ドイツ・ニュルブルクリンクで激闘を繰り広げた
メルセデス・ベンツのモータースポーツを語るうえで、名監督アルフレッド・ノイバウアーと名ドライバー、ルドルフ・カラッチオラの関係性はとても重要です。そこで、両者の関係についてじっくりと解説していきます。今回は、ノイバウアーとカラッチオラが劇的勝利を飾った名レースの裏側と、突如として訪れた危機的状況の打開策を紹介します。
「ピットサイン」の考案者はメルセデスの名監督「ノイバウアー」だった…「雨天の名手カラッチオラ」との友情のはじまりとは
ノイバウアー監督が初のピットサインを考案
ルドルフ・カラッチオラがスイスのティチーノ州(ドイツ語でテッシン)の太陽の下で日焼けをしている間、ノイバウアーはとあることを心配していた。1926年のアヴスでのレースが、ピットとドライバー間の合図がいかに重要であるかをノイバウアーに教えたのだ。それで、ノイバウアーは手の込んだシステム・小旗や信号板を考案した。このシステムでレース中、ドライバーに合図や指示を送ることができた。
1926年9月12日、シュツットガルト近郊のゾリチュードでのレースで、メルセデス・ベンツチームは初めてこのシステムを試みた。レース主催者はコースの横に立ち、サインボードを差し出す太った男の不審な行為を止めようとしたが、ノイバウアーは自分がメルセデス・ベンツのレース監督であると抗議して止めようとしなかった。もちろん、当時の彼自身もこのアイディアがどのような意味を持つのか予想することすらできなかった。なぜなら、まだビッグレースで実証していなかったからだ。その効果を実証する機会は、2年後にやってきた。
1927年6月19日、ドイツ・アイフェル高原に新たに建設されたニュルブルクリンクのオープニングレースで、初めてポルシェ博士設計による大型の6.8L メルセデス・ベンツ「S」がルドルフ・カラッチオラのドライブにより優勝。次いでスポーツカーで行われたドイツGPでも1~3位までメルセデス・ベンツ Sが独占した。とくに、カラッチオラが1927年メルセデス・ベンツ S(105号車)を駆り、クラゼン・パス・ヒルクライムレースで優勝している。その後、ポルシェ博士が設計した有名な「S」「SS」「SSK」「SSKL」シリーズへと発展したのは周知の通りである。
1928年7月15日、すべてのレースファンが再びこのニュルブルクリンクでのレースに注目した。ダイムラー・ベンツ社は新しい7Lのメルセデス・ベンツ SSで参戦。ボンネットの黒い帯は3L以上のグループ1車両ということを示している。焼け付く暑さの中、34台がドイツGPのスタートラインに着いた。
有名な設計者のエットーレ・ブガッティがメルセデス・ベンツに挑戦し、グループ2に17台を送り込んできた。しかしノイバウアーは、そのことを事前に知っていたのだ。
レースは波乱の展開に……
5周目にカラッチオラは絶対的なラップレコードをマークした。ノイバウアーは彼に、大きくリードしているのでゆっくり走るように指示するため、考案した「ピットサイン」を出した。
12周目、カラッチオラはスローダウンし、そしてついにピットに止まった。彼は、
「もうダメだ、暑いんだ!」
と息も絶え絶えに言ったという。チームメイトのクリスチャン・ヴェルナーは重たいメルセデス・ベンツのステアリングが当たって腕を脱臼し、すでにリタイアしていた。
ところが、ヴェルナーは、
「よし、私にすぐ絆創膏と包帯を巻いてくれ、1~2周は走るぞ、それまでにはカラッチオラのコンディションがよくなるだろう」
と言って、カラッチオラのメルセデス・ベンツを引き継いだ。白いメルセデス・ベンツが2分後に再びレースに戻ったとき、スタッフたちはカラッチオラの世話をした。彼の首に冷湿布を巻いたり、彼の顔を洗った。カラッチオラは徐々にふたたび元気を取り戻し、同時にヴェルナーがピットにやって来る。ノイバウアーは尋ねた。
「カラッチオラ、2周だけ走ってくれないか? そうしたらヴェルナーを再び休ませ、君と交替することができるんだ!」
