連載の第4回は4月12日に亡くなったサー・スターリング・モスのレース人生を振り返る。
モスが大好きになった
「今から伺います」
「白ワインを忘れるんじゃないぞ。高くて良いやつをな」
ロンドン中心街にある自宅兼事務所を訪れる時には、大抵こういう会話になった。電話の向こうはサー・スターリング・モスである。イギリスの生んだ偉大なグランプリ・ドライバー。小柄ながら胸板の厚い筋肉質な体躯。私が最初にインタビューに訪れたのは1988年、モスが60歳に手の届こうとしていたときだ。3時間にも及んだインタビューの間、彼はシリアスな話と冗談を織り交ぜて、遙か東洋の島国から来たヒヨッコ・ジャーナリストを楽しませてくれた。私はたちまちモスが大好きになった。その後もあちこちのサーキットやパーティで会う度に話し込んだ。傍らにはいつもスージー夫人がいた。
「スージーは六本木で鮨を食うのが楽しみなんだ」
会う度に同じ話で笑わせてくれた。そのモスが亡くなった。4月12日、長い闘病生活の末に、われわれを残して逝ってしまった。90歳だった。
Cahier Archive完璧な勝利
私はサー・スターリング・モスの実際のレースは観ていない。映像で観るだけだが、実際の走りは想像できる。いろんな人が彼のレース振りを話してくれるからだ。私の英国のメンターである自動車ヒストリアンのダグ・ナイと、著名なモータースレース・ジャーナリストのデニス・ジェンキンソンを訪ねたことがある。ジェンキンソンは1955年のミレ・ミリアにメルセデス300SLRで参加したモスのコ・ドライバーを務めた。モスのことを最も良く知るジャーナリストだろう。ふたりはその年のミレ・ミリアを10時間7分48秒で走破、見事優勝を飾った。走行距離1590km。コースすべてが公道のこのレースで平均時速157.650kmを記録したが、もちろんミレ・ミリアの新記録だった。ジェンキンソンは5mにもなる巻紙式のロードマップを制作、それを逐一モスに読んで聞かせたという。
モスがレースを始めたのは1948年。F1グランプリ・デビューは1951年のスイスGPだ。8位で完走した。輝かしいキャリアのスタートは1955年だろう。前述したミレ・ミリアの勝利に加え母国イギリスGPでの優勝が、その後の自信に繋がった。イギリスGPでの勝利はモスにとってのF1初勝利だけでなく、母国のレースで勝った初めてのイギリス人ドライバーという栄誉をももたらした。加えて、ポールポジション、最速ラップまで記録している。完璧な勝利だった。それから1961年までF1グランプリ67戦に出場して16勝を挙げるも、62年グッドウッドのノン・チャンピオンシップ・レースで事故に遭い、1カ月の昏睡。1年後に32歳で引退を決意した。32歳の若さだった。11年間F1グランプリを戦い、選手権2位が4回、3位が3回という好成績を残したが、ついにチャンピオンには手が届かなかった。
Moss At Mille MigliaKlemantaski Collectionセナと同じメンタリティー
引退してからも精力的にサーキットに通い、ヒストリックカー・レースに参戦したり、若いドライバーと積極的に交流したりした。スポンサー活動も精力的に行い、モータースポーツの発展に尽くした。現役時代の1959年にOBE(大英帝国勲章)、2000年にナイトの称号を受けている。晩年は体調を崩し、自宅のエレベーターから落ちるなどの事故にも遭っている。
そのモスが生涯を通して最も注目したドライバーがアイルトン・セナだった。私は「週刊朝日」の取材でモスに話を聞き、ジェンキンソンにも話を聞いた。そのなかでセナを絶賛するモスの言葉が印象に残った。その記事は単行本にまとまっている。少し長くなるが、その個所を転載する。
モスは、セナの走りに感銘を受けたようだった。
「彼の雨の中のドライビングは、だれにもちょっと真似ができないだろうな。何が素晴らしいかというと、あの、デリケートなタッチだね。センシティブでパワフルなF1マシンを、雨の中であれほど速く、あれほど巧みに走らせるドライバーは、セナをおいてほかにいないと思うよ」
セナの走りについては、老ジャーナリストが語った言葉も伝えなくてはなるまい。デニス・ジェンキンソンという、草分けのグランプリ記者だ。彼には、プロのドライバーのバイブルになった“The Racing Driver”という著書がある。
ジェンキンソンは1955年のミレ・ミリアに、スターリング・モスのナビゲーターとして出場し、メルセデスを見事優勝に導いた。モスを最も良く理解するジャーナリストだが、そのジェンキンソンが、イギリス・グランプリの直後、次のように言ったのだ。
「スターリング・モスは、非常にデリケートなタッチで車を操ったものだが、今日、雨の中でセナが見せたのはそれだよ。二人とも、車とサーキットに対して思いやりをもって走っている」
ジェンキンソンは、さらにこうも言った。
「モスが持っていたドライビングのキャラクターは、とてもレーシング・スクールで得られるものではない。天性のものだ。現役のドライバーで、モスと同じ才能を持つのはセナだけだろう。二人は、同じメンタリティーを持っているね」
メンタリティーといったとき、ジェンキンソンは、「ここだよ、ここ」というように、指で頭を指した。
「モスは、とてもスムーズなドライブをした。他人(ひと)は『モスの運転は闘争(ファイト)だ』といったが、私はそうは思わない。自分と車を完全にコントロールした、スムーズな運転だった。セナも同じレベルだと思うね」
モスは、プロストを現在最高のレーシング・ドライバーと評価するが、「セナはそのプロストより速い」と言い切る。
「たしかに、プロストはファンジオの域にあるが、セナは少し違うんだ。彼はレーサーだよ。マンセルもレーサーだ。レーサーはプロストのように、何から何まで計算づくでは走らない。もっと動物的な走りをするんだ。わかるかい。プロストはベストのレーシング・ドライバーだ。しかし、速いのはセナのほうだ。奴は本当のレーサーだね。私と同じだ」(朝日新聞社発行『F1紀行 20人の仲間たち』)
サー・スターリング・モスの葬儀は4月17日、ロンドンのリッチモンドにあるモートレイク斎場でこぢんまりと行われた。新型コロナウイルスの広がるなか、派手な葬儀はしたくないというスージー夫人の希望だった。(おわり)
文・赤井邦彦
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