラグジュアリーな装備を満載し、強力な16気筒エンジンを積む堂々たるフラッグシップ。1987年7月、技術陣は開発に着手した。

アドルフ・フィッシャー指揮の下、5.0ℓV12に4気筒を加えるかたちで産み出された6.7ℓV16は、最もベーシックな仕様で414psを発生した。12気筒より30cmほど長いパワーユニットを収めるべく、ラジエーターはフロントから排除され、代わりにボディ後端のトランクルームを潰して小型のものが2基装着。そこへ外気を導くべく、左右のリアフェンダーにエアダクトが穿たれ、GFRPのスクープが取り付けられた。

BMWはこのプロトタイプに767iLの名を与え、テストも行なったが、首脳陣のプロジェクト継続に対する結論はノー。V12を上回るエンジンは不要とみなされたのだ。これとほぼ同時期に、ダイムラー・ベンツはメルセデスのW18エンジンを、同じ理由で葬り去っている。

ランボルギーニP140(1980年代終盤)

ジャルパに代わり、ランボルギーニのボトムエンドを支えることになる、はずだったP140。開発のスタートは1980年代終盤、クライスラー傘下入りしたすぐ後のことだ。マルチェロ・ガンディーにが描いたウェッジシェイプデザインの下には、375psの4.0ℓV10をリヤミドシップに積み、後輪を駆動するメカニズムが秘められている。4WDの導入も検討されたが、最終的に見送られたのは、コスト的な理由からのようだ。

製作されたプロトタイプは4台程度で、ナルドの周回路での高速走行など、実走テストに供された。この本格的な開発ぶりこそ、真剣に市販化を目指していたと思わせる材料だ。ランボルギーニのアーカイブ部門によれば、まっとうに行けば1992~1993年に正式デビューするはずだった。価格は当時にして12万5000ドル程度というから、2018年の貨幣価値に換算すれば約2500万円といったところ。金額的に見れば、ポルシェ911カレラ4とディアブロの間といったところか。

しかし、P140は1990年代初頭にお蔵入りとされた。これを市場に投入するに足るリソースがなかったことに加え、スーパーカーの世界的な需要が落ち込んだことも原因だ。

フォード・スポーツカー(1995年)

フォードは1995年にGT90コンセプトを製作し、いまなおスーパーカー造りのノウハウを有していることを欧州のライバルたちに見せつけた。アメリカ製ランボルギーニといった風情のスタイリングは、かつて1960年代のル・マンでフェラーリを震え上がらせたGT40の後継車を示唆するものだ。ただ、このクーペの市販化計画は、まったく表に出てこなかった。というのも、フォードはコンセプトカーの域を出ることを望まなかったからだ。少ないながらも、ショールームに並んでしかるべきクルマだったのに。

GT90のプロジェクト・マネージャーを務めたフレッド・グッドニューは、彼ら開発ティームがこのクルマから多くを学んだと語る。フォードは、1998年にスポーツカーを開発する予定で、そこではGT90のコンポーネンツを活用することをほのめかした。そこでメディアは、これがコルベットとフェラーリのギャップを埋めるものになるだろうと、こぞって書きたてたのだが、フォードがマスタングを上回るスポーツモデルを発売したのは、自社の100周年事業の一環としてGTを限定生産した2004年のことだった。

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(AUTOCAR JAPAN 編集部)

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