カラッチオラはクルマのシートに座って、ひきつった顔でスタートし、そして追い駆けた。ヴェルナーは痛さのあまり呻いていた。ノイバウアーは彼のために、ブラックコーヒー、砂糖、卵の黄身と数種のスパイスなどを使った、独自の「レーシングドライバーカクテル」を作った。
16周目。ノイバウアーはカラッチオラに約束の「ピットサイン」を出した。彼は止まった。汗びっしょり、なおかつせわしい呼吸でゼイゼイと喘いでいた。彼は完全に疲れていたが自分のメルセデス・ベンツを見事に走らせ、オットー・メルツのメルセデス・ベンツの後ろ、第2位を守った。
「よし、ヴェルナー、最後の2周を走り抜くんだ。今だ!」
と、ノイバウアーは檄を飛ばし、このオールド・ヒーロー(ヴェルナー)はステアリングを握った。一方、カラッチオラは半死半生になりながら、隅の方でヘトヘトになっていた。ヴェルナーはオットー・メルツを追いかけたのだが、メルツはこの暑さとの戦いをただひとり、交替なしで耐え抜いていたのだ。
そしてついに最終ラップ。メルツはヴェルナーを500mリードしたまま、両車はハッツェンバッハへと消えた。メルツはヴェルナーが追従してきたことに気づき、そしてブライトシャイドの命取りのカーブにスピードを落とさずに突っ込んでいった。あまりにも無鉄砲だったため、クルマは熱いアスファルトの上をすべり、突然鋭いドスンという音がし、右の後輪のタイヤが飛んだ。メルツはライオンのように重たいメルセデス・ベンツと戦い、マシンをコースに強引に戻した。しかし、彼はこの作業で貴重な数秒を失った。
ヴェルナーはチャンスを逃すまいと、アクセルを踏み込みメルツを追い抜いた。ゼッケン6のメルセデス・ベンツが第1位としてゴールラインに飛び込んできたとき、ノイバウアーは目を疑った。
老練なクリスチャン・ヴェルナーと若いルドルフ・カラッチオラがともに脱臼した腕や日射病、加えて足の裏をやけどしていたにもかかわらず、ニュルブルクリンクの太陽との戦いに優勝したのだ。カラッチオラにとって、この勝利は新しい頂点を意味していた。全ドイツが彼に喝采し、彼は賞金とゴールドカップを獲得した。
ノイバウアーが提案した新たな参戦プランとは?
カラッチオラはこの1928年に約10万マルクを手に入れ、28歳の若者にとってはひと財産であった。さらに、1929年8月17日にはベルファスト近郊のインターナショナル・ツーリスト・トロフィーで、カラッチオラはメルセデス・ベンツ SSで優勝、1930年8月9日から10日に開催されたクラウゼン・パス・ヒルクライムレースで、カラッチオラはメルセデス・ベンツ SSKを駆って優勝している。
1930年の終わりには世界経済危機の雪崩がレーシングドライバーにも押し寄せた。ある朝、ルドルフ・カラッチオラのもとにウンタートルクハイムのダイムラー・ベンツ社より書留郵便が届く。つまり、彼はレーシングドライバー契約の解雇通知を受けたのだった。
ダイムラー・ベンツ社のゼネラルディレクターである、キッセル博士との話し合いの中でもこの件に関して変更はなかった。カラッチオラの妻シャルリーはウンタートルクハイムへ彼と同伴し、そして、申し出た。
「たとえメルセデスに乗れなくなったとしても、私たちは走り続けることができるわ!」
カラッチオラは苦笑いをし、どうするんだ? と聞いた。シャルリーは
「簡単なことよ、私たちは自分たちのクルマとしてアルファ ロメオを1台購入して、そして自費で走るのよ」
と答えた。ノイバウアーは急に声を荒らげながら立ち上がり、
「なんだって、カラッチオラがイタリアのクルマに乗るなんて、それは考えられないことだ!」
と叫んだ。
「親愛なるドン・アルフレッド、メルセデスがまったくレースに出ないからといって、あなたは私に今日・明日にでも職を辞めさせることはできないんだ」
そう言って、カラッチオラは部屋を出ていった。
ルドルフ・カラッチオラがイタリアの赤くて速い小型車に乗って走ることを考えると、ノイバウアーは納得できず、ずっと机に座っていなければならなかった。そして、ノイバウアーは知恵を絞ってやっとのこと、ある作戦を考えた。
ノイバウアーはカラッチオラにウンタートルクハイムに来るように頼み込み、そして新しい形式のレース契約プランを彼に見せた。
