対照的なスタイルのラウダとハント
ニキ・ラウダにとって、最大かつ最高のライバルは、やはりジェームス・ハントだった。
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このふたりの関係は、ロン・ハワード監督の映画『Rush(邦題:ラッシュ/プライドと友情)』のメインテーマにもなっていたので、現代でも多くの人が知るところだろう。あの映画では、一部脚色や誇張された部分もあった。とくにF3参戦時代からあらゆる面で激しく対立したというのは誇張された部分で、実際はレースでは激しく争っても、ともにアパートで同居したこともあるほどの仲であったという。
それでも、ラウダとハントは好対照なドライバーであったことは確かだ。
華やかで奔放な性格で、とても速く、優勝かクラッシュかというレーススタイルだったのがハント。一方、ラウダは真面目で理詰めで、速さもあったが、速さ以上のものを備えていた。それは「走るコンピューター」と言われたほどの緻密な計算高さだった。勝てるときは速さを活かして、勝つ。だが勝てそうもない状況なら、少しでも上位でフィニッシュして出来る限り多く得点を重ねるというやりかたをした。
臆することなく発言するという共通項
マシンに対するアプローチも異なっていた。ハントも勝つためにマシンについて勉強をした。だが、ラウダのマシンに対する技術的知識はハントのそれを上回っていた。
ただ、あまりに技術的知識が豊富なゆえ、フェラーリ時代にはテクニカルディレクターのマウロ・フォルギエリから疎まれたときもあったほど。絶対的なトップであるエンツォ・フェラーリの前でも「このマシンはクソだ」と、臆することなく言ってしまったのがラウダだった。
臆することなく物を言うのは、ハントも同じだった。ふたりは現役を引退した後にテレビの解説者になったが、ともに奔放かつ辛辣な発言でそれぞれの放送局で物議を醸したこともあった。
ライバルだが友人同士だったふたり
似ているところもあれば、真逆なところもある。しかもハントが1947年生まれ、ラウダが1949年生まれと、年齢も2歳しか違わない。ラウダが短期間参戦した英国F3ではともに戦った。F1のデビューはラウダが1971年(フル参戦は1972年)、ハントが1973年と、やはり近かった。当然のように意識し合うふたりにならざるを得なかった。
ラウダが頭角を現したのはフェラーリに移籍した1974年、その年のスペインGPで初優勝を記録した。ハントが頭角を現したのはヘスケスチームでデビューした翌年。やはり1974年のことだった。 1975年ラウダはフェラーリで7勝を挙げて初のワールドチャンピオンを獲得。この年、ハントもヘスケスを駆ってオランダGPで初優勝していた。
翌1976年、ラウダはフェラーリで王座防衛の立場。ハントは有力チームだったマクラーレンに移籍して、ラウダへと挑む立場になった。前半戦はラウダが4勝し優勢だった。ハントも2勝を挙げてそれに応酬する。
映画『ラッシュ』ではこの頃のラウダとハントが、激しく対立するように描かれていた。が、実際はやはり仲良しでもあった。ピットでハントがラウダのフェラーリのコクピットに乗り込んで、それにラウダがパンチを食わせるようなジェスチャーをとって、ふたりも周囲も笑顔という場面もあった。
怪我からの復帰を後押ししたライバルの存在
ドイツGPでラウダは瀕死の重傷を負う。そのドイツGPとオランダGPでハントが優勝。ラウダは頭部を中心に重度の火傷を負い、肺の中まで熱傷になっていた。治療の中で一番辛かったのは「肺の中にたまった膿をポンプで吸い出すことだった」と、後にラウダは自伝にも記している。それでもラウダは辛い治療に耐え、わずか6週間後のイタリアGPで復帰した。これはハントの存在が大きかったという。
ハントはカナダGPとアメリカGPでも連勝。前半戦でため込んだラウダのポイントリードはわずかになった。そして、富士スピードウェイでの最終戦、ラウダが大雨を理由に棄権する一方で、チャンピオン獲得には勝つしかないハントはレースを続行。結果、ラウダがリタイア、ハントが3位で、わずか1点差でハントの逆転チャンピオンとなった。
ハントを追うように引退を決めたラウダ
だが、ふたりの戦いは翌年も続き、マシンでも優ったラウダがチャンピオンの座を奪い返した。
