■エンツォもひと目で惚れたスケドーニのトラベルバッグ
モデナといえば、近辺に世界に名だたるスーパーカーメーカー、フェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティ、パガーニが存在する街だ。
フェラーリ「ローマ」でお花見気分。ついにローマが日本発上陸!
それらのイタリアン・スーパーカーメーカーだけでなく、今や世界中の自動車メーカーと仕事をしているスケドーニ。現在4代目社長のシモーネ・スケドーニ氏に話を伺った。
1880年、シモーネの曽祖父チェルソが靴職人としてスタートしたところからスケドーニの歴史は始まる。その息子、シモーネの祖父ジュセッペは13歳で孤児になったが、父親が残してくれた靴製造機械を元に家業を継ぎ、高品質の靴作りを目指すようになった。
そして3代目となるシモーネの父、マウロの時代から事業が拡大していくこととなる。1960年代後半は、世界的に経済成長のさなかにあり、ファッションも花開いた時代だ。マウロは靴の他にカバン、ベルト、小物類などにも挑戦するようになった。もちろん、何をするにも祖父から受け継いだ、スケドーニのモットーであるクオリティ追求の精神はしっかりと彼のDNAのなかに根付いていた。
そして1977年にスケドーニは自動車業界へと繋がっていく。この話に入る前に、前年1976年のクリスマスの際のエピソードを記しておこう。
マウロはフェラーリ「308GTB」を所有している叔父フランコ・フォッリのために、トランクに入るトラベルバックセットをサプライズプレゼントした。フランコは、トランクにぴったりと収まったトラベルバックを見て感動。トランクに入る丁度良いサイズのバックが見つからず困っていたところだった。
たまたまその時に居合わせた叔父の友人で、当時フェラーリ社の営業部長であったアメリーゴ・マニカルディもそのトラベルバックを見て、「トランクのなかにこんなに綺麗に収まるなんて!」と、マウロがフランコに贈ったプレゼントをひと目で気に入ることとなる。なぜならそれは、フェラーリオーナーがまさに欲しがっていたアイテムだったからだ。是非、フェラーリ社のためにも製造してくれないか、と、話は急展開することとなる。
そして翌年の1977年の1月に、さっそくマウロはフェラーリ本社に試作品を持って出かけた。最終判断はエンツォ・フェラーリ御大だ。
その当時からエンツォは、世界中のフェラーリファンから神格化された存在であった。マウロ自身も大のフェラーリファン。不安と期待が渦巻くなか、生まれて初めてエンツォ・フェラーリに直接会い、試作品をプレゼンする。
エンツォもトランクに綺麗に並んだバックを見て、あまりの緻密さと品質の高さに感動し、その場で契約の話は纏まった。
当時、308のほかに「512BB」、「400」も生産されていたので、すぐにコラボレーションを開始することになった。マウロにとって夢の世界の話が、エンツォのひと言で現実になった瞬間だった。その日はマウロにとって一生涯忘れられない日となった。
スケドーニはその日から、フェラーリのサプライヤーとして途切れることなく40年以上関係を続けている。フェラーリ308 GTBから始まり、400、512BB、「モンディアル」、「288GTO」、「F40」……、そして、最近発表されたフェラーリ「ローマ」に至るまで、ワンオフバージョンを含め、数々のフェラーリのトラベルバックを製作してきた。
フェラーリの新車発表会には、必ずといってよいほどスケドーニのトラベルバックがセットとなっている。もはやスケドーニは、フェラーリにはなくてはならないビジネスパートナーなのだ。
■フェラーリだけでなく、ランボ、パガーニ、ブガッティといった一流ブランドともコラボレーション
1983年からは、スケドーニはF1のシートも手がけることになる。どうしてスケドーニがF1のシートをつくることになったのだろうか。
1982年、ベルギーGP(ゾルダー)の予選2日目のことだった。ジル・ヴィルヌーブのフェラーリとヨッヘン・マスのマーチが接触してしまい、その衝撃でヴィルヌーブはシートごと車外に投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけられて死亡するという事故があった。
この事故から世間はF1に「安全性」を問うようになり、世間の目は事故を起こしたフェラーリに向けられた。そこでエンツォは、シートの安全性を確保するための解決策を、サプライヤーであるスケドーニに相談した。
エンツォから直談判されたスケドーニは、先ずは資材選びから始めたという。いろいろとテストした結果、牛革より軽い豚革(ピッグスキン)の滑りにくいスウェードを選んだ。
フェラーリから渡されたカーボンファイバーのシートシェルに、スウェードを張り、試作品は完成。その試作品をエンツォの元へ届けた。
エンツォは、シートの出来栄えには感動したものの、なかなか金額が折り合わなかったそうだ。さすが実業家のエンツォは、最終的にこのシートは「ファンの一人としてフェラーリ優勝のために貢献したい」と、スケドーニからのプレゼントという形で決着がついた。
こうした経緯があり、エンツォは申し訳ないと思ったのか、スケドーニのロゴをシートに大きく付けるようにマウロに直接提案する。おかげでスケドーニの名前が世界中のF1中継で時々流れるようになった。スケドーニファミリーにとって、これ以上の喜びはない。
また、エンツォから、「剥がしたシートにはドライバー名、レース開催日、サーキット名を書き、サインをするように。このシートはただのピッグスキンではない、立派な芸術作品なのだから」と嬉しい助言までもらったという。
こうしてスケドーニのピッグスキンのシートは、1983年の126C、ドライバーはルネ・アルヌとパトリック・タンベイから始まり2003年まで、およそ20年間も採用され続けた。
残念ながら、軽量化のためスケドーニのピッグスキンはシートに張られることがなくなった。その後はドライビングに必要なパットのみをスケドーニは供給している。
当時のF1では、ワンシーズンに6枚から10枚のシートの表皮が張り替えられていた。スケドーニがフェラーリに供給していた約20年の間に、およそ200枚のシートから剥がされたピッグスキンが、スケドーニ社内に保管されている。(スケドーニの社内には、フェラーリに供給していた約20年の間にたまった、およそ200枚のピッグスキンが保管されている。)まさしくスクーデリア・フェラーリのひとつの歴史といっていいだろう
こうしてフェラーリと仕事をしていくうちに、スケドーニの評判は自動車業界に広まっていった。
彼らの信頼おける人柄と、高い技術力は多くの自動車メーカーに認められ、フェラーリをはじめ、パガーニ、ランボルギーニ、アウディ、アストンマーティン、ブガッティ、マクラーレン、アルファロメオ、ベントレー、ロールス・ロイスはもちろんのこと、イタルデザインが手掛けた日産GT-Rにも採用されている。
いまやスケドーニは、世界の高級自動車にトラベルバックやディーラー用の営業のためのケースを供給する一流メーカーとなった。
スケドーニ社は、いつ訪れても、あたたかく私のことを迎えてくれる。従業員約30人。現在はシモーネの甥のアレッシオが、スケドーニ社の5代目として働いている。いずれは息子のニッコロもスケドーニで働く予定だ。
従業員は皆家族、そんな雰囲気が伝わる古き良きイタリアの形を継承しているスケドーニは、「大勢の家族」とともに高い技術力と誠実さで、モデナから世界に挑み続ける。2019年には、新たにオリジナルのスケドーニ・ブランドを立ち上げた。スケドーニの名前を冠したバッグなどが、いずれ日本にも上陸することだろう。
ちなみに、各メーカーのトラベルバッグが気になる人は、正規ディーラーに問い合わせるとよい(現行モデルのみ)。
・取材協力:スケドーニ/www.schedoni.com
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