「われわれがメカニックやコ・ドライバーとレ-ス監督を用意し、トランスポート、修理、タイヤ、燃料といったすべての経費を負担する。君はすべての賞金、割増金、出場料を受け取る。そのかわり、君は1台のクルマ、SSKを2万マルクの特別価格で買わなければならないが……」
この日、1930年の冬にルドルフ・カラッチオラのレーシングチームが誕生した。このチームはカラッチオラ本人と彼の妻シャルリー、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャン、メカニックのツィンマー、そしてレース監督のノイバウアーというメンバーで成り立っていた。
ひとつのことが彼らの間で、はっきりとしていた。つまり、次のシーズンは以前よりも大激戦となることが予想され、ルドルフ・カラッチオラは全世界のレース・エリートたちに対し、ひとりで立ち向かって走らなければならないのだ。もし、彼が日射病で倒れたとしても、クリスチャン・ヴェルナーは彼と交替することができず、加えてオットー・メルツはペースメーカーとして働いてくれず、相手をやっつけてくれることはないのであった。
【ルドルフ・カラッチオラ】
1901年1月30日にレマーゲンで生まれ、1959年9月28日に西ドイツのカッセルで死去、逝年58歳。彼は1920年から1950年代にかけて活躍したメルセデス・ベンツのもっとも偉大なレーシングドライバーで、レントゲンの目を持つとも言われ、雨のレースにめっぽう強く「雨天の名手」(ドイツ語でRegenmeister:レーゲンマイスター)ともいわれた。
つねにアルフレッド・ノイバウアー監督の指示通り、ラップスピードを正確に守って走った。コーナーのクリッピング・ポイントは5cmと狂わず、何回サーキットを回っても同じ軌跡をトレースして走ったという伝説すらある。優れたコーナリングテクニックと、時計のように正確で、しかもつねに冷静でクルマを巧みにコントロールするドライビングスタイルの持ち主。
その優勝歴は149回に及び、レーシングカーでヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンの座に3回もなり(1935年・1937年・1938年)、ヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに3年連続(1930年・1931年・1932年)で輝いた。レース活動引退後の1956年からはメルセデス・ベンツの特別販売活動に大いに貢献した。
【アルフレッド・ノイバウアー】
メルセデス・ベンツの「偉大なレース監督」として伝説化している。1891年3月29日にモラヴィア・ノイディトシャイン(現在のチェコ)に生まれ、1980年8月22日ネッカル川沿いアルディンゲンの自宅で死去、逝年89歳。メルセデスのレーサーであったが、レーサーよりもレース管理能力に優れ、1926年にメルセデス・ベンツのレース監督となった。
レース状況やドライバーが取るべき戦術判断を小旗や信号板、指の合図でドライバーに伝達する「ピットサイン」を初めて考案した。彼はピットの中では厳格であり、勇気と沈着性を持ち合わせ、レースにかける情熱は並々ならぬものであった。
そして最高の統率力で管理運営し、各状況に適した戦術でメルセデス・ベンツのレース監督として数多くの勝利を手中にした。総計160レースに参戦し監督を務め、その半数以上となる84勝を挙げている。レースを離れればじつに優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。レース活動引退後はメルセデス・ベンツミュージアムの館長に就任。7年間奉職してメルセデス・ベンツの名車収集および広報活動を活発に行った。加えて、自伝の執筆やレースの歴史に関する講演活動なども実施した。
■参考文献:”Männer, Frauen und Motoren”, Alfred Neubauer, 1953
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