1978年ラウダは、アルファロメオエンジンを搭載したブラバムに移ったが、2勝に終わった。ハントはマクラーレンのままだったが未勝利と、ともにやや苦戦だった。1979年、マクラーレンの相対的戦闘力はさらに下がり、さらに苦しい戦いとなったハントはモナコGPで、突如引退してしまった。
すると、ラウダもまた、この1979年終盤のカナダGPの週末のプラクティスのあと引退を決め、マシンを降りてしまった。ラウダはすでに航空会社の仕事始めており、「そちらに力を入れたかった」と後に説明した。だが、ともに切磋琢磨して戦う相手がいなくなったことで、レースへの意欲が薄れてしまったのだろう。
復帰のチームメイトは若く勢いのあるプロスト
1981年ラウダはマクラーレンからF1に復帰する。そして、1984年にはルノーからアラン・プロストが加入してきた。ここでラウダは「ふたたびモチベーションを得た」と後に語っていた。
プロストは1980年にマクラーレンでF1にデビュー。翌年1981年に祖国フランスのルノーチームに移籍すると、持ち前の速さで3勝を挙げ、ランキング5位につけた。1982年には2勝ながらもランキング2位。そして、1983年にはブラバム・BMWのネルソン・ピケと激しく争い、4勝を挙げたものの終盤戦にマシンの信頼性が不足し、王座を逃していた。
新たなモチベーションを得たラウダ
「マシンに乗っているときのアランは最高の男だけど、マシンから降りて口を開くとサイテーの男になる」とは、当時のルノー・チームの広報担当の言葉。ラウダやハントと同様に、プロストもまたはっきりと言いすぎるタイプだった。
そして、プロストの理詰めでマシンを創りあげようとする姿勢もまた、ラウダに似ていた。ポールポジション獲得が多い点は、若い頃のラウダのようでもあった。1984年にマクラーレンにプロストが来たとき、エースのラウダは自分に似たタイプのドライバーに興味をひかれたという。
加入早々、プロストは目覚ましい速さを見せる。 「新たなモチベーションが生まれた」と、ラウダは打倒プロストに燃える。
ラウダは10戦で完走し、5勝。2位4回、4位1回。プロストは11戦で完走し、無得点の7位1回(当時は6位までが入賞だった)、4位1回、3位1回、2位1回、優勝7回。ともに高効率な得点の重ね方だった。結果はラウダがプロストに対して0.5点差でチャンピオンとなった。プロストはモナコGPでの1勝がレース中断で正規の半分のポイントである4.5点しか獲れなかったことが災いしていた。
ラウダの戦い方を継承したプロフェッサー
「来年は君がチャンピオンになる番だ」。ラウダは最終戦のポルトガルGPの表彰台でプロストにこう言ったという。そしてその言葉通り、プロストは1985年に初のチャンピオンとなった。
新王者プロストの戦い方は、得点にはならないポールポジションの速さを追求するのではなく、決勝での勝利と高得点をより重視するという戦い方になっていた。まさに「走るコンピューター」、ラウダの戦いかたを継承していた。
ラウダはプロストが自分の後継者となったことを見届けた傍ら、また航空会社のビジネスとキャプテンとして飛ぶことの方に意欲を燃やしていた。そして、ラウダはF1ドライバー人生2度目で、最後の引退をした。
ライバル以上の存在だったハントという男
ラウダの性格は、ライバルがいるとより燃えるという、生粋のアスリートだった。プロストしかり、ハントしかり。強力なライバルの出現がラウダをより高めていた。だが、ハントの存在はラウダにとってこうしたライバルの域をさらに超えていたようだ。
フェラーリ時代のラウダは煙草を吸わなかった。「人生を灯された1本のロウソクにたとえるなら、タバコはもう一方の端からも火をつけるようなものだ」としていたほどだった。だが、後年のラウダはヘビースモーカーとして知られている。ヘビースモーカーというと、かつてラウダのすぐそばにいた。ハントだった。
「私は誰からも影響を受けたことはないと思っている」。 こう言ったラウダだったが、人生を謳歌するという点では、ハントからかなりのことを学んだとも語っていた。
ハントはラウダよりも早く、1993年に45歳で他界してしまった。そして今、ラウダの人生のロウソクも消えてしまった。ライバルであり、親友であり、互いに茶化しあい、互いに伸ばしあい、互いに影響しあったふたりの魂は、再会の時を迎えているかもしれない。
TEXT/小倉茂徳(Shigenori OGURA)
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