熱烈シトロエン親子に遭遇
パリに住むジュアンさん一家と知り合ったのは2007年9月のことだった。シトロエンのシャンゼリゼ通りの旗艦ショールーム改築オープンに招かれたときである。こけら落とし当日はパリのドラノエ市長(当時)をはじめ、多くの来賓で賑わった。ただしフィールドワーク派の筆者としては、一般市民の反応も聞きたかった。
そこで翌日の一般公開初日にふたたび現地を訪れ、ふさわしい人物を探した。しばらくすると1939年式シトロエン・トラクシォン・アヴァンの展示車を熱心に見学する家族を発見した。夫妻と3人の男子である。子どもたちは皆よく似ている。アニメ『魔法使いサリー』に登場するトン吉、チン平、カン太を思わせた。いや、身長が異なるので、自動車でいうところのスケーラブル・アーキテクチャーを想起させた。
ハコスカ、日産・スカイライン|ぼくは、車と生きてきた #01
恐るおそる声をかけてみると、ディディエさんというお父さんは、快くインタビューに応じてくれた。1959年生まれの彼はフランスで誰もが知る銀行勤務で、シトロエンの熱心なファンだった。なんと展示車と同年のトラクシォン・アヴァンを所有しているという。さらに「2CV、そしてDSも持っていますよ」と教えてくれた。いずれもシトロエン史に欠かせないモデルである。別れ際、彼は「次回いらしたら、私のクルマでパリをドライブしましょう」と提案してくれた。
実際その後、筆者がパリを訪問するたび、ディディエさんはコレクションを地下ガレージから引っ張り出しては運転してくれた。古いシトロエンの窓を通して見ると、同じパリでも、まるで新車当時に時間旅行していかのようだった。
そうしたときは大抵、例の息子たちも一緒だった。なかでも登場頻度が高かったのは、末っ子で2001年生まれのブノワ君であった。驚いたのは、ある雨の日である。古いフランス車の常で、乗り込むと窓はたちまち曇っていった。するとディディエさんが指示せずとも、ブノワ君がスポンジですかさず拭いた。教育が行き届いている、と感心した。
ディディエさんも「まだ歩けない頃から、自動車に最も早く関心を抱いたのはブノワでしたね」と証言する。「だから、ツール・ド・ブルターニュ、ル・マン・クラシックといったフランス国内のヒストリックカー・イベントだけでなく、英国のグッドウッド・リバイバルまで連れてゆきました」。
しかし、時が経つというのは早いものだ。少し前、一家から筆者のもとに一連の写真が舞い込んだ。
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ブノワ君が運転免許を取得し、別荘があるノルマンディー地方で、ディディエさんのコレクションを運転している姿だった。知り合った当時6歳だった少年が、颯爽とステアリングを握っているとは。にわかに信じがたかった。
ここから本稿の主役は、成人したブノワ君に変わる。彼は「小さい頃から父に乗せてもらっていたクルマを、自分で運転できるのは感激がありますね」と語る。なかでも彼が最も好きな1台は、父親が「特殊な操作が多く、サスペンションのフィールも特別ゆえ、実は戦前のトラクシォン・アヴァンよりも運転が難しいのですが……」と語るDSだ。ブノワ君は「技術的にも、ユニークな美しさという点でも、すべての自動車のなかで最も大胆で、以後も他に類を見ません」とぞっこんである。
その答えから想像できるように、ブノワ君は運転だけでなく、クルマのヒストリーも好きという。
「各車の歴史的背景やレース史に興味があります。たとえば、トラクション・アヴァンは第二次世界大戦と密接に結びつき、DSはレ・タラント・グロリューズ(筆者注: les Trente-Glorieuses : 戦後フランス栄光の30年間)を象徴するクルマです」と答える。ディディエさんによると、「彼は私の書斎にあるクルマ関係の本を読み漁って、知識を蓄えてゆきました」と証言する。
ブノワ君の周囲で、ヒストリックカーに関心ある同世代は稀という。「唯一の例外はMINIとルノー4Lを持っている友人で、最近レトロモビル(筆者注:欧州を代表するヒストリックカー・ショーのひとつ。<本欄参照>)の運営に関わっています」。クルマが好きかそうでないかは、二極化が進んでいるとみた。
父親のコレクションは4輪・2輪ともにフランス車中心だ。自身でクルマを買えるようになってもフランス系ひと筋? その質問にブノワ君は首を振った。「1950年代から60年代、ピニンファリーナやベルトーネといったカロッツェリアが手掛けたイタリア車にも興味があります。ランチアによる初の量産V6エンジンのような、時代を象徴する技術にも関心があります」
新しい車への関心を聞いてみると、まずは現状分析から始まった。「ヨーロッパの経済的・政治的背景から、メーカーは電動化を余儀なくされています。僕は必ずしも反対しませんが、強制的な移行はシティカー(Aセグメントなど)の消滅と相まって、価格の急上昇をもたらしています。同時にフランスではSUVの存在感も増しています」と話す。「いっぽうで美しい車が好きな僕としては、情熱的で走る喜びを与えてくれるモデルに、より興味があります」。参考までにその一例は、「マツダMX-5(日本名マツダ・ロードスター)」という。
クルマ以外のブノワ君に関して記せば、科学バカロレア(Baccalauréat=フランスの高校修了認証)を取得。医療機関で弱視・斜視などの検査・矯正に携わる視能訓練士の資格も手に入れた。
ところが先日パリを訪れてみると、ブノワ君は新たな世界に足を踏み入れていた。
プロの道を歩み始めていた
新たな世界とは、ヒストリックカーの内装修復業だ。といっても、即座に働き始めたわけではない。コンパニョン・ドゥ・ドゥヴォワで椅子張りの見習い中という。Compagnons du Devoirとは、中世フランスの徒弟制度に源流を辿ることができる職人研修制度である。
きっかけは、中学生時代に必修だった職業実習という。そのとき選んだのは、父親の友人が働く椅子張り工房だった。「家具とともに古いクルマの内装も手掛けていて、父はそこにシートの修復を依頼していたのです」。その後、前述の資格を取り、医療従事者の道を歩みかけたものの、工房での経験は忘れがたいものだった。「そこで改めて工房に入門を希望したところ、幸い引き受けてくれたのです」。2割は職業学校での授業、残りの約8割は現場作業だ。ときおり二輪車用サドルや船舶などもあるが、それ以外はヒストリックカーの内装修復に従事している。
勤務地はパリから約50キロメール西の町である。毎日クルマと公共交通機関を乗り継いで、2時間40分を費やす。ディディエさんは「ずいぶんと疲れるようです」と案じる。それでもブノワ君は椅子張り職人の奥深さを熱く語る。「伝統に基づいた手作業は、几帳面で厳格でなければなりません。いっぽうで、未知の状況に直面した場合、その解決策を見つける能力も必要です」
かくも父のクルマへの情熱は息子へ引き継がれ、それは職業として花開こうとしている。ディディエさんは数年前に定年を迎えた。もはやクルマ三昧の生活である。ブノワ君が修復した愛車のシートに親子で身を沈め、ドライブする日もやってくるに違いない。
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