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業界ニュース 2019.8.17

速さではない、美しさのための自動車競技について──1台のアバルトとコンクール・デレガンス【後編】

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自動車のビューティ・コンテストアバルト1000モノミッレGTが勝利した「クラスC」のカテゴリー・テーマは、「小さくて、完璧な形:コーチビルダーによるミニアチュア芸術」というものであった。このテーマ・コンセプトじたいに、主催者と審査員の、自動車の歴史と文化の本質に届く眼差しがあることがうかがえる。そして、ほかのカテゴリーにも同様に、機智とストーリーを忍ばせるテーマ・タイトルが付いていた。

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たとえば1920年代のクルマ6台がエントリーしたクラスAは、「さらば狂騒の20年代:コンコルソの誕生」と銘打たれていた。大量の死をもたらした悲惨な第1次大戦後の、熱に浮かされたような好景気を背景に開花した享楽的な20世紀消費文化が想起され、そのなかで、コーチビルダーたちがこぞって、自動車美という新しい美を競い合っていた時代があったことを、それはほのめかしている。馬車に代わって登場した新時代の乗り物である自動車の美しさ、優雅さを争う競技としての「コンクール・デレガンス」という新種のビューティ&ファッション・コンテストが、欧米各地で次々にはじまった時代である。ほかならぬこの、コモ湖畔のグランド・ホテル、ヴィラ・デステのイタリア式庭園を主舞台にした「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ」の第1回が開かれたのも、狂騒の10年間の最後の年、1929年の9月1日のことだった。そして、ニューヨーク証券市場のダウ平均価格が史上最高値を記録したのはその2日後のことであり、世界恐慌の引き金となった株価の大暴落が起きたのは、それから2カ月とたたない10月24日の木曜日だった。人はこの日を「暗黒の木曜日」(ブラック・サーズデイ)として記憶することになる。

「ベストドレッサー賞」を受賞した「1938 Delahaye 135M Roadster by Carlton」のオーナーはモナコから参加。OSAMU YAJIMAYJ-ParisOSAMU YAJIMAYJ-Paris「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」の創始者、イギリスのチャールズ・マーチ卿。OSAMU YAJIMAYJ-ParisOSAMU YAJIMAYJ-Parisヴィラ・デステがヨーロッパ一華やかな最新車のビューティ・ページェントになるのはあっという間だったという。しかし、1930年代の終わりには、イタリアをふくめヨーロッパ各地ですでに戦争がはじまっていた。優雅なコンコルソは打ち切られた。暗い時代に求められたのは「武器」としてのクルマだったのである。そして、第1次大戦の大量死への反動でもあった享楽的生を狂おしいばかりに謳歌する時代は、次に控えていたより大量の死を準備して幕を閉じたのであった。

惜しくも受賞はならなかったが「Jaguar XK120」のまわりにもギャラリーが集まった。OSAMU YAJIMAYJ-ParisOSAMU YAJIMAYJ-ParisYAJIMA osamuyj-parisOSAMU YAJIMAYJ-Paris「コンセプト&プロト車一般人気投票第1位」に輝いた「2019 Bugatti La Voiture Noire」。写真はブガッティCEOのステファン・ヴィンケルマン。YAJIMA osamuyj-parisヴィラ・デステの新展開戦争が終わり、ヴィラ・デステのイベントは1949年にいったん復活する。しかし、戦後の自動車文化を牽引するイニシアティヴは、アメリカに移っていた。自動車のコンクール・デレガンスのもう一方の雄である米カリフォルニアの「ペブル・ビーチ」で最初のコンクール・デレガンス(アメリカ人は、Concours dʼEleganceというフランス語表現を「コンコース・ドゥリーガンス」と発音した)が挙行されたのは1950年のことである。自動車の新しい美の震源は、キャディラック、リンカーン、シボレー、クライスラーなどから毎年送り出されるビカビカのアメリカンな最新型車へと移行していったことの、それはひとつの兆候であった。そして、再開されたヴィラ・デステのコンコルソは、はやくも1951年にはキャンセルされることになった。

それから40年以上の時が経過した1995年に、コンコルソは新型車ではなくクラシック・カーのコンクールとして再出発する。それはあたかも、戦前の古き良きヨーロッパを追憶し追体験するかのようでもあったけれど、同時に、戦後の進展著しい科学技術がもたらした自動車の新しい機能美を、そろそろランドマークしようという文化的な試みでもあった。

そうして1999年、BMWがこのページェントのパトロン=保護・後援者になる。さらには2001年からは、FIVA(国際クラシックカー連盟)認定のクラシックカーだけが参加できるイベントとして、世界唯一、世界最高峰のクラシック・カー・ビューティ・コンクールへと発展してこんにちにいたっているのである。

OSAMU YAJIMAYJ-ParisOSAMU YAJIMAYJ-ParisOSAMU YAJIMAYJ-Paris真の芸術作品アバルト1000モノミッレGTに話を戻す。今年のコンコルソの「クラスC」のテーマ設定について主催者は述べる。「デザイナーにとって小型車はつねに最難関のチャレンジである。大型車のようなゆとりのある優雅さは望めない。といって、寸詰まりのプロポーションにはできない」と。

そして、このクラスCにエントリーした7台は、いずれも痛快な性能を有するスポーツカー、レーシングカーであることに注意をうながし、そのいずれもが、性能の要求にしたがって磨き抜かれた美しいシルエットの「真の芸術作品」である、とする。そこで優勝したのが、排気量982ccの4気筒エンジンをリアに搭載し、車重560kgに過ぎない軽量2人乗りのこのアバルト製の「GT」だったのである。

「ベスト・イン・ショー」の受賞者には、コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステのスポンサーを務めるランゲ&ゾーネが特別に製作した「ランゲ1・タイムゾーン〝コモ・エディション〟」が贈呈される。この特別なランゲ1の回転式24 都市リングには中央ヨーロッパ時間帯の代表都市として『COMO』の文字が、裏蓋にはコンコルソ・デレガンツァの手彫りエンブレムがそれぞれ刻まれる。18KWGケース×アリゲーターストラップ、手巻き、41.9mm径。クルマ好きならずとも、GTが「グランツーリズモ」の略称であることは知っているかもしれない。しかし、このアバルトが送り出された1960年代には、それはハイウェイを突っ走る快適な高速ツアラーとしてのみ認識されていたわけではなかった。当のモノミッレのオウナーの小坂さんは、「プラグをより高性能なものに交換してサーキットを走り、そうしてレースが終われば元のプラグに戻して乗って帰ることのできるクルマ、その意味ではロード・カーでもレーシング・カーでもあるスポーツカーのことをGTといったものです」と語る。たしかに、フェラーリ250の1960年代前半における一連の250GTも、1964年の第2回日本グランプリのGT-IIクラスでスカイラインGTに乗る生沢徹とバトルを繰り広げて優勝した式場壮吉がドライヴしたポルシェ904(その正式名称は、カレラGTSだ)も、GTだった。

アバルト1000モノミッレGTは、たった982ccの排気量の60ps(6200rpm)と9kgm(3200rpm)を発生するに過ぎない小さな4気筒エンジンをリアに搭載するクーペだったが、それゆえにそれは、フィアット600ベースの他のアバルト製GT同様「ジャイアント・キラー」と呼ばれた。そしてそれは、おそらくはどのアバルト製のロードゴーイングGTよりも少数しかつくられることがなかった。しかも、事実上新車のときからこれをドライヴし、半世紀以上にわたって当時の記憶を、いまに生きる現実として、不変のワン・オウナーのもとにとどめているフィアット・アバルト1000モノミッレGTは、小坂さんが所有するこの1台のみである。コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステが、いずれも希少な存在だったクラスCの他の6台のコンテンダーをさしおいて、このモノミッレに最大の栄誉を与えたのは見識であった。

YAJIMA osamuyj-parisOSAMU YAJIMAYJ-ParisWords 鈴木正文 Masafumi Suzuki@GQ / Photos 矢嶋 修 Osamu Yajima / 協力 A.ランゲ&ゾーネ

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(GQ JAPAN 鈴木正文)

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